05.思いがけないデート
それは午前授業を終え、お昼もそこそこに小児病棟へ入った途端の出来事だった。
エレベーターを上がって先にトイレへ行き、手指をよく洗う。アルコールで指先を消毒してマスクをすると、こども病棟と書かれたガラス戸を開ける。
朝から外来を担当している日だから、倫ちゃんの姿は見えない。
先にナースステーションへ顔を出そうと談話室の前を通り過ぎると、子供たちの一際明るい声で足止めされた。
「あー! ゆきねえちゃんきた! ほん、ありがとう!」
廊下の向こうから聞こえた声に顔を上げると、パジャマ姿の女の子が、両腕で大きな絵本を抱えながら駆けてくる。その後ろからも、子どもたちが次々と顔を出した。
「今日、これ読んで!」
「あたしはね、うさぎのやつがいい!」
「おばけも、恐竜もあるよ!」
「えっ、ちょっと待って。何の話?」
足元へ集まってきた子どもたちを見回す。みんなの腕には、見覚えのない真新しい絵本が抱えられていた。
表紙には、星空を飛ぶ列車や、料理をする白いうさぎ、大きな口を開けた恐竜が描かれている。それはどれも、前に奏多さんへ話した記憶のある本だった。
長く入院している子には旅に出る物語を読み聞かせてるだとか、小さい子には絵が大きくて文章の短いものがいいとか。あの日の席で、私はそんな話までしていた。
「雪奈さん、ありがとうございました」
いつも一緒に読み聞かせをしてくれる病棟保育士さんが、空になった段ボール箱を抱えて近づいてくる。
「みんな何度も読んでいるせいか、新しい本が欲しいと言っていたので、とても助かりました。子どもたちも朝から大喜びで……」
「私、何も……」
「あれ? 私は確かに雪奈さんからと伺いましたけど……」
箱の側面に貼られた伝票を見せてもらう。
確かに届け先は宝生総合病院の小児病棟で、送り主の欄には私の名前が印字されていた。
指先から、すっと熱が引いていく。私が送ったことになっている。何も知らなかったのに、子どもたちは私へありがとうと言っている。
「ゆきねえちゃん、早くよんでよ」
女の子が私のスカートを引いた。無邪気に向けられる笑顔に、今は少し居心地が悪い。抱えている絵本を、早く開きたくて仕方がないらしい。
「……う、うん。あとで、みんなで読もうね」
笑って答えると、子どもたちは声を上げながらプレイルームへ戻っていった。
その背中を見送っていると、バッグの中でスマートフォンが震えた。
画面に表示された名前を見た瞬間、誰が送ったのかを理解する。
——そろそろ届きましたか?
奏多さんからだった。
短い一文の向こうに、あの感じのいい笑顔が浮かぶ。きっと悪気はないのだろう。子どもたちが喜ぶものを選び、私が困らないよう病院へ直接送ったつもりなのかもしれない。
それでも、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
『こういうのは困ります』
勢いのまま打ち込む。
送信した直後に、少し強すぎたかもしれないと思った。
けれど、隣のプレイルームからは、子どもたちが絵本を取り合う明るい声が聞こえてくる。
喜んでいる子どもたちを見れば、やめてくださいとも言えない。
奏多さんを責めたいわけでもない。
私は画面を見つめたまま、次の言葉を探した。
しばらくして、返信が届く。
——すみません。雪奈さんのお名前で届いた方が、子どもたちも安心するかと思ったのですが。勝手なことをしました
笑って誤魔化すのではなく、まっすぐ謝られてしまった。その文面を読んだ途端、さっきまで尖っていた気持ちが少しだけ丸くなる。
ずるい。
きちんと謝られると、それ以上怒れない。
プレイルームを覗くと、白いうさぎの絵本を開いた女の子が、隣の子へ得意そうに表紙を見せていた。
奏多さんが贈った本で、みんなが笑っている。
私は息を吐き、もう一度スマートフォンへ指を置いた。
『でも、子どもたちは喜んでます。ありがとうございます』
そこまで打って、一度止まる。
このままでは、私から贈られたものだとみんなが思い続ける。それは違う。
『今度は、私ではなく奏多さんのお名前で送ってあげてください』
『新しいお友達ができて、その人が絵本を読んでくれたら、きっともっと喜びますから』
送信すると、今度はなかなか返信が来なかった。
画面の上に「入力中」の文字が現れては消える。
奏多さんにも、少し意外な返事だったのかもしれない。
——分かりました。次からは僕の名前で送ります
続けて、もう一通届く。
——その代わり、どんな本が喜ばれるか教えていただけませんか。
——今回は書店員さんのおすすめを送ったので、せっかくなら雪奈さんに紹介してほしいんです。
それは、とすぐに返事をしようとして、指が止まった。
絵本を選ぶだけだ。病棟の子どもたちのため。奏多さんと会うためではない。そう考えると、断る理由が見つからなかった。
***
数日後。
待ち合わせた書店は、児童書の品揃えが多いことで知られる大型店だった。
奏多さんは、絵本売り場の入口で私を待っていた。
柔らかく波打つ髪に、薄いグレーのコート。今日も笑顔の角度まで整っている。奏多さんは声の届かない距離にいる私を見つけると、迷いなくこちらへ歩いてくる。
「お待たせしました」
「いえ、僕も今来たところですから。今日はありがとうございます」
「まあ……子どもたちのため、なので」
先に釘を刺すように言う。奏多さんはふっと小さく笑って、目を細めた。
「分かっています、今のところは」
「今のところ?」
「帰る頃には、ほんの少しくらい——僕と会えてよかったと思っていただけるかもしれないので」
さらりと言われ、返す言葉に詰まった。同じことを倫ちゃんに言われたら、一週間は眠れない。
でも奏多さんに言われると、どう受け取ればいいのか分からない。オロオロしている私を見て、奏多さんは「あまり肩の力を入れずに」と笑った。
店内には、紙とインクの混ざった匂いが漂っていた。
天井近くまで並ぶ棚の隙間を、親子連れが楽しそうに行き交っている。
「前回は、年齢別のおすすめを聞いたんです」
奏多さんが、平積みされた絵本へ視線を落とす。
「でも、実際に子どもたちと接している雪奈さんの方が、好みをご存じでしょう?」
「そうですね。年齢だけじゃなくて、その子の性格や境遇でも違いますから」
表紙に大きな月が描かれた一冊を手に取る。
「この本は、寝る前に読むと喜ぶ子が多いんです。少し寂しい話なんですけど、最後にはちゃんとお家へ帰るから」
「その子たちは、帰る話が好きなんですか?」
「……いつ家に帰れるのか、分からない子も多いので」
口にしてから、少しだけ胸が詰まった。
奏多さんは、すぐに励ます言葉を返したりはしなかった。私の手にある絵本を見て、ゆっくり頷く。
「じゃあ、そんな幸せなお話を探しましょうか」
それだけだった。大丈夫ですよ、と軽く慰められるより、その言葉の方が心に残る。
「これはどうですか?」
次に奏多さんが差し出したのは、動物たちが大きな鍋を囲んでいる絵本だった。
「あ、こういう食べ物の話は人気です。でも、夜中に読むとお腹が空いたって騒いじゃうかも……」
「じゃあ、昼間専用ですね」
「絵本に使用時間を設けるんですか?」
「雪奈さんがそういうのなら、あることにします」
「ふふっ適当ですね」
「法学部なので、規則は守りたいんですよ」
「その規則、今作ったばかりですよ」
奏多さんが声を立てて笑う。
いつもの感じのいい笑顔ではなく、一瞬だけ形が崩れた。けれど、私が見たと気づくと、すぐに口元を整える。
「何ですか?」
「いえ。今の方が、楽しそうだなと思って」
「普段も、楽しんでいますよ」
「そうですか?」
「疑いますね」
「だっていつもはずっと、綺麗な顔で笑うから」
言ったあと、少し失礼だったかもしれないと思った。けれど奏多さんは怒らず、私の顔をじっと見た。
「雪奈さんは、人の表情をよく見ているんですね」
「倫ちゃんを見すぎて、癖になってるだけです」
「ここでも榊先生が出てくるんですね」
「今のは仕方ないでしょう?」
「ええ。もう数えるのはやめます」
そう言いながら、奏多さんは新しい絵本を棚から抜き出す。擬音だらけの小児向けの絵本に、少し長めの旅の絵本。選書を続けているうちに、私たちの間に流れていた緊張の空気はだんだんと薄れていった。
女の子たちには歌があるの人気。
夏が始まると、お化けや妖怪の出てくる話を聞きたがる。
読み聞かせるなら、1ページごとに反応を見られるような絵本が楽しい。
そうやって子どもたちの顔を思い浮かべながら話していると、奏多さんは一冊ずつ真面目に中身を確かめていく。
気づけば、私たちはふたりでカゴいっぱいの絵本を抱えていた。
「ずいぶん選びましたね……全部買うんですか?」
「もちろんです」
「でも、こんなにたくさん」
「子どもたちの人数を考えたら、これでも少ないくらいでしょう?」
奏多さんは当然のように言い、そのままレジへ向かおうとする。
私は慌ててコートの袖を掴んだ。
「あ、あの! 待ってください!」
振り返った奏多さんの目が、袖を掴んでいる私の指先へ落ちる。私はすぐにハッとなって、その手を離した。
「今回は、私が出します」
「雪奈さんに選んでいただいたお礼なので、僕が。今回は僕の名前で送りますよ」
「う、そうじゃなくて……」
うまく説明できず、絵本の角を指でなぞる。奏多さんに好かれるために来たわけではない。
でも、何もかもしてもらうのは違う気がした。
「私からも、子どもたちに贈りたいんです」
奏多さんは、少し驚いたように私を見た。それから絵本の山を半分に分ける。
「では、半分ずつにしましょう」
「……っはい!」
「一緒に選んで、一緒に贈ったということですね」
「そうなりますね」
「初めてのデート兼、共同作業ですね」
「……そこだけ聞くと、少し変な感じがします」
「そうですか? 僕は嬉しいですよ」
また、何でもないことのように言われる。胸が跳ねることはない。
だからこそ、どう返せば奏多さんを傷つけないのかを考えてしまう。
レジを終えたあと、私たちは書店に併設されたカフェで温かい飲み物を飲んだ。
窓の外では、買い物袋を持った人たちが足早に通り過ぎていく。店内の暖房とココアで、冷えた指先が少しずつ温まっていく。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ。子どもたちも喜ぶと思います」
「僕も楽しかったです」
「本屋さんが?」
「デートが」
カップを持ち上げかけた手が止まった。
「デートじゃ、ありません」
「僕は初めからそのつもりでしたよ」
「子どもたちの絵本を選んだだけです」
「一緒に本を選んで、お茶を飲んだ。十分デートでは?」
「違います」
「では、次はきちんとデートとして、お誘いしてもいいですか? 雪奈さんのこと、好きになりそうなので」
奏多さんは笑っている。冗談のようにも聞こえるのに、その目はまっすぐ私へ向いていた。
「……私は、倫ちゃんが好きです」
「知っています」
「奏多さんを好きになる予定もありません」
「予定は、変わることがありますから」
「変わりません」
「そうかもしれませんね」
簡単に引き下がられると、かえって次の言葉が出なくなる。
奏多さんは、私の返事を求めることなくカップへ口をつけた。
拒んでも怒らない。
責めない。
それでも、好意だけは取り下げない。
本当は、はっきり近づかないでと言えばいいのだろう。
でも今日、私は楽しかった。絵本を一緒に選んだことまで否定するのは、嘘になる。
「返事は急がなくて大丈夫です」
奏多さんの指が、カップの縁から離れる。
「また雪奈さんと会いたいと思っていることだけ、覚えておいてください」
穏やかな声だった。
気持ちを強く押しつけられたわけではないのに、口元へ薄い布を何枚も重ねられたように、急に息がしづらくなった。
ここまで一気に5話分公開でしたが、6話からは毎日1話ずつ18時に更新していきます!
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