19.当事者たちの夜
手を伸ばしても届かない距離。その先で、雪奈は御子柴と共に、会場の輪の中へ戻っていく。
御子柴の手は、雪奈の背中へ添えられていた。人の流れから守り、進む方向を示すためのごく自然なエスコート。
他の男は無理だと言っていた雪奈は、嫌がっていない。むしろ、何か話しかけられるたびに顔を上げ、奏多へ笑い返している。その光景からは、一瞬たりとも目が離せない。
一度躊躇した倫太郎の足は簡単には前へ進まず、ただ若いふたりの背中をぎらついた視線で追いかける。脳内では何度もこうなることを理解していたのに、にこやかに見送ることなど到底できるはずもなかった。
「お、倫太郎くん」
不意に、隣にいた院長から呼ばれ、倫太郎はようやく視線を戻した。いつの間にか、首筋にはベタつく汗をかいている。
「……何でしょうか」
「いや。さっきから、随分と怖い顔をしているから、ねぇ」
「そうでしょうか」
「うん。今にも雪奈を捕まえて外へ出ていきそうだよ」
院長は、倫太郎が見ていた方角へ目を向けた。
雪奈は御子柴と並び、支援団体の代表者らしい年配の女性と話している。最初は少し緊張していたものの、二、三言会話を進めるとすぐに表情が和らいだ。
何かを尋ねられ、雪奈が自分の言葉で答える。御子柴は穏やかに微笑むだけで、隣から口を挟まない。ただ雪奈の話が終わったあとで、相手へ短く補足する。彼女の言葉を奪うのではなく補う姿に、院長は小さく笑った。
「御子柴くんは、よく気がつく青年だね」
院長が穏やかに言う。
「……そうですね」
正直言って、御子柴を否定する材料はなかった。
移動の度に雪奈の歩幅に合わせて進み、人とぶつかりそうになれば壁になったり、自然に立ち位置を入れ替える。話しかけられれば、雪奈自身が会話の輪の中へ入れるように紹介する。
それは、どれも倫太郎が普段していることと大きくは変わらない。
ただ御子柴は、雪奈を守るべき女の子としてではなく、自分の隣へ立つ一人の女性として扱っていた。
「縁談の話を持ってきたのは、御子柴家からだったんですか?」
口にしてから、聞く必要のないことだったと思った。倫太郎が珍しく雪奈を話題にしたことで、院長は何度も瞬きする。
「そうだよ。急にどうしたんだい?」
「一般的な確認です」
「一般的な確認で、相手まで聞くかなぁ」
院長は面白そうに倫太郎の顔を覗き込んだけれど、それ以上追及はしなかった。
「御子柴家のことも、彼本人のことも、悪くは思っていないよ。誠実だし、雪奈を大事にしてくれそうだし」
喉が閉まるように詰まる。御子柴の子息が信用できない男ならよかった。
雪奈へふさわしくない理由がひとつでもあれば、それを根拠に近づくなと言えたかもしれない。
だが、彼は礼儀正しく、雪奈の意思を尊重し、今夜も何ひとつ間違った行動をしていない。
「ただ——決めるのは雪奈だからね」
院長はグラスへ視線を落としながら言葉を続ける。
「親の私たちでも、本人の気持ちには口を出せないよ」
その言葉は、倫太郎が何度も口にしてきたものと、ほとんど同じだった。
雪奈が決めること。
自分は当事者ではない。
そうやって線を引いてきた結果、今の倫太郎には、奏多の手を止める理由も、立場も、残されていなかった。
会場の向こうで、雪奈がくくくと笑う。口元へ手を添える、少し大人びた笑い方だった。
倫太郎の知る雪奈は、感情を隠さない。嬉しければ飛び跳ね、嫌なら頬を膨らませ、倫太郎を褒めるときだけは周囲の視線を忘れる。
だが今夜の彼女は、背筋を伸ばし、ドレスの裾を揺らしながら、倫太郎の知らない人々と自然に話している。御子柴の隣に立つ姿は、少しも不釣り合いには見えなかった。
「御子柴さんと宝生さん、よくお似合いでしたね」
近くを通った女性の声が耳へ入った。誰に向けた言葉なのかは分からない。それでも、その一言だけが不自然なほど鮮明に残った。
お似合い。
倫太郎がそう見えるはずはないと思っても、二人を見た周囲の人間には、そのように映っている。
雪奈にも、聞こえたのかもしれない。
だがそれを慌てて否定する様子はなかった。御子柴が耳元で何か囁くと、少し困ったように笑い、それからまた話し相手へ向き直った。
体中が、鈍く軋む。
御子柴には正式に断りを入れたと聞いた。それなのに、二人が一組として扱われるだけで、落ち着いて見ていられない。
雪奈が好きなのは自分だと、自惚れていた。
自分には関係ない。何度もそう言い聞かせた言葉が、今夜は何の役にも立たなかった。
やがて、壇上近くに設けられた記念撮影用のパネルの方から、ふたりに声がかかった。
「御子柴様、宝生様。よろしければ、こちらで一枚お願いいたします」
二人が並んで撮影スペースへ進む。
雪奈は一度足元を確認し、ドレスの裾を踏まないよう慎重に歩いている。その歩みを御子柴は決して急かさず、彼女が位置につくまで隣で待った。
カメラマンが二人をファインダー越しに確認する。
「もう少しだけ、中央へ寄っていただけますか」
御子柴が雪奈へ何か尋ねる。雪奈は小さく頷き、自分から一歩近づいた。二人の肩の間にあった空間が狭くなる。
「ではそのまま、御子柴様は宝生様の腰へ手を添えていただけますか」
カメラマンの無機質な指示が、倫太郎の鼓膜に響く。
了承を求めるようなその目に、雪奈は一瞬だけ目を丸くした。けれど、周囲の目線を確認してから——照れたように小さく頷いた。
甘い顔つきに似つかわしくない御子柴の男らしい手が、雪奈の細い腰へと伸びていく。濃紺の生地に、指先が触れる。
その、寸前だった。
「雪奈さん」
気がつけば、声が鼓膜を震わせていた。自分の喉から出たものだとは、すぐには信じられなかった。
撮影を待つ人々のざわめきの中で、その呼びかけだけが不自然に響く。特段大きくもない声だったけれど、雪奈は勢いよく倫太郎の方を向いた。
「倫ちゃん?」
目が合った途端、雪奈の顔には明るさが戻る。赤らめた頬も、うるうると輝く瞳も、その全てが真っ直ぐ倫太郎に向いている。
その期待を見た瞬間、ためらっていたはずの足はその場を離れ、雪奈の方へ一直線に向かっていた。
「少し、お話があります」
「い、今?」
倫太郎が話しかけたことで嬉しそうにしながらも戸惑う雪奈の間へ、黙ってみていた御子柴が静かに割って入る。
「榊先生。申し訳ありませんが、今夜、雪奈さんは僕の同伴者として来ています。それは、今すぐ話さなければいけない急用ですか?」
正しい。
御子柴の言うことは何ひとつ、間違いがない。
雪奈は不安そうにふたりを見比べている。
「倫ちゃん?」
その状況をなんとか理解しようと首を傾げて倫太郎を見つめる目には、まだ僅かな期待が浮かんでいる。
今なら、駄目ですと言って連れ出せばいい。
理由は、後から考えればいい。
けれどそれは彼女のためではなく、自分が御子柴に触れられる彼女の姿を見たくないだけの、勝手な独占欲だということもわかっていた。
婚約者でも、恋人でもない自分が、どんな立場でそれを彼女に押し付けるのか。
「……いえ」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほどに掠れていた。
「撮影を、続けてください」
伸ばしかけた手から、力を抜く。今ならまだ、引き返せる。そう信じて見送った雪奈は、ふわりと眉尻を下げて微笑んだ。
「……わかった。じゃあ、あとでね」
雪奈の顔から、すっと期待の光が消えていく。一瞬の表情が、倫太郎の胸を深く抉るような傷を残す。
以前の雪奈なら、撮影なんて関係ないと追いかけてきただろう。けれど、何も選べない倫太郎を置いて、今の雪奈は自分で選んだ場所へ向かって歩き出している。
雪奈の了承を得て、御子柴は改めてドレスの腰へ手を添える。それに続いてフラッシュが白く光った。
自分から割って入ったのに、何ひとつ告げられずに敗走した。その完敗の事実が、眩しい光に照らされて際立つ。
撮影が終わると、雪奈は御子柴とともに、次の参加者のもとへ向かった。倫太郎へ「あとで」と言ったまま、戻ってこない。
声をかけられれば笑い、紹介されれば自分の言葉で話す。他の男の隣で、何の不自然さもなく立っている。
少し前までの雪奈は、倫太郎から褒め言葉を引き出すためなら、何度でも正面へ回り込んできた。今夜も、ドレスが似合うかと尋ねられた。
倫太郎は答えなかった。
それでも雪奈が自分だけを好きでいるだろうと、どこかで甘えていた。
何を返さなくても。何も選ばなくても。雪奈は変わらず、同じ場所で待ってくれているのだと。
「榊先生」
撮影が終わり、御子柴が一人でこちらへ戻ってきた。雪奈は少し離れた場所で、年配の女性と楽しそうに会話していた。
「何のつもりですか」
御子柴の低い声に、倫太郎は表情を崩さなかった。崩せば、二度と取り繕えない気がした。
「先ほども申し上げましたが、あなたが選ばれたわけではありません。彼女が自分を好きでいる間だけは、何も決めなくていい。そう思っていませんか?」
「そのようなことは——」
「では、なぜ彼女の気持ちへ答えないんですか」
鋭い刃のような言葉が、倫太郎を追い詰める。
「引き止める言葉は与える。けれど、関係を選ぶことはしない。それで、いつまで彼女を待たせるおつもりですか」
「……あなたには関係ない」
「いいえ、僕も彼女を好きです。十分に当事者だ」
自分が安全圏へ隠れるために使ってきた境界線が、今度は自分を締め出す折りのようになって帰ってくるとは。
「彼女はもう子供ではありません。あなたが彼女を女の子として遠ざけるなら、僕は一人の女性として向き合います。次に彼女の気持ちが揺らいだら、僕はもう逃したりしない」
御子柴は最後まで声を荒げず、淡々と言葉を続けた。だからこそ、その静かな宣戦布告には一切の逃げ場がない。
「……雪奈さんが病棟へ来る理由に、自分が含まれていてもいいと伝えたそうですね」
「なぜ、それを」
「雪奈さんが、嬉しそうに話していましたから」
どろりとした黒い感情が、体の隅々へ、音を立てて広がっていく。
特別だった言葉が、もう御子柴の耳に届いている。共有されている。その事実は、吐き気がするほどに不快だった。
「ですが、今夜の雪奈さんと僕の間に、あなたは関係ありません。当事者でない方は、口を出さないでください」
息が止まった。院長から雪奈の縁談について聞かれたとき、倫太郎は不幸にも同じ言葉を使った。
「……僕たちには、僕たちなりの距離と時間があります」
御子柴は一度だけ、雪奈へ視線を向けた。
「今夜くらい、あなたの許可を必要としない彼女自身を、そのまま見ていてはどうですか」
倫太郎の言葉を待たず、御子柴は軽快に立ち去る。その堂々とした足取りを見つめる倫太郎の視界は、怒りと焦燥で狭まっていた。
当然ながら雪奈は、倫太郎のものではない。最初から、一度だってそうだったことはない。
それなのにあの無垢な好意に甘え、自分が手を伸ばさないかぎり、彼女はずっと同じ場所で健気に待ってくれると信じ込んでいた。
けれど、雪奈はもう倫太郎の背中を追う少女ではない。それを今、目の当たりにしている。
自分の意思で別の男の手を取り、自分の知らない場所へ進んでいく。
奪われるのではない。何も選ばない倫太郎を置いて、自分から離れていくのだ。
他の男に触れられることなど比ではない。雪奈が自分を必要としなくなり、自分の手の届かないところへ消えていく。
その現実が、たまらなく恐ろしかった。
一瞬、視線が交差する。彼女の足が、何かを待つように僅かに止まった。
呼べ。今なら間に合う。先ほど言えなかった醜い本音を、今すぐに伝えろ。
そう脳内がどれほど怒号をあげても、倫太郎の喉は硬く閉ざされたまま、細い息を吸い込むことしかできなかった。
数歩先にいる御子柴に呼ばれ、雪奈が前を向く。
今度はもう、振り返らない。
倫太郎は、別の男の隣を選んで歩き出した雪の背中を、ただ暗い絶望の中で見送ることしかできなかった。
***
一通りの挨拶を終えると、奏多さんが私へ手を差し出した。
「雪奈さん。よかったら、向こうのテラスで少し休みませんか」
「ええ……正直いうと、少し疲れてしまいました」
素直に返事をして、差し出された手を取ろうとした時だった。
弱めの空調で冷えた手のひらを溶かしそうな熱が、手首から伝わる。それが倫ちゃんの手だと分かったのは、あのアンバーの香りがふわりと立ち上ったからだった。
「えっ」
そのまま手を強く引かれ、身体が反対側へ傾く。ヒールで踏ん張る間もなく、私は倫ちゃんの胸元へぶつかっていた。
「倫ちゃん?」
顔を上げても、倫ちゃんはこちらを見ない。
私の手首を掴んだまま、奏多さんとの間へ身体を入れる。黒いタキシードに包まれた広い背中が、私の視界をほとんど塞いだ。
何が起きたのか分からず、その背中から顔だけを出そうとする。
けれど私が右へ動けば、倫ちゃんも右へ動く。左から覗こうとすれば、今度は左へ寄ってくる。
「倫ちゃん」
「何ですか」
「奏多さんが全然見えない」
「見なくて結構です」
「えっ」
あまりにも当然のように言われ、胸の奥で何かが大きく跳ねた。
見なくていい。それはつまり、見てほしくない。
これはもしかすると、もしかして、とんでもなく独占欲のある言葉なのではないだろうか。思わず口角がぎゅっと上がる。
背中越しでは見えない顔を確かめたくて、今度は倫ちゃんの腕の下からの脱出を図った。
「雪奈さん、何をしているんですか」
「えっと……脱出? 倫ちゃんの顔を見たいの」
「今は必要ありません」
「私は必要なの」
「じっとしていてください」
そう言って叱る声には、いつもの余裕がない。
奏多さんが一歩近づく。その気配を感じた途端、倫ちゃんも私を背中へ隠したまま、半歩前へ出た。
倫ちゃんはまるで、己の縄張りへ入ってきた相手を警戒する番犬みたいだった。
しかも見た目は大型犬なのに、掴まれたままの手はかすかに震えていて、私には小さなチワワのようにも思える。
「榊先生」
呼びかける奏多さんの声は、先ほどまでと変わらず落ち着いていた。
「雪奈さんの手が痛くならない程度にお願いします」
倫ちゃんの指が、わずかに緩む。それでも、その手は決して離されることはない。
「その手は離さない、と」
「ええ……彼女に少し、話があります」
「パーティーはまだ終わっていないというのに、雪奈さんと?」
「ええ」
「……そうですか。今度は、最後までお話しになるんですね」
倫ちゃんの身体が固まった。1時間ほど前、私を呼び止めたのに、結局何も言わなかったことを指しているのだろう。
けれど、奏多さんがそれ以上責め込んでくることはなかった。
「雪奈さん。榊先生とお話しされますか?」
倫ちゃんの背中から顔を出し、奏多さんを見る。
断ったあとも、最後まで丁寧にエスコートしてくれた。私の気持ちを変えようと無理に迫ることもなく、倫ちゃんへ向き合うきっかけまで作ってくれた。
「はい。倫ちゃんと話します」
奏多さんは一度だけ目を伏せ、それから穏やかに笑った。
「分かりました。では私は中で、お待ちしています」
「奏多さん……。今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
奏多さんは倫ちゃんにも軽く頭を下げ、そのまま会場の中央へ戻っていった。心の奥底で何を考えているのかわからない奏多さんとは対照的に、倫ちゃんは奏多さんの姿が見えなくなるまで、私を背中へと隠したままだった。
「ねえ、もう行ったよ」
「……そうですね」
「倫ちゃん、パパと話したりしなくていいの?」
「必要ありません」
「やっぱり、ちょっと怒ってる?」
「怒ってはいません」
「でも、ものすごく怖い顔してるでしょ」
「普通です」
倫ちゃんは一度大きくため息をついて、肩を落とす。そこでようやく振り返った倫ちゃんの顔は、どう見ても普通ではなかった。
眉間には深い皺が刻まれ、目元もいつもより鋭い。仮に会場で患者さんの急変を聞かされたとしても、ここまで険しい顔はしない気がする。けれど私の手首を掴む手だけは、痛くないよう慎重に力を加減してくれているようだった。
「静かな場所へ移りましょうか」
「うん」
倫ちゃんは私を連れ、宴会場から少し離れた廊下へ向かった。
ホテルの中庭に面した窓の前で足を止める。会場の音楽は扉の向こうへ遠ざかり、ここには空調の音と、私たちの呼吸だけが響いている。
人の姿がないことを確認してから、倫ちゃんはようやく私の手首を見た。
「……申し訳ありません」
「どうして?」
「強引に、引きましたから」
「全然痛くなかったよ」
「それでも、です」
力の抜けた倫ちゃんの指が開かれて、私の手首は再びひんやりとした空気にさらされる。私は、反射的にその手をもう片方の手で掴んだ。
「離さないで」
「雪奈さん」
「今度は、ちゃんと話してくれるんでしょう?」
倫ちゃんは形のいい唇をキュッと結んだ。多分、逃げようとしているわけではない。
ただ何から話せばいいのか分からないように、私が握った手を見つめている。
「さっき……私が奏多さんのところへ戻ろうとしたから、止めたの?」
「……はい」
小さな倫ちゃんの返事は、消えてしまいそうな蝋燭の炎くらい弱く、ほのかに揺れていた。けれど、その言葉を待つ私の耳にだけは、はっきりと聞こえていた




