08.本当の重症者
必修科目でスクリーンに映された折れ線グラフを指しながら、教授は市場占有率の推移について説明していた。
200名ほど入る講堂は学生でいっぱいで、教授の目線は教科書と画面を往復するだけ。
私はノートへ視線を落としたまま、隣に座る燕の方へ少しだけ身を寄せる。
「燕ぇ……だめだぁ……私はもう倫ちゃん不足で枯れちゃうんだぁ……」
珍しくキャップ姿の燕は、教授の方を向いたまま、私の二の腕を指先で軽くつまんだ。
「大丈夫。まだぷにぷにしてるわよ」
「そういう意味じゃないの」
「食事は摂ってるの? 朝食は?」
「……サラダと目玉焼きとコーンポタージュ」
「炭水化物とタンパク質は足りてないけれど、枯れることもなさそうね」
「違うの! 倫ちゃんからしか摂取できない栄養素が欠乏してるの。このままだともう、授業中に倒れるかもしれない」
「それは……睡眠不足じゃない?」
「今日は八時間寝ました」
「じゃあ元気じゃない」
「身体は元気でも、心が干からびてるの!」
思わず声が大きくなり、前の席の学生がなんだという様子でこちらを振り返った。私は慌ててノートで顔を隠す。
教授の視線も一度だけ飛んできたけれど、幸い注意されることはなかった。
「ちょっと、静かにしなさいよ」
「燕が二の腕をつまむからでしょ」
「あんたの生存確認よ。枯れたって言うから」
燕は何事もなかったようにノートへ視線を戻す。
私はシャープペンシルを動かすふりをしながら、その横顔へ小声で訴える。
「好きって言わないって決めて、もう今日で四日目だよぉ」
「まだ四日目でしょう」
「四日も、だよ。かっこいいって思っても言えないし、帰ってきた気配がしても窓から呼べないし、メッセージも送ってない」
「ずいぶんと厳密にルール順守してるのね」
「そう。最長記録更新中……」
「その割に、離れの明かりは毎晩確認してるんでしょう?」
図星を突かれ、シャープペンシルの先がノートの上で止まった。
「だって……休んでるかどうかは最低限確認しないと」
「都合のいい規則ね」
「でも本当に連絡してないし、会いにも行ってないよ?」
「へぇ、そうなんだ。偉い偉い」
「全っ然、褒めてない」
燕は口元だけで笑い、教科書の端へ何かを書き込んだ。私は教授の声を聞き流しながら、昨夜の離れを思い出す。
いつもなら夕食を終える頃には、玄関か書斎の明かりがつく。
けれど、ここ数日は十一時を過ぎても暗いままだった。離れに灯りがつくと、安心して眠れる。
離れに灯りがつく。それだけなのに、毎晩カーテンの隙間から彼の生活を確認している自分が、少し情けない。
「でも、本当にこれ……全然効いてない気がする」
「何をもって、効いてないと判断したの?」
「倫ちゃんから一度も連絡が来ない」
「引く作戦を始めた人が、四日で連絡を待ち始めないで」
「だって、少しくらい『最近静かですね』とか『どうしたんですか』とか聞いてくれると思うじゃない」
「そう聞かれたら、どうするの?」
「気づいた? って言う」
「それじゃあ作戦だったのもすぐバレちゃうじゃない」
即座に言い負かされ、私は唇を尖らせる。悔しいけれどその通りだ。
「じゃあ、少し寂しかった? って聞く」
「そんなの、もっと意味ないじゃない」
「でも、そこまで言えば、倫ちゃんも少しくらい本音を——」
「ねえ雪奈。一旦引く作戦って、最終的に相手が本音を吐くまで詰め寄るっていう作戦じゃないからね?」
「うぐっ」
正論だった。分かっている。分かってはいるけれど、今まで毎日口にしていた言葉を止めるのは、想像以上に苦しかった。
今朝だって、ネクタイを締めた倫ちゃんを見た瞬間、今日もかっこいいと叫びそうになった。
昨日の病棟では、少し乱れた前髪も素敵だと思った。そのたびに飲み込んだ言葉が、体の中で黒い塊になって、少しずつ積もっている気がする。
「それに、最近ずっと帰りが遅いの」
声を落とすと、燕のペン先が止まった。
「病棟でも前より見かけないし、私が帰る時間になっても仕事してる。昨日なんて、離れに明かりがついたの十一時半だった」
「忙しいんじゃない?」
「やっぱり、そう思う?」
「私に病院の勤務状況は分からないから。でも、それだけ聞くとそうなのかなって感じね」
燕は眼鏡の位置を直し、私の顔を横目で見る。
「もし本当に忙しいなら、雪奈が騒がなくなったことへ反応する余裕もないでしょうね」
また、黒い塊がひとつ、体の奥に沈んでいく。
倫ちゃんは小児科医だ。私の恋愛作戦より、優先しなくてはいけないことがいくらでもある。私が静かになったことなんて、気づいていないのかもしれない。
仮に気づいていても、むしろ仕事がしやすくなったと思っている可能性だってある。
「……私どころじゃないのかな」
呟くと、教授が教壇の上で資料を切り替えた。スクリーンから放たれた青白い光が、ノートの上に影を落とす。
燕はすぐには答えなかった。
私を励ますための言葉を適当に選ばず、少し考えてから口を開く。
「それは、本人かおじさまに聞けば分かるんじゃない?」
「倫ちゃんに聞いたら、作戦がばれるじゃない」
「もう本人以外には全部ばれてると思うけど」
「じゃあ、パパに聞く」
「そうね、最初からそうしなさい」
燕が再び前を向いたところで、教授の声が止まった。
「そこのお二人」
心臓が跳ね、私たちは同時に顔を上げる。教授はスクリーンの前から、こちらをじっと見ていた。
他の学生たちも気づいていたのか、わざわざ振り返ってまでこちらを見ている。その視線には厄介そうな表情も、馬鹿にするような冷笑も含まれていた。
「私の講義よりも興味深い市場があるようですね」
「……申し訳ありません」
燕が真顔で頭を下げる。私も慌ててそれに続いた。
「宝生さん。その市場は、現在どのような状態ですか」
突然指名され、頭の中が真っ白になる。スクリーンに映っているグラフへ視線を走らせたけれど、その内容はほとんど頭に入っていなかった。
「えっと……こちらの需要はあるのですが、供給が完全に停止していると言いますか」
教室のあちこちから、小さな笑い声が漏れる。
燕が、隣で額を押さえる。教授は少しだけ眉を上げたあと、教科書をぺらぺらとめくっていく。
「では、教科書120ページの表をもとに、供給停止による各方面への影響について、具体例を次回までにまとめておいてください」
「はい……」
返事をしながら、私はノートの端へ言われたことを書く。
『倫ちゃん供給停止の影響をまとめる』
すぐ隣から伸びてきた燕の手が、その一文へ大きく赤い二重線を引いた。
***
夕食のあと、私はソファへぐったりと沈み込んでいた。
「はぁ……」
「おや」
新聞を読んでいたパパが眼鏡の上からこちらを見る。
「今日も、元気がないね」
「もう……駄目かもしれない」
「大学?」
「違う」
「病棟?」
「違う」
「……倫太郎くん?」
私は無言で頷いた。
「好きって言うの、やめたの。でも、辛いの」
私の言葉を聞いて、話半分で聞いていたパパは新聞を畳む。
そのまま「なるほど」と呟いてから、緑茶の入った湯呑みに手を伸ばした。
「それで?」
「四日も我慢してるのに、何にも変わらないの」
「何にも?」
「なんなら前より帰りは遅いし、連絡もないし、病棟でも忙しそうだし……」
クッションを抱き締める。
「やっぱり私が静かになって、せいせいしてるのかなぁ」
口にした途端、自分で少しだけ傷ついた。まるで聞いていないどころか、私ばかりが重傷を受けている。
けれど、パパは「ふむ」と顎へ手を当ててにっと笑った。
「僕は逆だと思うけどなぁ」
「え?」
「雪奈のやってること……案外、効いてると思うよ」
「ええっ?」
思わずソファから身を乗り出す。
「ほんとに?!」
「うん。ここだけの話……最近ね」
パパはお茶を一口飲み、妙に真面目な顔をする。思わず身を乗り出してパパに顔を近づけると、パパも怪談を離すような神妙な面持ちでコソコソと話しだした。
「医局が、妙に綺麗なんだ」
「…………え?」
「棚も、本棚も、引き出しの中も」
「それが?」
「夕方になると、倫太郎くんが率先して片づけ始めるんだよ」
私は首を傾げる。
「いいことじゃない。倫ちゃんってもともとミニマリストで、綺麗好きだし」
「違う、違う」
パパは首を横へ振った。
「あれはね、余裕がある人の片づけじゃない」
「どういうこと?」
「落ち着かない人の片づけ」
その一言で、私は少しだけ姿勢を正した。
「本来はね、忙しい先生ほど机は散らかるものなんだよ。使う資料を出して、カルテを積んで、そのまま次の患者さんへ行ったりするから」
「……うん」
「でも、落ち着かない人は違う。心の中がぐしゃぐしゃで混乱しているから、見えてるものを先に片付けし出す」
「たとえば、ペンを並べる」
パパはテーブルのリモコンを真っ直ぐ揃えた。
「書類を揃える」
その横で乱雑に積まれていたいくつかの業界紙と新聞の角をぴったり合わせる。
「机を拭く」
「……細かい」
「頭の中が整理できないから、目の前だけでも整理したくなる」
私は瞬きを忘れた。
「それ……倫ちゃんも?」
「昨日なんて、3回も本棚を並べ替えてたらしいよ」
「3回も?!」
「看護師さんが『先生、その本さっきも並べてましたよ』って指摘してるの、見ちゃった」
パパは肩を揺らして、ふふふっと嬉しそうに笑う。
その反応を見て、思わず想像してしまった。
真顔で医学書をきっちり揃え直す倫ちゃん。五分後、また同じ本棚を整理して、看護師さんに指摘される倫ちゃん。
……ちょっとかわいいかもしれない。
「じゃあ……!」
頬が、首元が、ほんのりと温かくなる。
「私のこと、考えてるのかな」
「そこまでは分からない」
ごめんねと言いながら、パパは肩をすくめる。
「でも、少なくとも平常運転ではないね」
それだけで十分だった。さっきまで重かった胸が、ほんの少しだけ軽くなる。
私の頑張りが、効いてないわけじゃない。
もしかしたら、倫ちゃんも少しだけ——困っているのかもしれない。
その期待が顔へ出てしまったのだろう。パパは私の方を見て、露骨に苦笑した。
「そんな顔をするなら、今すぐ『好きです!』って言いに行けばいいのに」
「行かないよ!」
「偉い」
「ちゃんと我慢するもん」
「本当に?」
「……多分」
「信用できないなぁ」
パパは豪快に笑った。
その笑顔につられて、私も少しだけ笑う。
パパのおかげで、私の枯れかかっていた心はいつの間にか潤いを取り戻していた。
***
最近の榊先生は、少し変だ。
研修医の佐伯は紙コップのコーヒーを片手に、医局の入り口で立ち止まった。
宝生院長の元で育てられたという小児科医の元に、宝生のお嬢様が毎日のように医局へ来るという不思議な光景。
それは、勤務一日目からほぼ毎日続く習慣で、いつの間にかそれを見るのが日課になっていた。
それなのに、お嬢様は急に医局へ顔を出さなくなり。榊先生は、ボランティア中もボランティア後も、最低限の会話しか交わさない。
「絶対に、おかしい……」
診察中はいつも通りだった。
子どもたちの目線に合わせてしゃがみ、不安そうな保護者には穏やかに説明する。
採血前に泣き出した子には「もう終わるよ」と優しく笑いかける。
いつもの榊先生。いつもの、頼れる小児科医だ。
だからこそ、診察が終わるたびに別人のようになるのが、余計に気になった。
ペットボトルを捨てようとして、一度立ち止まる。ラベルを剥がす。蓋を外す。本体を3種に分けて、それぞれ違うゴミ箱へ入れる。
今までなら、そのまま卓上に数本放置して、お嬢様が時々片付けていたのに。
それが終わると机へぼーっとしながら戻って、 ペン立ての中身を整える。ホッチキスを引き出しへ戻す。カルテの色を揃える。
一度閉めた引き出しを、また開ける。中を見つめる。何も触らず、閉める。
「……榊先生」
「はい」
「何、してるんですか?」
「整理です」
返答は至極真っ当だけど、見たことないほどの真顔だった。感情なんてどこかに置いてきたような、寝不足の日にも似た浮腫気味の瞼が印象的で、心配になってしまう。
「十分、整理されてますよ」
「そうでしょうか」
そう答えながら、今度はマーカーを色順に並べ始める。
赤、青、黒。一歩離れて眺める。何かが気になったらしく、赤と青を入れ替える。またペンを眺めては、小さくため息をついて黒、赤、青と並べ替える。
そんなことを日に何度も繰り返していた。静かに観察を続けていた佐伯は、思わず吹き出しそうになりながらコーヒーを飲む。
「俺……疲れてるのかな」
そう思ってカルテを届けに行き、労いのコーヒーを淹れて戻ってきた五分後。榊先生はいなくなっていた。
「あれ?」
医局を見回す。診察室にもいない。
廊下へ出ると、談話室の方から小さな物音が聞こえた。気配を悟られないよう、そっと覗いてみる。
榊先生は、本棚の前にしゃがんでいた。今度は子どもたちが読み終えた絵本を、大きさごとに並べ直している。
少し飛び出していた一冊を押し込み、角の折れた絵本はテープで留めるため別に避ける。それが終わると、ゆっくり立ち上がっておもちゃ箱の前へ移動した。
積み木を箱へ戻す。赤、黄色、緑のブロックを取り出して、それぞれの箱に入れる色の順番まで揃え始める。
「先生」
「はい」
「今度は談話室ですか」
「まあ、少し気になったんで」
「少しどころじゃありませんよ」
榊先生はようやく顔を上げた。
「そうですか?」
「医局も片づけてましたよね」
「……そうでしたか」
その顔は本当に困った顔で、どうやら本当に覚えていないらしいと悟った。
そのとき。
「さえきせんせ」
振り向くと、えまちゃんが絵本を抱えて立っていた。
「どうしたの?」
「りんたろーせんせー、おそうじしてるの?」
「そうだね」
「また?」
「まただね」
少女は榊先生を見て、小さく首を傾げた。
「ゆきねえちゃんがおとなになってから、りんたろーせんせー、おかしくなっちゃった」
思わず咳払いで笑いをごまかす。
「そう見える?」
「うん!」
えまちゃんは大きく頷いた。
「なんかね、ぼーっとしてる!」
両手を前へ突き出し、とてとて歩く真似をする。
「こんな感じで!」
その動きは、まるで充電の減ったロボットだった。ギシギシと軋む音が聞こえそうな動きに、佐伯はとうとう吹き出した。
「ほんとだね」
「おとなってこわいねー」
「そうだよ! おとなはこわい!」
近くにいた男の子まで笑い出す。
「えま、おとなになりたくないなあ」
「そう?」
「うん!」
佐伯は、屈託のない笑顔で微笑む少女の頭を優しく撫でた。
「でもさ。先生は、えまちゃんが大人になって、かわいいドレスを着てるところ、見てみたいけどなぁ」
「ほんと?」
「うん」
「さえきせんせー、プリンセスすき?」
「好きだよ」
「じゃあえま、プリンセスになろうかな」
「うん。楽しみにしてる」
少女と佐伯が指切りをして約束を交わしている頃。
その会話の後ろで、榊先生は積み木をしまい終えたはずなのに、箱を開けていた。
綺麗に揃った中身を見て、箱を閉める。一歩歩く。また箱のもとに戻って、蓋を開けては中身を確認する。
今度は何も取り出さずに、箱そのものの向きを直して棚へ置いた。
えまちゃんが、小さな声で佐伯へ囁く。
「ほら」
「うん」
「またやってる」
佐伯は肩を震わせながら頷いた。
「……重症だね」
「じゅうしょう?」
「そう。たいへんだってこと」
その佐伯と少女の呟きは、積み木の向きを確かめている榊先生には届かなかった。




