18.もう女の子じゃない
玄関へ下りると、奏多さんはすでにパパと話をしていた。
オールバックにまとめた髪のせいだろうか。濃いグレーのタキシードを着た奏多さんは普段の柔和な雰囲気を消し去り、近寄りがたいほどに整って見える。それでも私に気づくと、いつもの爽やかな笑顔を浮かべる。
「お待たせしました」
「いえ。僕も今来たところですから」
奏多さんの視線が、私の顔からドレスへゆっくりと下りていく。
肩の出るデザインの濃紺のドレスは、ママが大人っぽく見えるようにと選んでくれた。髪もいつもより低い位置でまとめてもらい、耳元では3連のダイヤモンドピアスが揺れている。
「とてもお綺麗ですよ」
迷いのない言葉に、頬が少し熱くなった。
「ありがとうございます。奏多さんも素敵です」
「雪奈さんにそう言っていただけるなら、今夜の支度をした甲斐がありました」
奏多さんが、私の腕に欠けていたコートをさらりと手に取る。そのまま私が腕を通しやすいように広げてくれた、そのときだった。
「ただいま戻りました」
背後から聞き慣れた声がして、振り返る。
「倫ちゃん!」
病院から帰ってきた倫ちゃんが、玄関へ入ってきた。
私の姿を見た瞬間、革靴の音が止まる。
倫ちゃんの視線が、顔から肩へ落ちた。露出した肌をなぞるように一瞬だけ下がり、次に、私の背中へコートを掛けようとしている奏多さんの手へ向く。
「おかえり、倫ちゃん」
「……ただいま戻りました」
「どう? 今日の私」
聞くつもりはなかったのに、顔を見たら勝手に口から出てしまった。
「どう、とは」
「ドレス。似合ってる?」
倫ちゃんの唇が、わずかに開く。けれど、答えは返ってこない。
「雪奈さん、腕を」
「あっ、はい」
奏多さんに促され、コートへ袖を通す。肩まで包まれたところで、奏多さんは襟元を丁寧に整えてくれた。
「先ほども申し上げましたが、とても似合っています」
「ありがとうございます」
倫ちゃんは、まだ何も言わない。
聞かなければよかったかな。
胸の奥へ小さな引っかかりが残ったけれど、今日はそれを追及するために出かけるのではない。
「倫ちゃんも、あとで来るんだよね?」
「院長の代理として伺います」
「じゃあ、会場でね」
「……ええ」
奏多さんが私へ手を差し出す。
その手へ重ねると、倫ちゃんの視線が手元へ落ちた。
「行ってきます」
「お気をつけて」
低い声だった。
何を考えているのかは、やっぱり分からない。
私は奏多さんと一緒に、玄関の扉を出た。
***
車が宝生家を離れ、住宅街の明かりが窓の外を流れ始める。
奏多さんは、今夜の会場や参加者について簡単に説明してくれた。私が相槌を打てば話を続け、黙れば無理に会話を探そうとはしない。
その気遣いに甘えて、また伝えるのを先延ばしにしてはいけない。
「奏多さん」
「はい」
「今日は、最初にお話ししておきたいことがあります」
奏多さんが、静かにこちらを向いた。
「伺います」
膝の上へ置いたクラッチバッグを、両手で包む。
傷つけずに断る方法はない。
だから、曖昧な言葉で逃げない。
「私が好きなのは、倫ちゃんです」
奏多さんは何も言わなかった。
「何度考えても、そこは変わりませんでした」
「……はい」
「奏多さんのことは、素敵な人だと思っています。一緒にいて楽しかったし、私の話を聞いてくれたことも、本当に嬉しかったです」
それでも、好きにはなれない。
その一番大切な部分を、言葉の中へ隠してはいけない。
「だから、もう私のことを待たないでください」
車内へ、低い走行音だけが残った。
奏多さんはすぐに笑わなかった。
窓の外へ目を向け、少しの間、黙っている。
その横顔を見ていると、胸が痛んだ。
けれど、痛むからといって、答えを変えることはできない。
「……分かりました」
やがて、奏多さんがこちらを見る。
「きちんと伝えてくださって、ありがとうございます」
「ごめんなさい」
「謝らないでください。僕が自分で選んだことです」
「でも、私は最初から——」
「雪奈さんが榊先生を好きなことは、分かったうえで近づきました」
奏多さんは、少しだけ苦く笑った。
「ですから、今日の答えまであなたに責任を負わせるつもりはありません」
「ありがとうございます」
「ただ、一つだけ」
「はい」
「もう、雪奈さんの返事を待つことはしません」
その言葉へ胸を撫で下ろしかけた私を見て、奏多さんの目元がわずかに緩んだ。
「ですが、僕が雪奈さんを好きでいることまで、やめるとは約束できません」
「えっ」
「これ以上、返事を求めたりはしません。困らせるような誘い方もしない」
「でも……」
「雪奈さんが榊先生を好きでいる自由があるように、僕にも、誰かを好きでいる自由はあるでしょう?」
そう言われると、否定はできない。それは倫ちゃんに向けている私の感情、そのものだから。
「いつか雪奈さんの気持ちが変わったとき、僕がまだ同じ気持ちなら、そのときはもう一度だけ誘います」
「変わらないと思います」
「ええ。そうかもしれません」
奏多さんは穏やかに笑う。
「その場合は、僕が自分で諦めます」
「奏多さん……」
「今日のところは、きちんと断られた男性と、きちんと断った女性として、最後まで仲良くしていただけますか?」
わざと改まった言い方に、張り詰めていた息が抜けた。
「はい。よろしくお願いします」
「こちらこそ」
気まずさを消してくれたことに、もう一度心の中でお礼を言った。
***
晩餐会の会場は、都内のホテルにある大宴会場だった。
挨拶と食事が一段落した頃、照明が少し落ち、壇上の楽団がゆったりとした曲を奏で始める。
会場の中央へ、何組かの男女が進み出た。
「ダンスもあるんですね」
「参加は自由です」
奏多さんはそう答えながら、私へ手を差し出した。
「よろしければ、一曲だけお願いできますか?」
「私、社交ダンスはあまり得意じゃなくて」
「僕が合わせます」
一瞬だけ迷った。
けれど、奏多さんへはもう答えを伝えている。
これは今日の同伴者としての、一曲だ。
「お願いします」
差し出された手へ、自分の手を重ねた。
フロアへ進むと、奏多さんのもう片方の手が腰へ添えられる。
想像していたより近い。
「奏多さん」
「はい」
「近くないですか?」
「踊るためには、このくらいです」
周囲を見れば、ほかの男女も同じような距離で向き合っている。
「これが普通……」
「嫌でしたら、離れます」
奏多さんの手からすぐに力が抜ける。
拒めば離してくれる。そのことが分かり、肩へ入っていた力も少し抜けた。
「大丈夫です。普通なら」
「では、右から動きます。僕の足に合わせてください」
「はい」
最初の数歩は何とかついていけた。
けれど、身体の向きが変わった瞬間、次にどちらの足を出すのか分からなくなる。
「あっ」
ヒールが床へ引っかかり、身体が傾いた。
腰を支える腕へ力が入り、奏多さんの胸元へ引き寄せられる。
「大丈夫ですか?」
「すみません」
「謝らなくて結構です。僕が合わせると言ったでしょう?」
奏多さんが顔を寄せ、耳元へ小さな声を落とす。
「次は左です。足元ばかり見なくて大丈夫」
「でも、踏みそうで」
「踏まれても耐えます」
「それは嫌です」
「では、僕を見てください」
大げさな言い方に、思わず笑った。
顔を上げる。
その向こう、会場の端に立つ倫ちゃんが見えた。
パパの隣にいる。
けれど、パパは誰かと話をしているのに、倫ちゃんはこちらだけを見ていた。
目が合う。
表情はいつもと変わらない。
ただ、手にしたグラスを握る指だけが、白くなるほど強く曲がっていた。
「雪奈さん、こちらです」
奏多さんに導かれ、身体の向きが変わる。
倫ちゃんの姿が視界から外れた。
「今度は上手くできました」
「本当ですか?」
「ええ。もう少し肩の力を抜けば、もっと楽に踊れます」
「倫ちゃんには、いつも足元を見ろって言われるのに」
「榊先生は、転ばせないことを優先しているのでしょう」
「奏多さんは違うんですか?」
「僕は、雪奈さん自身に踊れるようになってほしいと思っています」
奏多さんの手が、もう一度私の身体をゆっくりと導く。
「もちろん、転びそうになれば支えます」
「はい」
「ですが、転ぶ可能性があるからといって、最初から踊らせないつもりはありません」
ダンス以外のことも言われているような気がした。
曲が終わり、奏多さんの手が腰から離れる。
最後まで礼儀正しく、必要以上には触れなかった。
「ありがとうございました」
「こちらこそ。楽しかったです」
顔を上げると、倫ちゃんはまだ同じ場所にいた。
けれど今度は、こちらを見ていることを隠そうともしなかった。
***
ぼんやりと見つめていた視線の先で、雪奈が支援団体の関係者に呼ばれ、御子柴の隣を離れた。
その姿を見届けた倫太郎は、手にしていたグラスをテーブルへ戻す。それから、自分でも理由を整理できないまま、本日最大の壁の前へ立った。
「榊先生」
は、来ると分かっていたような顔で倫太郎を迎えた。
「雪奈さんは、ダンスに慣れていません」
「ええ。ですから、彼女の動きに合わせました」
「必要以上に、距離が近かったように見えました」
「ダンスですから」
御子柴の答えに迷いはない。
「腰へ触れる必要が?」
「あります。嫌なら離れると伝えたうえで、雪奈さんにも了承をいただきました」
倫太郎は何も返せなかった。
彼の行動に、非難できる点は一つもない。
雪奈は嫌がっていなかった。
むしろ、その言葉に笑い、教えられながら少しずつ足を動かしていた。
「雪奈さんには、先ほど正式に断られました」
俯きながら、御子柴は静かに告げる。倫太郎は誰にも気づかれないほど小さく、息を吐いた。
「……そうですか」
「安心しましたか?」
「いえ、私には関係ありませんので」
「まだ、それを言うんですね」
腕を組んだ御子柴の表情から、柔らかな笑みが消える。
「ですが、あなたが選ばれたわけではありませんよ」
倫太郎の目が、挑発的なその声の先へ向く。
「たまたま、今はあなたが目の前に居ただけです」
「何が言いたいんですか」
「あなたは、彼女が自分を好きでいるかぎり、何も決めなくていいと思っている」
「そのようなことは——」
「好意には応えない。それでも、ほかの男が触れれば不愉快になる、と」
言葉を紡ぎながら、御子柴は一歩、距離を縮める。
「……それは随分、都合がよくありませんか?」
倫太郎の指へ、力が入る。握られた拳が倫太郎の感情をむき出しにしているのに、倫太郎はそれを隠す余裕すら無くしていた。
「私は、雪奈さんのために距離を置いています」
「それは、本当に彼女のためですか? 傲慢なあなたの保身ではなく」
御子柴は、一歩も引かない。
「彼女の気持ちへ応えたあと、何かあったときに責任を負えない。自分が宝生家から受けた恩を裏切ったと思いたくない」
「……」
「結局、傷つくのが怖いのはあなた自身だ」
倫太郎の目が鋭くなる。
「あなたに何が分かるんです」
「分からないから、見えていることだけを申し上げています」
ふっと余裕を見せて笑った御子柴は、会場の向こうへ視線を向けた。
雪奈が、年上の女性たちに囲まれながら笑っている。
背筋を伸ばし、自分の言葉で何かを話している。その姿に、いつもの無邪気さだけはない。
「雪奈さんは、もう子どもではありません」
「分かっています」
「いいえ」
御子柴は静かに否定した。
「分かっていないから、そんな顔をしているんでしょう」
「そんな顔とは」
「自分の知らない女性を見るような顔です」
言い当てられた感情に、喉が思わず上下に動く。
「彼女は、あなたが知らない場所でも人と出会い、自分で選べます」
雪奈の方を柔らかな目で見つめていた御子柴の視線が、再び倫太郎へ戻った。
「あなたが彼女をいつまでも子どもとして遠ざけるなら、僕は一人の女性として向き合います」
低く、迷いのない声だった。
「次に彼女の気持ちが揺れたとき、僕は迷いません」
会場の向こうから、雪奈がこちらへと歩いてくる。
御子柴はまるで何事もなかったように表情を和らげ、彼女へ歩み寄った。
「お話は終わりましたか?」
「はい。待たせてしまってすみません」
「いえ。次の方へご挨拶に参りましょう」
御子柴が雪奈の肩より少し下の高さまで手を差し出す。雪奈は自然にその手を取った。
そのまま、御子柴の空いた左手は彼女の背中へ軽く添えられる。それは晩餐会では、ごくありふれたエスコート。
止める理由はない。止める、権利もない。
そう分かっているはずなのに、倫太郎の内側へ、先ほどまで押し込めていた光景が浮かぶ。
別の男に腰を抱かれ、近い距離で名前を呼ばれる雪奈。その男を見上げ、頬を染めて笑う姿。
自分が夢の中でさえ止めた口づけを、いつか別の男には受け入れる可能性。
守るために触れなかった。泣かせないために遠ざけた。けれど、自分が触れなければ、誰にも触れられないわけではない。
雪奈はもう、彼の許可を待つ少女ではなかった。
ふたり並んで遠ざかる背中を見つめながら、倫太郎の足が動く。
何を言うのかも、どんな権利で止めるのかも、まだ決められていない。
それでも今度は、ただ無関係な傍観者として見送ることだけはできそうになかった。




