07.大人と子供
翌朝、ダイニングには、トースト仕立てのクロワッサンの香りが広がっていた。
「雪奈、このジャム美味しいよ」
「本当? パパ、それ昨日『甘すぎる』って言ってたのに」
「一晩寝たら考えが変わった」
「そんなことある?」
思わず笑うと、向かいに座るママもくすっと肩を揺らした。
「あら、パパは寝ると大抵いつも考えが変わるのよ」
「それは秘密にしてほしかったなぁ」
三人で笑っていると、廊下の向こうから規則正しい足音が近づいてくる。コンコン、と控えめなノック。
「失礼します」
聞き慣れた声とともに、倫ちゃんがダイニングへ入ってきた。コートを手に抱え、ネイビーのスーツに白いシャツを合わせた出勤スタイル。プレーンノットで綺麗に結ばれたグレーのネクタイ。
今日もやっぱり、と喉まで上がってきた言葉を、私はそっと飲み込む。
「おはようございます、榊先生」
私が倫ちゃんの名前を呼んだ瞬間に、部屋の空気はひんやりと止まる。
パパのジャムを塗る手は止まり、ママは紅茶のカップを持ったまま、静かに目を瞬かせた。
倫ちゃんも、一拍遅れて口を開く。
「……おはようございます」
その絶妙な間に、全員が気づいた。でも、誰も、何も言わない。
「今日は三時から伺います。談話室のピアノをお借りします」
「承知しました」
「よろしくお願いします」
それだけ伝えて、私はパパおすすめの杏のジャムをクロワッサンに塗った。パリパリにトーストされたクロワッサンの破片が、ぽろほろと指の間から溢れていく。
私はもう、以前みたいに『今日もかっこいい!』とも、『ネクタイ曲がってるよ!』とも、言わない。倫ちゃんもそれを察したのか、これ以上話しかけることはなく、小さく会釈だけしてダイニングを後にした。
古い扉がギッと音を立てて閉まる。ダイニングは数秒だけ静かになって、パパが遠慮がちに口を開いた。
「雪奈……」
「何?」
「な、なな、なんだい……っ、今のは!」
「何って?」
わかっているけれど、少しとぼけたふりをする。心配して欲しいわけじゃないけれど、変わった私を見てほしい。
「雪奈はあの日からずっと、倫ちゃんって……呼んでいたじゃないか……」
パパは頬を突いたら今にも泣き出しそうな子供みたいに、目を潤ませて私の方を見ている。
「えっとね……少しだけ、お休みすることにしたの」
深く説明するほどでもない。ジャムを塗りながら答えると、パパは目を潤ませたまま首を傾げる。
「まさか、風邪かい? インフルエンザ? それとも……」
「違う違う」
思わず笑ってしまう。
「ただ、好き好きって言うの、やめたの」
パパの持っていた2つ目のクロワッサンがグシャリと潰れて、大量のパンくずが皿へ落ちる。
「えっ……ええぇっ?!」
「そんなに驚く?」
「だってそれは、雪奈にとっての呼吸みたいなものだろう」
「パパ、ひどい」
私の作り込んだ困り顔を向けると、パパは本気で困ったようにママを見た。
「ねえ、美咲さん」
「なぁに?」
「明日は雹が降るのかな……」
ママは優雅にクロワッサンを割ってから、ふわりと笑った。
「雪奈はきっと、成長したのよ」
「そう! ちょっと大人になったの」
「大人に?! 大人になんてまだならなくていいんだよ? ずっとパパの可愛い娘でいて」
「ふふっ! 私はずっとパパの娘だから、大丈夫だよ」
「それに……」
パパと私のコントを遮るように、ママは窓の外へ視線を向ける。
「困るのはきっと、雪奈じゃない気がするわ」
「え?」
「ううん。何でもないわ。温かいうちにいただきましょ」
ママはそう言ってクロワッサンを頬張りながら意味ありげに微笑むだけで、それ以上は教えてくれなかった。
***
午後三時を少し回った頃、小児病棟の談話室には、いつもの賑やかな声が戻っていた。
「ゆきねえちゃん、今日はこれ!」
「えーっ、昨日もその本だったでしょう?」
「でも好きなんだもん!」
「じゃあ……今日は、お化け役を看護師長さんにお願いして、とーっても怖く呼んでもらおっか!」
「やだ! しちょうさん怖い! やだ!」
絵本を抱えた男の子が慌てて首を振ると、周りの子どもたちがきゃっきゃと明るい声をあげて一斉に笑った。
私は床に敷かれたマットの上へ腰を下ろし、膝の上で絵本を開く。窓から差し込む午後の日差しは淡く、子どもたちのパジャマや紙飾りの色を柔らかく照らしていた。
今日もこの場所だけは変わらない。
一緒に笑って、一緒に歌って、たまに喧嘩を止めて。病院の中であることを少しだけ忘れられる時間を、みんなと一緒に作る。
「ゆきねえちゃん、こっち座って」
「はーい! 今行くね」
小さな手に袖を引かれ、その子の隣へ座り直す。そのとき、談話室の外を白衣が横切った。
見慣れた黒い髪。ネイビーのスクラブ。その見覚えのある陰に身体が先に反応して、顔が上がる。
今日は珍しく、倫ちゃんもこちらを見ていた。目が合った瞬間、胸の奥からいつもの言葉が浮かんでくる。
でも、絶対に言わない。私は絵本を閉じ、子どもたちへ「少し待っていてね」と告げてから立ち上がった。
「榊先生、お疲れさまです」
なるべく普通に笑って、頭を下げる。倫ちゃんの歩みが止まった。
「……あ……お疲れさまです」
朝と同じように、返事が遅れる。それだけで、胸がくすぐったくなる。
でも、嬉しそうな顔をしたら意味がない。
私は両手を身体の前で重ね、ボランティアとして必要なことだけを伝えた。
「今日はこの後四時まで読み聞かせをして、そのあと30分ほどピアノをお借りします。終わったら、鍵はナースステーションへ返しておきます」
「分かりました」
「ありがとうございます」
事務的に情報を交わすと、倫ちゃんに頭を下げる。倫ちゃんも形式的に頭を下げると、歩かざるを得なくなったように一、二歩、足を進める。
私たちの会話は、それきりだった。
以前なら、そこから顔色や睡眠時間まで聞いていた。昼食は食べたのか、疲れていないか、今日の白衣も似合っていると、思いついたことを全部口にしていた。
倫ちゃん断ちは究極のダイエットだったのかと思うくらい、私の食欲は落ちていて、すでに寂しい。けれど、宣言してしまった以上、後には引けない。
ぎゅっと目を閉じてその場を離れようとしたけれど、なぜか倫ちゃんはまだその場に立っていた。
「……榊先生? まだ何か、ありますか?」
「……ありません」
「そうですか。それでは、失礼します」
もう一度頭を下げ、子どもたちのところへ戻る。背中へ視線がついてきている気がしたけれど、私はもう振り返らなかった。
「ゆきねえちゃん、せんせーとケンカしたの?」
マットの上へ座った途端、絵本を抱えたえまちゃんがコソコソと耳元で尋ねる。
「えー、してないよ?」
「でも、せんせーのこと、りんちゃんってよばなかったよね」
鋭い指摘に、ぐうの音もでない。子供たちは、思ったよりもよく、周りを観察しているのかもしれない。
「んー。今日は、先生って呼ぶ気分の日なの」
思わず作り笑顔をして見つめ直すけれど、誤魔化せている気はしない。
「なんで?」
「ちょっと大人になろうと思って」
「なんで? ゆきねえちゃんはオトナじゃないの?」
「……まだ19歳だから、一応ぎりぎり子ども寄りかな?」
「えまより大きいのに? なんで?」
一度始まった「なんで」攻撃は、終わらない。自分で答えながら、少しだけ苦しくなっていく。
倫ちゃんが私を子ども扱いするのは嫌だった。けれど、好きだと言い続けることをやめるだけで大人になれるわけでもない。
ただ、今までと同じではいたくなかった。
「りんたろーせんせー! ゆきねえちゃん、大人になるんだって」
えまちゃんが、まだ廊下にいた倫ちゃんへ大きな声で知らせる。倫ちゃんの肩が、目に見えるほどわずかに固まった。
「そう、ですか」
「せんせー、うれしい?」
「読み聞かせの邪魔ですよ、お部屋に帰りますか?」
「……帰らない」
その返答は、まるで答えになっていない。
結局えまちゃんは不満そうに頬を膨らませて、こちらへ戻ってきた。その表情と倫ちゃんの反応が可愛くて、思わず口元を絵本で隠す。
効いている。
本当は飛び跳ねたいほどに嬉しい。
でも、倫ちゃんはそれ以上。こちらへ近づいてこなかった。
***
窓の外に雲ひとつない青空が広がっていたせいか、全ての読み聞かせを終えた頃には、子供たちの集中力もすっかり切れていた。
「鬼ごっこしたい!」
「今日はここまで。次はピアノの時間だよ〜」
「じゃあボクが『ねこふんじゃった』弾く!」
「待って! 足、まだ点滴につながってるでしょう?」
立ち上がろうとした男の子を、近くにいた若い医師が慌てて支える。
まだ初期研修を終えたばかりで、倫ちゃんより幾分か年下に見える先生だった。丸い目元と柔らかな話し方で、子どもたちからは「佐伯先生」と呼ばれている。
「佐伯せんせーも弾いてよ」
「僕は弾けないんだよ〜」
「昨日、歌は歌うって言ってた!」
「いや……歌えるとは言ってないよ。読み聞かせよりはいいって言っただけで」
「え! 卑怯! 一緒じゃん!」
子どもたちが笑い声を上げる。佐伯先生は困ったように頭を掻いた。
「実は昨日、絵本を読んであげたんですけど、登場人物の声を変えられなくて」
「全部、佐伯先生の声のまま?」
「鬼も、お姫様も、おばあさんも、全部僕です」
真面目な顔で言われて、思わず笑ってしまった。
「それは子どもたちも笑いますね」
「宝生さんまで笑うんですか」
「だって、佐伯先生がお姫様の声を出してるところ、想像したら……」
「やめてください。今ので十分傷つきました」
佐伯先生が大げさに肩を落とす。子どもたちがまた笑い、私もつられて声を立てた。
そのときだった。
「……佐伯先生」
こんこん、と壁をノックする音がして、大好きな低い声が談話室の入口から届いた。
ドアの前に、倫ちゃんが立っていた。
腕にはカルテを抱え、表情はいつも通り落ち着いている。ただ、切れ長の目は佐伯先生へまっすぐ向けられていた。
「診療録の記載は終わっていますか」
「え、あ、あと少しです」
「少しなら、先に済ませてください」
「でも、今からピアノの――」
「担当患者の記録が優先です」
声は静かなのに、拒む余地がない。その空気を察した佐伯先生はすぐに姿勢を正して立ち上がる。膝の上でゴロゴロとしていた男の子も、申し訳なさそうに私の方へと歩いてきた。
「すみません」
「謝る前に戻ってください」
「……はい」
子どもたちに惜しまれながら、佐伯先生は談話室を出ていく。
背中が廊下の向こうへ消えると、さっきまでの明るい空気が少しだけしぼんだように感じた。
「榊先生、どうかしましたか?」
私はピアノ椅子へ腰掛けながら尋ねた。
「彼は勤務中ですから」
「そうですね」
素直に頷く。
「すみませんでした」
以前の私なら、業務中でもかっこいい、なんて返していた。でも今日は、ピアノの鍵盤へ手を置くことに集中する。
鍵盤を一度鳴らして、音を確かめる。
少し高い音が談話室へ響くと、足元に座っている子どもたちは期待したように身体を揺らした。
「よーし! じゃあ、何弾こっか?」
「明るいやつ!」
「昨日の!」
「りんたろう先生も聴く?」
子どもに尋ねられ、倫ちゃんは腕の中のカルテへ視線を落とした。
「仕事がありますので」
「いつもそう言う!」
「仕事中ですから」
「ゆきねえちゃんのピアノ、好きじゃないの?」
小さな問いかけに、倫ちゃんの指がカルテの角で止まった。私は鍵盤を見つめたまま、その返事を待ってしまう。
「……嫌いではありませんよ」
聞こえてきた声に、胸の奥が一瞬だけ温かくなる。今は、その言葉一つでテンションを急上昇させられるほど、私の心は倫ちゃんに飢えている。
「じゃあ、始めるよー! せーのっ」
前を向き、明るい曲を弾き始める。子どもたちが手拍子をし、楽しそうな歌声が重なった。
間奏のタイミングでそっと入口を見ると、倫ちゃんはまだそこにいた。
仕事があると言ったのに、カルテを抱えたまま、壁際でこちらを見ている。目が合いそうになった瞬間、私はすぐに鍵盤へ視線を戻した。
褒めない。待たない。期待しすぎない。
そう決めたのに、倫ちゃんが残っているだけで、指先が少し軽くなる。曲を弾き終えると、子どもたちは全身全霊の拍手をくれた。
改めて私が振り返ったとき、もう倫ちゃんの姿はなかった。
***
ボランティアを終え、ナースステーションへ談話室の鍵を返す。
「本日もありがとうございました」
「こちらこそ。子どもたち、楽しそうでした」
「よかったです。それでは、失礼します」
師長さんに鍵を返して廊下へ出ると、向こうから倫ちゃんが歩いてくる。
胸元のポケットへ手を入れ、何かを探すように指を動かしている。白いうさぎのボールペンは、いつもと同じ場所に収まっていた。
「榊先生」
私が声をかけると、倫ちゃんは顔を上げた。ほんの一瞬だけ、安堵したように目元が緩む。
「本日の活動は終了しました。談話室の鍵も返却済みです」
「……分かりました」
「では、失礼します」
私は頭を下げ、その横を通り過ぎる。
「雪奈さん」
背中へ呼びかけられ、足が止まりかけた。けれど、すぐには振り返らなかった。
名前を呼ばれるだけでこんなにも私の心臓は喜んでいるんだと、本当は心電図でもなんでも、見せてあげたい。
その気持ちをグッと堪えて、作り笑顔で振り向く。
「何でしょうか?」
「……いえ」
数秒待っても、その続きは来ない。
「それでは、お先に失礼します」
だから、今度こそまっすぐ、言葉を待たずに歩き出した。後ろから、何かを言いかけた空気だけが追ってくる。
それでも、私は聞かないふりをしてエレベーターへ乗り込んだ。倫ちゃんの姿は、もうなかった。
沈み始めた気持ちを自分で持ち上げようと、大きく息を吐く。
今日も、メッセージは送らない。自分で決めたんだから、それくらいはちゃんとやる。
そう言い聞かせてスマートフォンをバッグへしまい、私は振り返らずに病院を後にした。




