20.違反者と違反者
「一緒に行ってほしくなかった?」
「……ええ」
「ダンスしたのも嫌だった?」
倫ちゃんの眉間へ、また皺が寄る。何度も言わせるなと言いたげな目線を無視して見つめ返せば、倫ちゃんは観念したように目線を逸らして、小さな声で答えを返す。
「嫌でしたね」
私の背中を舞台に、大きな打ち上げ花火が上がる。
「それは、触られたから?」
「……聞かなくても分かるでしょう」
「ちゃんと倫ちゃんの口から聞きたいの」
「必要がありますか」
「大いにあります!」
私の手だけでは覆い尽くせない倫ちゃんの手を掴む力を、ほんの少しだけ強める。ここで正直に伝えなければ、倫ちゃんはまたどこかへ行ってしまいそうだったから。
その危機感を察したのか、目線を下げたままの倫ちゃんは深く息を吐いた。
「……雪奈さんの腰へ、御子柴さんが触れているのが嫌でした」
さっきよりもずっと明確で、素直で、率直な言葉。ずっと、待ち焦がれていた彼の感情が、手を伸ばせばもう触れられそうなほど、近くにある。
「近い距離で踊るのも? 耳打ちするのも?」
「嫌ですね」
「じゃあ私が笑ってたのも?」
「それは……」
テンポよく答えていた倫ちゃんが、答えに詰まる。
「嫌だった?」
「雪奈さんが笑うこと自体を、嫌だとは思いません」
「じゃあ、奏多さんと冗談を言って笑い合うのは?」
「……程度によります」
「さっきのは?」
「許容範囲を超えています」
あまりにも真面目な顔で言うから、我慢できずに笑ってしまった。
「倫ちゃん、それってやきもちだよ」
「言い方を変えないでください」
「じゃあ、嫉妬?」
「同じです」
「独占欲?」
「さらに悪く言い換えないでください」
「でも、全部当たってるんでしょう?」
倫ちゃんは否定しなかった。ただ視線を逸らし、首の後ろに手を当てたり、口元に拳を持っていってみたり。とにかく落ち着かない様子がある。
こんな倫ちゃんを見るのは初めてだった。
私が誰かと会っても、いつも「私が口を出すことではありません」と言っていた人。私が奏多さんに腰を支えられても、「気をつけて帰ってください」としか言わなかった人。
その倫ちゃんが、今日は私を掴み、奏多さんから隠し、嫌だったとはっきり言っている。
「ねえどうしよう! 私、今ものすごく嬉しい!」
「喜ぶところではありません」
「だって倫ちゃんが、私を取られたくないって思ってくれたんでしょう?」
「そこまでは言っていません」
「じゃあ、奏多さんのところへ戻ってもいい?」
握っていた手は、手放してなるものかと一瞬で握り返してくる。
「駄目です」
息を吸ったと同時くらいに帰ってくる返答。
わかっていても嬉しくてついつい試すようなことをしてしまう。直接触れ合っている肌はもうしっとりと熱くて、2月の気温を忘れさせた。
「……ほら」
「試すようなことをしないでください」
「ごめんなさい。でも嬉しくて」
倫ちゃんの大きな手を、両手で包み直す。
「奏多さんには、ちゃんと断ったよ。私が好きなのは、倫ちゃんだって言った」
「……はい」
「もう待たないでくださいって伝えた」
倫ちゃんの表情が、少しだけ緩んだ。九年間見つめてきた顔が変わる瞬間を、私は見逃さない。
「安心した?」
「していません」
「嘘だ。今、目元がちょっと優しくなったもん」
「観察しすぎです」
「九年も見てるからね」
笑いながら言ったあと、その時間の長さを自覚して、小さな不安が戻ってきた。倫ちゃんが嫉妬してくれた。それは嬉しい。でも、その嫉妬と、私の好意を受け入れることは同じではない。
「ねえ倫ちゃん」
「何ですか」
「前に聞いたこと、覚えてる?」
「何のことでしょう」
「私が好きって言うの、迷惑だった?って」
倫ちゃんの表情が変わる。
夕方の談話室で、私は好きと言うことも、かっこいいと褒めることも、結婚してとお願いすることまで……全部休むと伝えた。
あのとき、倫ちゃんは止めなかった。
「倫ちゃんは、迷惑じゃないって言ってくれた。でも、嬉しいとは言ってくれなかったから」
「……はい」
「それで私、しばらく好きって言うのをやめたの」
「分かっています」
「倫ちゃんは、寂しがってくれたみたいだけど」
「それは——誰から聞いたんですか」
「医局を片づけまくってたって、パパから」
「院長は余計なことを……」
「あとは、夢の中くらい置いていかないでって、本人からも聞いたし」
倫ちゃんの顔から、血の気が引いていく。
「それは……」
「覚えてないんだよね?」
「……」
沈黙のまま、倫ちゃんの親指は、申し訳なさげに人差し指へ触れては謝るように上下した。
嘘だ。やっぱり覚えている。改めて分かれば、色々と追及したい気持ちになる。
けれど、今はもっと大事なことを聞きたかった。
「私ね、倫ちゃんが答えてくれるまで待つって決めたの」
「はい」
「あっ、もちろん、今すぐ返事をしてって急かすつもりはないよ? 倫ちゃんには倫ちゃんの事情があるのも、少しは分かってる」
九歳差なんて、いつか誤差になる。でも、私たちの間にあるものは、それだけじゃない。
パパとママへの恩。兄のような存在であること。家庭教師だった頃の時間。医師と院長の娘という立場。それでも、倫ちゃんが簡単には踏み越えられない理由を、私はまだ全部理解できていない。
「でも……返事を待つことと、好きって伝え続けることは、別でしょう?」
「雪奈さん」
「私は待っているつもりでも、倫ちゃんには、ずっと答えを迫られているように感じるかもしれない」
さっき倫ちゃんは、私が奏多さんと踊るのが嫌だったと言った。腰へ触れられるのも、近くで笑い合うのも嫌だったと、初めて素直に認めてくれた。
私を誰かに取られたくない。
けれど、私の気持ちには答えられない。
倫ちゃんは、ずっとその間で苦しんでいたのかもしれない。そう思えば、これ以上私の気持ちを押しつけることはできなかった。
「そんな倫ちゃんに、私が何度も好きって言うのは……やっぱり困る?」
倫ちゃんが、私の手を見つめる。指先が重なったまま、しばらく何も言わない。
また「雪奈さんの自由です」と返されるかもしれない。けれど今は、その答えでは足りなかった。
「私、これからも倫ちゃんを好きでいていい?」
倫ちゃんの瞼がゆっくりと持ち上がる。まつ毛が少し上を向いたところで、完全に目が合った。
大きな手が、私の両手を包むように握り返す。
「……雪奈さんは」
「うん」
倫ちゃんは何かを飲み込むように喉を動かす。それから、困ったように小さく息を吐いた。
「……まあ。以前のようにしていれば、いいんじゃないですか」
一瞬、意味が分からなかった。
「以前のように?」
「好きだの、結婚だのと、毎日のように騒いでいたでしょう」
思わず目を丸くする。
「じゃあ、また好きって言ってもいいの?」
「止めても、聞かないでしょう」
「聞くよ! 倫ちゃんが嫌なら!」
「……」
倫ちゃんの親指が、私の手の甲を一度だけなぞる。
「……嫌ではありません」
胸の奥で、何かが弾けた。
「えっ、じゃあ!」
「ただ」
嬉しさのまま飛びつきそうになった私を制するように、倫ちゃんが続ける。
「返事は、もう少し待ってください」
「うん」
「私は……まだ、答えられません」
「うん」
「それでも、いつもの雪奈さんでいてください」
そこで一度、言葉が途切れた。
「……調子が狂います」
倫ちゃんはそう言って目線を露骨に逸らし、口元を手で覆い隠す。その顔は、今までに見たことないほど真っ赤に染まっていた。
「じゃあ、倫ちゃんの調子を戻すために、ひとつだけ! ……お願いしてもいい?」
「何をですか?」
「今日のドレス、似合ってるって言って」
笑いながら両手でスカートをつまみ、倫ちゃんの前でくるりと回ってみせる。ネイビーのオーガンジーを何枚も重ねたドレスは、ふわりと広がって夜空のような煌めきを見せた。
倫ちゃんは完全に言葉を失っていた。
玄関でも、会場でも、何度聞いても答えてくれなかったのに、その沈黙は何よりも饒舌だった。
「……このまま言ってくれないと、奏多さんが褒め回数3回で暫定一位だよ」
「回数で競うものではありません」
「倫ちゃんなら1回で逆転できるよ? なんてったって、倫ちゃんだから」
「……」
「ね? ほら。似合ってた?」
詰め寄るように体を近づけると、倫ちゃんは体を少しのけ反ってこちらを見る。私が観念する気がないと理解すると、倫ちゃんは諦めたように、短く息を吐いた。
視線が私の頭の先から、耳元、首元、肩、腰元へと下りる。今度はすぐに逸らされていない。
「似合っていますよ。……綺麗です」
胸の中で、さっきより何倍も大きな花火が上がる。私は思わず、両手でガッツポーズを取った。
「やったー!」
「声を抑えてください」
「婚約だ! 結婚だ!」
「いくらなんでも、解釈が飛躍しすぎです」
「だってこんなの、ほぼプロポーズでしょう?」
「違います」
「綺麗って言われたし、独占されてるし、ほぼ結婚じゃん!」
「……いや、ひとつもしていませんね」
「じゃあ、恋人?」
「勝手に話を進めないでください」
「でも、倫ちゃんも私を好き?」
さっきまでの甘い空気は、私の一言であっけなく逃げていった。倫ちゃんは頭を抱え、深いため息をついたまま口を閉ざす。
それでも、私たちはもう、以前とは違う。
今までのままの私でいろと言ってくれた。今は、それだけで十分だった。
「……仕方ないから、今日はここまでにしてあげる」
「恩着せがましく言わないでください」
「次は好きって言ってもらうからね」
「……努力はしません」
「しなくても、いつか口から出ちゃうと思うなっ」
「なぜ、そう思うんですか」
「今日だって、身体が先に動いたんでしょう?」
落ち着いたはずの顔色が一気に変わる。まだ私の手を握っていることにも、今さら気づいたようだった。
パパや倫ちゃんの仕事に関係する人が通ったら、すぐに離されるかもしれない。
そんなことは絶対にしたくなくて、私は指を絡めるように握り直す。
「離さないでね」
「……では会場へ戻ります」
「このまま?」
「転ばれると困りますので」
「人混みでもないし、迷子にもならないよ」
「知っています」
それは温泉街で聞いた答えと、同じだった。
あの日、理由がなくなっても手を離せなかった人の手は、あの日よりも少しだけ強く、私を引き留めていた。
***
ついに晩餐会が終わり、ホテルの玄関へ向かうと、奏多さんが車の準備をして待っていた。慣れないヒールで歩き回った足は、ドレスの下で棒になっている。
「雪奈さん。ご自宅までお送りしますよ」
「ありがとうございます」
返事をしたところで、繋いでいた手がわずかに引かれる。隣を見ると、倫ちゃんが奏多さんへ向き直っていた。
「いえ。雪奈さんは、私が送ります」
迷いのない声だった。奏多さんが、私たちの手元を見る。それから、少しだけ笑った。
「分かりました」
「奏多さん、今日は本当にありがとうございました」
「こちらこそ。雪奈さんのお返事を聞けてよかったです」
奏多さんは私へ一礼し、倫ちゃんへも視線を向ける。
「榊先生」
「何でしょう」
「今度は、途中で手を離さないでください」
倫ちゃんは何も返さなかった。
けれど、握られた手へ少しだけ力が加わった。
奏多さんはそれを確認すると、今度こそ車へ戻っていった。
「倫ちゃん」
「何ですか」
「同じ敷地に帰るのに、送ってくれるの?」
「本邸と離れは別の建物です」
「じゃあ、倫ちゃんが私を本邸へ送ったあと、私が離れまで送るね」
「なぜ往復するんですか」
「できるだけ長く一緒にいたいから」
「冷えます」
「手をつないでたら暖かいよ」
ホテルの外へ出る。夜風はまだ冷たかったけれど、真冬のような鋭さはもうなかった。街路樹の枝先には、まだ固い小さな蕾がついている。
「病院でも、手を繋げたらいいのに」
「私を失職させる気ですか? それは、完全にコンプライアンス違反です」
「私が院長になっても?」
「駄目ですね」
「じゃあ、小児科の患者になったら?」
「もう、その年ではありませんね」
「うわ! そこだけ急に大人扱いする!」
「事実ですので」
「もう……ああ言えばこう言うんだから」
不満を口にしながらも、繋いだ手は離さない。それどころか、倫ちゃんは前を向いたまま、私の指の間に指を滑り込ませるように、手を握り直した。
「……まあでも、今日だけは許してもらいましょうか」
「……倫ちゃん!」
「院長に見つかったら、一緒に叱られてくださいね」
「今日だけと言わず、一生隣で叱られたいと思います!」
「いくらなんでもそれは勘弁してください」
即答だった。それでも倫ちゃんは、迎えの車が到着するまで私の手を離さなかった。
***
その夜。
自宅へ戻っても、私の昂った感情はなかなか鎮まりそうになかった。
まだこの頬の火照りを落ち着かせたくなくて、鏡の前でもう一度回ってみる。
今日倫ちゃんのくれた言葉、行動の全てが鮮明に思い出せた。当事者じゃないと言い放った倫ちゃんも、あんなにも必死に私の手を握って、やきもちを妬いていた倫ちゃんも同じ人だなんて。
嬉しくて、愛おしくて、居ても立っても居られない。ベッドにバサリと倒れ込み、ドレスの裾が広がるのも構わずに枕へ顔を埋める。
ルームウェアに着替えてもなお、繋がれていた右手のひらには、倫ちゃんの大きくて熱い手の感触が、嘘みたいにはっきりと残っていた。
『嫌ではありません』
彼のあの切実な声と、指の間に滑り込んできた熱い体温が耳と肌の奥で再生されるたびに、心臓が跳ねて顔がカッと熱くなる。
散々やきもちを焼いて、私の手を頑固に握りしめ続けたあの倫ちゃんは、幻でもなんでもないのだ。
嬉しくて、胸がはち切れそうで、この昂った感情を少しでも冷ましたくて。私は夜風を求めて、ベランダの窓を開けた。
2月の夜気が、熱いままの肌に触れる。ここで倫ちゃんに告白したのは、もう2ヶ月も前のことだ。
「雪奈さん」
下から聞こえた声に、身を乗り出す。
離れへ戻る途中だった、倫ちゃんの声がする。手すりから身を乗り出して声の主を探すと、そのすぐ下からこちらを見上げていた。
「倫ちゃん……?」
「そんな格好のまま、外へ出ないでください。冷えますよ」
2ヶ月前と同じことを言われた気がして、思わず笑ってしまう。
「何がおかしいんですか」
「前にも、ここで怒られたなって思って。ちょっとだけ夜風に当たったら戻るよ」
「すぐに冷えますから、早く中へ」
ああ、同じだ。クリスマスイブの晩も、同じことを言っていた。
「……ねえ、ちょっとだけ上がってこない?」
そういうと、倫ちゃんは一瞬だけ固まった。切れ長の目が、これでもかというほど見開かれている。
「何を言ってるんですか?」
「えっと、大人なお誘い?」
「何時だと思ってるんですか……」
ため息をつきながらも、倫ちゃんの口元はほのかに上がっていた。
「でもまだ日付変わってないもん……!」
「夜中に部屋へ上がるなんて、完全にコンプライアンス違反です」
即答だった。思わず吹き出してしまう。
「そんなに笑うところですか」
「ううん」
湧いてくる涙を指先で拭って、首を振る。
「倫ちゃんらしいなぁって」
私の言葉を聞いた倫ちゃんは、眉を下げて息をつく。
「ですから、部屋へ戻ってください」
「うん、わかってる」
乗り出していたところから離れ、窓へ手を掛ける。
「ちゃんと戻るよ」
「……ええ」
窓を閉める直前、もう一度だけ下を見る。倫ちゃんは窓から見える位置まで移動して、あの日と同じように立っていた。
でも。
「倫ちゃん……っ!」
「なんですか」
すぐに返ってくるその声はあの日よりも優しくて、ずっと甘い。
「また、明日ね」
その一言に倫ちゃんは少しだけ笑って、小さく頷いた。
「……はい、また明日」
倫ちゃんは軽く頭を下げて、去っていく。
去り際にひらひらと手を振る倫ちゃんの背中は、私の知っている白衣姿よりもずっと広かった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
じれじれ両片思いから、一旦互いの気持ちは見えたけれど……というところで、
この先は毎週木曜日18時更新とさせていただきます。
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