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お嬢様、その恋はコンプライアンス違反です。  作者: 汐瀬うに


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18/20

18.もう女の子じゃない

 玄関へ下りると、奏多さんはすでにパパと話をしていた。


 オールバックにまとめた髪のせいだろうか。濃いグレーのタキシードを着た奏多さんは普段の柔和な雰囲気を消し去り、近寄りがたいほどに整って見える。それでも私に気づくと、いつもの爽やかな笑顔を浮かべる。


「お待たせしました」


「いえ。僕も今来たところですから」


 奏多さんの視線が、私の顔からドレスへゆっくりと下りていく。


 肩の出るデザインの濃紺のドレスは、ママが大人っぽく見えるようにと選んでくれた。髪もいつもより低い位置でまとめてもらい、耳元では3連のダイヤモンドピアスが揺れている。


「とてもお綺麗ですよ」


 迷いのない言葉に、頬が少し熱くなった。


「ありがとうございます。奏多さんも素敵です」


「雪奈さんにそう言っていただけるなら、今夜の支度をした甲斐がありました」


 奏多さんが、私の腕に欠けていたコートをさらりと手に取る。そのまま私が腕を通しやすいように広げてくれた、そのときだった。


「ただいま戻りました」


 背後から聞き慣れた声がして、振り返る。


「倫ちゃん!」


 病院から帰ってきた倫ちゃんが、玄関へ入ってきた。


 私の姿を見た瞬間、革靴の音が止まる。


 倫ちゃんの視線が、顔から肩へ落ちた。露出した肌をなぞるように一瞬だけ下がり、次に、私の背中へコートを掛けようとしている奏多さんの手へ向く。


「おかえり、倫ちゃん」


「……ただいま戻りました」


「どう? 今日の私」


 聞くつもりはなかったのに、顔を見たら勝手に口から出てしまった。


「どう、とは」


「ドレス。似合ってる?」


 倫ちゃんの唇が、わずかに開く。けれど、答えは返ってこない。


「雪奈さん、腕を」


「あっ、はい」


 奏多さんに促され、コートへ袖を通す。肩まで包まれたところで、奏多さんは襟元を丁寧に整えてくれた。


「先ほども申し上げましたが、とても似合っています」


「ありがとうございます」


 倫ちゃんは、まだ何も言わない。


 聞かなければよかったかな。


 胸の奥へ小さな引っかかりが残ったけれど、今日はそれを追及するために出かけるのではない。


「倫ちゃんも、あとで来るんだよね?」


「院長の代理として伺います」


「じゃあ、会場でね」


「……ええ」


 奏多さんが私へ手を差し出す。


 その手へ重ねると、倫ちゃんの視線が手元へ落ちた。


「行ってきます」


「お気をつけて」


 低い声だった。


 何を考えているのかは、やっぱり分からない。


 私は奏多さんと一緒に、玄関の扉を出た。


 ***


 車が宝生家を離れ、住宅街の明かりが窓の外を流れ始める。


 奏多さんは、今夜の会場や参加者について簡単に説明してくれた。私が相槌を打てば話を続け、黙れば無理に会話を探そうとはしない。


 その気遣いに甘えて、また伝えるのを先延ばしにしてはいけない。


「奏多さん」


「はい」


「今日は、最初にお話ししておきたいことがあります」


 奏多さんが、静かにこちらを向いた。


「伺います」


 膝の上へ置いたクラッチバッグを、両手で包む。


 傷つけずに断る方法はない。


 だから、曖昧な言葉で逃げない。


「私が好きなのは、倫ちゃんです」


 奏多さんは何も言わなかった。


「何度考えても、そこは変わりませんでした」


「……はい」


「奏多さんのことは、素敵な人だと思っています。一緒にいて楽しかったし、私の話を聞いてくれたことも、本当に嬉しかったです」


 それでも、好きにはなれない。


 その一番大切な部分を、言葉の中へ隠してはいけない。


「だから、もう私のことを待たないでください」


 車内へ、低い走行音だけが残った。


 奏多さんはすぐに笑わなかった。


 窓の外へ目を向け、少しの間、黙っている。


 その横顔を見ていると、胸が痛んだ。


 けれど、痛むからといって、答えを変えることはできない。


「……分かりました」


 やがて、奏多さんがこちらを見る。


「きちんと伝えてくださって、ありがとうございます」


「ごめんなさい」


「謝らないでください。僕が自分で選んだことです」


「でも、私は最初から——」


「雪奈さんが榊先生を好きなことは、分かったうえで近づきました」


 奏多さんは、少しだけ苦く笑った。


「ですから、今日の答えまであなたに責任を負わせるつもりはありません」


「ありがとうございます」


「ただ、一つだけ」


「はい」


「もう、雪奈さんの返事を待つことはしません」


 その言葉へ胸を撫で下ろしかけた私を見て、奏多さんの目元がわずかに緩んだ。


「ですが、僕が雪奈さんを好きでいることまで、やめるとは約束できません」


「えっ」


「これ以上、返事を求めたりはしません。困らせるような誘い方もしない」


「でも……」


「雪奈さんが榊先生を好きでいる自由があるように、僕にも、誰かを好きでいる自由はあるでしょう?」


 そう言われると、否定はできない。それは倫ちゃんに向けている私の感情、そのものだから。


「いつか雪奈さんの気持ちが変わったとき、僕がまだ同じ気持ちなら、そのときはもう一度だけ誘います」


「変わらないと思います」


「ええ。そうかもしれません」


 奏多さんは穏やかに笑う。


「その場合は、僕が自分で諦めます」


「奏多さん……」


「今日のところは、きちんと断られた男性と、きちんと断った女性として、最後まで仲良くしていただけますか?」


 わざと改まった言い方に、張り詰めていた息が抜けた。


「はい。よろしくお願いします」


「こちらこそ」


 気まずさを消してくれたことに、もう一度心の中でお礼を言った。


 ***


 晩餐会の会場は、都内のホテルにある大宴会場だった。


 挨拶と食事が一段落した頃、照明が少し落ち、壇上の楽団がゆったりとした曲を奏で始める。


 会場の中央へ、何組かの男女が進み出た。


「ダンスもあるんですね」


「参加は自由です」


 奏多さんはそう答えながら、私へ手を差し出した。


「よろしければ、一曲だけお願いできますか?」


「私、社交ダンスはあまり得意じゃなくて」


「僕が合わせます」


 一瞬だけ迷った。


 けれど、奏多さんへはもう答えを伝えている。


 これは今日の同伴者としての、一曲だ。


「お願いします」


 差し出された手へ、自分の手を重ねた。


 フロアへ進むと、奏多さんのもう片方の手が腰へ添えられる。


 想像していたより近い。


「奏多さん」


「はい」


「近くないですか?」


「踊るためには、このくらいです」


 周囲を見れば、ほかの男女も同じような距離で向き合っている。


「これが普通……」


「嫌でしたら、離れます」


 奏多さんの手からすぐに力が抜ける。


 拒めば離してくれる。そのことが分かり、肩へ入っていた力も少し抜けた。


「大丈夫です。普通なら」


「では、右から動きます。僕の足に合わせてください」


「はい」


 最初の数歩は何とかついていけた。


 けれど、身体の向きが変わった瞬間、次にどちらの足を出すのか分からなくなる。


「あっ」


 ヒールが床へ引っかかり、身体が傾いた。


 腰を支える腕へ力が入り、奏多さんの胸元へ引き寄せられる。


「大丈夫ですか?」


「すみません」


「謝らなくて結構です。僕が合わせると言ったでしょう?」


 奏多さんが顔を寄せ、耳元へ小さな声を落とす。


「次は左です。足元ばかり見なくて大丈夫」


「でも、踏みそうで」


「踏まれても耐えます」


「それは嫌です」


「では、僕を見てください」


 大げさな言い方に、思わず笑った。


 顔を上げる。


 その向こう、会場の端に立つ倫ちゃんが見えた。


 パパの隣にいる。


 けれど、パパは誰かと話をしているのに、倫ちゃんはこちらだけを見ていた。


 目が合う。


 表情はいつもと変わらない。


 ただ、手にしたグラスを握る指だけが、白くなるほど強く曲がっていた。


「雪奈さん、こちらです」


 奏多さんに導かれ、身体の向きが変わる。


 倫ちゃんの姿が視界から外れた。


「今度は上手くできました」


「本当ですか?」


「ええ。もう少し肩の力を抜けば、もっと楽に踊れます」


「倫ちゃんには、いつも足元を見ろって言われるのに」


「榊先生は、転ばせないことを優先しているのでしょう」


「奏多さんは違うんですか?」


「僕は、雪奈さん自身に踊れるようになってほしいと思っています」


 奏多さんの手が、もう一度私の身体をゆっくりと導く。


「もちろん、転びそうになれば支えます」


「はい」


「ですが、転ぶ可能性があるからといって、最初から踊らせないつもりはありません」


 ダンス以外のことも言われているような気がした。


 曲が終わり、奏多さんの手が腰から離れる。


 最後まで礼儀正しく、必要以上には触れなかった。


「ありがとうございました」


「こちらこそ。楽しかったです」


 顔を上げると、倫ちゃんはまだ同じ場所にいた。


 けれど今度は、こちらを見ていることを隠そうともしなかった。


 ***


 ぼんやりと見つめていた視線の先で、雪奈が支援団体の関係者に呼ばれ、御子柴の隣を離れた。


 その姿を見届けた倫太郎は、手にしていたグラスをテーブルへ戻す。それから、自分でも理由を整理できないまま、本日最大の壁の前へ立った。


「榊先生」


 は、来ると分かっていたような顔で倫太郎を迎えた。


「雪奈さんは、ダンスに慣れていません」


「ええ。ですから、彼女の動きに合わせました」


「必要以上に、距離が近かったように見えました」


「ダンスですから」


 御子柴の答えに迷いはない。


「腰へ触れる必要が?」


「あります。嫌なら離れると伝えたうえで、雪奈さんにも了承をいただきました」


 倫太郎は何も返せなかった。


 彼の行動に、非難できる点は一つもない。


 雪奈は嫌がっていなかった。


 むしろ、その言葉に笑い、教えられながら少しずつ足を動かしていた。


「雪奈さんには、先ほど正式に断られました」


 俯きながら、御子柴は静かに告げる。倫太郎は誰にも気づかれないほど小さく、息を吐いた。


「……そうですか」


「安心しましたか?」


「いえ、私には関係ありませんので」


「まだ、それを言うんですね」


 腕を組んだ御子柴の表情から、柔らかな笑みが消える。


「ですが、あなたが選ばれたわけではありませんよ」


 倫太郎の目が、挑発的なその声の先へ向く。


「たまたま、今はあなたが目の前に居ただけです」


「何が言いたいんですか」


「あなたは、彼女が自分を好きでいるかぎり、何も決めなくていいと思っている」


「そのようなことは——」


「好意には応えない。それでも、ほかの男が触れれば不愉快になる、と」


 言葉を紡ぎながら、御子柴は一歩、距離を縮める。


「……それは随分、都合がよくありませんか?」


 倫太郎の指へ、力が入る。握られた拳が倫太郎の感情をむき出しにしているのに、倫太郎はそれを隠す余裕すら無くしていた。


「私は、雪奈さんのために距離を置いています」


「それは、本当に彼女のためですか? 傲慢なあなたの保身ではなく」


 御子柴は、一歩も引かない。


「彼女の気持ちへ応えたあと、何かあったときに責任を負えない。自分が宝生家から受けた恩を裏切ったと思いたくない」


「……」


「結局、傷つくのが怖いのはあなた自身だ」


 倫太郎の目が鋭くなる。


「あなたに何が分かるんです」


「分からないから、見えていることだけを申し上げています」


 ふっと余裕を見せて笑った御子柴は、会場の向こうへ視線を向けた。


 雪奈が、年上の女性たちに囲まれながら笑っている。


 背筋を伸ばし、自分の言葉で何かを話している。その姿に、いつもの無邪気さだけはない。


「雪奈さんは、もう子どもではありません」


「分かっています」


「いいえ」


 御子柴は静かに否定した。


「分かっていないから、そんな顔をしているんでしょう」


「そんな顔とは」


「自分の知らない女性を見るような顔です」


 言い当てられた感情に、喉が思わず上下に動く。


「彼女は、あなたが知らない場所でも人と出会い、自分で選べます」


 雪奈の方を柔らかな目で見つめていた御子柴の視線が、再び倫太郎へ戻った。


「あなたが彼女をいつまでも子どもとして遠ざけるなら、僕は一人の女性として向き合います」


 低く、迷いのない声だった。


「次に彼女の気持ちが揺れたとき、僕は迷いません」


 会場の向こうから、雪奈がこちらへと歩いてくる。


 御子柴はまるで何事もなかったように表情を和らげ、彼女へ歩み寄った。


「お話は終わりましたか?」


「はい。待たせてしまってすみません」


「いえ。次の方へご挨拶に参りましょう」


 御子柴が雪奈の肩より少し下の高さまで手を差し出す。雪奈は自然にその手を取った。


 そのまま、御子柴の空いた左手は彼女の背中へ軽く添えられる。それは晩餐会では、ごくありふれたエスコート。


 止める理由はない。止める、権利もない。


 そう分かっているはずなのに、倫太郎の内側へ、先ほどまで押し込めていた光景が浮かぶ。


 別の男に腰を抱かれ、近い距離で名前を呼ばれる雪奈。その男を見上げ、頬を染めて笑う姿。


 自分が夢の中でさえ止めた口づけを、いつか別の男には受け入れる可能性。


 守るために触れなかった。泣かせないために遠ざけた。けれど、自分が触れなければ、誰にも触れられないわけではない。


 雪奈はもう、彼の許可を待つ少女ではなかった。


 ふたり並んで遠ざかる背中を見つめながら、倫太郎の足が動く。


 何を言うのかも、どんな権利で止めるのかも、まだ決められていない。


 それでも今度は、ただ無関係な傍観者として見送ることだけはできそうになかった。

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