06.夕日と本音
「……傷つけずに断る方法なんて、ないよ」
大学のカフェテリアで、燕は迷いなく言い切った。初めは頬杖をついて私の話を聞いていたはずなのに、その言葉はやけにリアルで、私にぐさりと突き刺さる。
窓際の席には冬の弱い日差しが差し込み、テーブルの上に置いたスマートフォンの画面を白く反射させていた。
燕は髪ゴムを唇に軽く咥えると、そのままくるくるっと襟足の近くでお団子にまとめる。
その仕草ひとつに、ちゃんと聞いてやろうじゃないのという燕なりの優しさが垣間見えた。
黒縁眼鏡の奥から「面倒なことになったわね」という心の声も多少漏れてはいたけれど、今日だけは無視して話を進める。
奏多さんから届いた次の誘いを、私は断れずにいた。
数分ごとに続いていたラリーを止めたまま開きっぱなしにしたせいで、スマホの充電は5パーセントも減ってしまっている。
「だから『もう行きません』でいいんだってば」
「でも、奏多さんは何も悪くないのに?」
「だから断れないの?」
「……うん」
「はあ。それ、一番良くないやつね」
燕は湯気の出なくなったラテから口を離し、顔を横へ傾ける。薄いミルクの膜が口元についたのを、ティッシュでくるくると拭って落とし、トレイに軽く放った。
「絶対に望みがないなら、今すぐすっぱり断った方がいい」
「相手を、傷つけてでも?」
「傷つけないように断ろうなんて、恋愛上級者じゃない限り絶対に無理。初心者にはできるはずない。あんたはなんていうか——烏滸がましいのよ」
その言葉は、高いところから卵を落としたように、私の価値観を一気に壊していく。私は、思わずテーブルの木目へ視線を下げた。
「烏滸がましいって……そこまで?」
チラリと燕の方を見ると、腕を組んで眉をひそめ、小さくため息をついていた。私が目線を向けたのに気づいた燕は、私の胸を指さす。
「だって、自分は相手にとって優しくて良い人のままでいたい。でも相手には諦めてほしいってことでしょう?」
「わ、私はそんなつもりじゃ……」
「分かってる。……雪奈は本当に傷つけたくないだけだよね」
燕の声が、少しだけ柔らかくなる。
「でも、気持ちを伝えて断られたら誰だって傷つくよ。もし……本当に雪奈を好きなら、なおさらね。期待を持たせたままにするより、次へ進めるようにする方が、本当は優しいんじゃない?」
恋愛漫画で読んだことあるような状況に、カフェテリアのざわめきが少し遠くなる。
まだ光っている手元のスマートフォンには、奏多さんの丁寧な文章が並んでいる。
奏多さんは急かさない。倫ちゃんが好きな私を責めない。私が倫ちゃんを好きだと知っていて、それでも好意を向けてくる。
「それに……好かれ続けるのも、案外しんどいでしょう雪奈」
燕の言葉を、私は肯定も否定もできなかった。奏多さんを嫌いではない。優しいこともわかる。だからこそ、苦しい。
「…………ちょっと、しんどい」
ほんの少し残った歯磨き粉を必死に絞るように出した自分の声は、想像よりも遥かに小さかった。
「……好きになれない私が、悪いことしてるみたいで」
そこまで言った瞬間、嫌な汗がどっと背中をかけていく。
何度断っても、好意を向けられる。
嫌いではないから、強く拒めない。
その行動を言葉にした時、一番に脳裏に浮かぶのは、奏多さんではなく——見慣れた艶やかな黒髪と、困ったように眉を寄せる顔だった。
私が「結婚して」と言うたび、倫ちゃんは話を逸らした。何度断られても、私は「じゃあ明日また言うね」と笑っていた。
首の後ろへ手を伸ばすから、照れているのだと喜んでいた。本当は嬉しいから、強く拒まないのだと思っていた。
けれど、それは私がそう思いたかっただけかもしれない。
「……もしかして」
「何?」
「倫ちゃんもさ、ずっとそうだったのかな……」
燕は何も言わなかった。肯定も、否定もせず、私が自分で続きを考えるのを待っている。
その沈黙が、かえって苦しかった。
***
その日のボランティアが終わる頃、病棟には夕方の薄い光が差し込んでいた。
窓辺のピアノには、子どもたちが折った小さな紙の星がたくさん並べられている。
「ゆきねえちゃん、また明日ね」
「うん。またね!」
子どもたちが両親や病棟保育士さんに連れられて、病室へ戻っていく。
最後の一人が手を振って出ていくと、談話室は急に、がらんと広くなったように感じた。
窓の外はもう薄暗い。
ガラスに映る室内の灯りが、アップライトピアノの黒い天板へ薄く重なって反射している。
談話室に置かれているこのピアノは、子供の頃にパパが買ってくれたものだ。グランドピアノが欲しいと言った私に、パパは1つだけ条件をつけた。
「新しいピアノを迎える代わりに、それまで使っていたピアノを病院へと移し、子供達のために弾き続けること」と。
あの頃の私は深く考えず、ピアノ欲しさにその条件を飲んだ。
けれど今思えば、パパはもっとずっと先まで、見ていたのかもしれない。
誰かのために音を鳴らすこと。
自分の好きなものが、誰かの不安を少しだけ軽くすること。
子どもたちは「弾いて」と言ってくれる。だから私は、安心して音を届けられる。
鍵盤にゆっくりと手を乗せて、思い浮かぶ旋律を弾き始める。さっきまで子供達と弾いていた明るい童謡ではなく、指先が選んだのは子供の頃から何度も聞いた古いバレエ音楽だった。
一途に人を愛した少女が、その人に傷つけられても、最後には守ろうとする物語。
静かな旋律が、誰もいない談話室へ広がっていく。
そんな恋を、私は綺麗だと思っていた。でも今は少しだけ——怖いと思う。
好きだから、そばにいたい。
好きだから、何度でも伝えたい。
けれど、その気持ちは、受け取る人にも同じように温かいんだろうか。
答えのない悩みを考えているうちに、脳内の譜面は最後のページへ辿り着く。
最後の一音を奏でて、踏んでいたペダルを離す。そっとピアノの蓋を閉じた音は、橙色へ染まっていく空に吸い込まれていった。
「……今日は、随分と悲しい曲ですね」
目を伏せた視線の片隅に、看護師さんよりも背の高い影が目に入る。
振り向くと、倫ちゃんが入り口に寄りかかるように立っていた。
ネイビーのスクラブの上から白衣を羽織り、胸ポケットには白いうさぎのボールペンが差してある。
いつも通りの姿。
その姿を見ただけで、息をするより先に言葉が出そうになる。
「倫ちゃん、今日も――」
かっこいい。
何度も口にしてきたその言葉の続きを、ごくりと飲み込んだ。
ピアノの艶やかな上前板に、奏多さんの笑顔と返事に困った自分——そして倫ちゃんの困り顔が、写った気がした。
「……いつからいたの?」
「途中からです」
「声をかけてくれればよかったのに」
「邪魔をするほどの用事があるわけじゃないので」
「そう」
「それで?」
「それで、ってなぁに?」
その問いに、倫ちゃんはわずかに首を傾げる。何を問われているのかわからず聞き返す私を、不思議そうな顔で見つめている。
「今日も——とおっしゃったので」
「それは、何でもない」
ただ言葉を止めただけなのに、喉の奥が熱く痛む。
「……この曲ね、好きな人を最後まで守ろうとする女の子の曲なの」
「そうですか」
「その人にどんなに傷つけられても、嫌いになれなくて」
倫ちゃんは何も言わなかった。
「昔はね、それをすごく綺麗な恋だなって思ってたの」
「今は、違うんですか」
「……好きなら、何をしてもいいわけじゃないのかもって、ちょっと思っただけ」
ピアノの蓋の上に置いたままだった手を、膝の上に戻す。倫ちゃんは何も言わず、私の方をじっと見ていた。
いつもなら「また何か恋愛漫画に影響されたんですか」と流されるところなのに、今日は視線を逸らさない。その静けさに、つばめへ相談したときよりも胸が落ち着かなくなる。
「何かあったんですか」
「えっ」
「雪奈さんが、自分からそんなことを考えるなんて不思議なので。何か理由があるんじゃないかと」
「……それ、私がいつも考えなしに好きだって言ってるみたいじゃない?」
「違いますか?」
「えっやだ! シンプルにひどいこと言うじゃない!」
思わず声を上げると、倫ちゃんの目元がほんの少しだけ緩んだ。いつものやり取りへ戻れたことに安心しかけて、すぐに口を閉じる。
倫ちゃんは、今日もかっこいい。今みたいに、私を笑わせようとして意地悪を言う顔が好き。
そうやって喉元まで出てきた言葉を、今日は飲み込んだ。その代わり、窓際の本棚に並んだ絵本へ目を向ける。
奏多さんと一緒に選んだ絵本たちは、早速子どもたちの部屋へと借りられていった。本棚には、読まれすぎてページが外れた絵本や、角の曲がってしまった古い絵本たちが、少し寂しそうに並んでいる。
「……奏多さんにね、好きになりそうって言われたの」
倫ちゃんの視線が、私から絵本へ移る。
「ずっと優しいし、私が倫ちゃんを好きなことも、わかってくれてる。でもそれでもいいから会いたいって」
「……そうですか」
白衣の胸ポケットで、ペンの上のうさぎがゆらゆらと跳ねる。
「奏多さんのこと、嫌いじゃないの。話していて楽しかったし、ここの子供達のことも一緒に考えてくれるし」
倫ちゃんは表情を崩さない。ただ徐々に小さくなる私の言葉を聞き漏らさないようにと、静かにこちらを見つめていた。
「だから、断るのが思ってたより苦しくって」
気まずさを繕うように笑ってみたけれど、声は思っていたよりもカサついていた。
さっきまで音楽と笑い声で満ちていた部屋が、今は倫ちゃんの返事を待つためだけに静寂を貫いている。
「好きになれない自分が、悪いのかなぁとか、思ったりして」
「雪奈さんが悪いわけありません」
倫ちゃんは、今度は間髪入れずに答えてくれた。
「好意を向けられたからといって、答える義務はありません」
倫ちゃんは、奏多さんのことならこんなにも簡単に正しい答えをくれる。それなのに、私たちのことになると、いつも何も言ってくれない。
「うん……でも燕には、ちゃんと断ったほうがいいって言われたから。私なりに考えたの」
連日のアルコール消毒で、少しかさついた指先を見つめる。
「嫌いじゃないから傷つけたくない。でも、好きにはなれない。私、奏多さんに対してそう思ってる」
倫ちゃんの表情が止まった。
「それでね——もしかしたら倫ちゃんも、ずっと同じだったのかなって」
空調の風が頬へ冷たく触れる。
「私が好きって言うの、迷惑だった?」
「迷惑ではありません」
それは珍しい即答だった。いつもの親指は動かない。そのことに、胸の奥が少しだけ緩む。
「じゃあ、嬉しい?」
そうですねと返ってくるはずのない答えを聞きたくて、問いかける。倫ちゃんの唇は開きかけて、声にならないまま、閉じていく。
赤く染まった部屋の中で、時計の秒針だけがカチカチと響く。待っても、答えは返ってこない。
迷惑ではない。けれど、嬉しいとも言わない。それがどういう答えなのかは、恋愛レベル初級の私にだってわかる。
「……そっかぁ」
視線を落とすと、ピアノの黒い表面に、少しだけ歪んだ自分の顔が映っていた。
別に、泣くほどのことじゃない。
ただ、可愛らしいパッケージとは裏腹に甘味のないキャンディを舐めたような、なんとも言えない後味だけが口の中に残っている。
「分かった」
「何がですか」
倫ちゃんの声が、いつもより早く返ってきた。私は顔を上げ、できるだけ明るく笑う。
「迷惑じゃなくても、答えられないことがあるんだってこと」
「それは」
「私、少しだけお休みしようかな」
「何をですか」
「倫ちゃんに、好きって言うのも、かっこいいって言うのも……結婚してってお願いするのも」
夕焼けに照らされた倫ちゃんの顔から、わずかに血色が消えたように見えた。
「別に、そこまでは」
続きが来ると思った。
やめなくていいって、言ってくれるかもしれない。
けれど倫ちゃんは、途中で口を閉じた。
首の後ろへ伸びかけた手も、途中で白衣のポケットへ戻る。
「いや、そうですね……雪奈さんの自由にしてください」
最後まで、止めてはくれなかった。胸の奥へ落ちた痛みが、今度はさっきより少しだけ深くて熱い。それでも、私は笑った。
「うん。私の、自由だもんね」
倫ちゃんはそれ以上、何も言わない。白いうさぎは今も胸ポケットから顔を覗かせて、揺れ続けていた。
「じゃあ、今日は先に帰るね!」
いつもの声を出し、足元に置いていたバッグを肩へ掛ける。今日だけは、このまま振り返らずに帰ろうと決めていた。
振り返ったら、きっとまた何か言いたくなる。
だから、全ての言葉を喉の奥へ残したまま、私は扉へ向かった。
小児病棟の出入り入口のガラス戸には、確かに私を見送る倫ちゃんの姿と沈みかけた夕日が反射している。
それでも、今日だけは絶対に、振り返らなかった。




