04.次も会うんですか?
外来最後の患者を送り出したあと、倫太郎はすぐにパソコンの電源を切った。
白衣のポケットからスマートフォンを取り出す。
雪菜の父からの連絡が二件。
雪奈からの返信は何も届いていない。朝に送った『本日はお気をつけて』には、既読の印だけがついていた。
いつもなら「もっとほかに言うことがあるでしょう!」とすぐに抗議が来る。それから、今日の服を見てほしいとか、髪の毛を可愛く編めたとか、頼んでもいない写真まで届く。
だから、今日はやけに静かで助かる。
そう思いながらスマホの画面を消した。
それなのに、机を片付けた後も、荷物をまとめた後も、また無意識に画面に触れてしまう。
ついつい気にしてしまう自分が鬱陶しくて、誤魔化すように手帳を開いたり、カルテを整理したり。変に時間を潰そうとする自分が、また嫌だった。
白衣の胸ポケットからペンを抜くと、ペンの先にバネでついている白いうさぎの耳が指先に当たって、揺れた。
——倫ちゃんが小児科に決まったお祝い! 子どもに怖がられないためのお守りだから、外しちゃダメよ
余計な声が、鮮明に蘇る。まだ高校生の雪奈が買ってきた謎のペンは、いつの間にか倫太郎の胸元にいなくてはならない存在だ。
本体についていたニンジンのプリントはもうすっかり擦れて消え、ただの真っ白なペンになっている。倫太郎はそのウサギのついたペンを丁寧にペン立てへ戻し、更衣室へ向かった。
定時よりも、12分早かった。
***
「今日は、本当にありがとうございました」
「こちらこそ。雪奈さんとお話しできて楽しかったです」
家の前へ停まった車の中で、奏多さんはお見合いの席と変わらない——感じのいい笑顔を浮かべていた。ホテルから宝生家までの小一時間、会話が途切れて気まずくなることはなかった。
奏多さんは聞き上手だ。
私が病院の子どもたちの話をすれば、どんな絵本が人気なのかと尋ねる。大学で学んでいることを話せば、将来それをどう生かしたいのかと聞く。
ただ相槌を打つのではなく、私の話したことを一度受け取ってから返してくれる。少なくとも、思っていたような嫌な人ではなくて、それが大問題でもあった。
「次の日程は、急がなくて構いませんよ」
「次……」
「またお会いできると思っていますので」
奏多さんは、私が返事に迷っていることを責める様子もない。
「でもほら、好きになれるかどうかは……」
申し訳なくて目線を逸らすと、奏多さんはそのままにっこりと微笑み返す。
きっとその辺りを歩いている女子なら、一瞬で心奪われるような品のある笑顔。でも私にはやっぱりその他大勢にしか見えなくて、さらに気が咎めた。
「榊先生がお好きなのは、十分に承知していますから」
「……16回も名前を出したからですか?」
「正確には、帰りの車内で3回増えましたね」
「数え続けてたんですか?」
「途中でやめると、逆に気になりますので」
「変なところで真面目ですね」
「法学部なので」
法学部は関係ない気がする。けれど、奏多さんがあまりにも自然な顔で言うので、私は小さく笑ってしまった。
「では、ドアを開けますね」
「あ、自分で大丈夫です」
「今日くらいは、お見合い相手らしいことをさせてください」
奏多さんは先に車を降り、こちら側へ回ってくる。エスコートするように開けてくれたドアの向こうには、今朝と同じように薄く雪の残った石畳が見える。
私はスカートの裾を押さえ、車から足を下ろす。普段より少し高いヒールが、石畳の継ぎ目へ引っかかった。
「あっ」
身体が前へ傾く。
奏多さんの腕が腰へ回り、転ぶ寸前で支えられる。
「あっぶな……」
さっきまでの、品のいい笑顔が崩れている。そこにいたのは、ただ純粋に心配して手を伸ばしてくれた優しい男の子だった。
「あ、ありがとうございます……」
「とりあえずここ、捕まって」
私がそのまま、奏多さんの肩へ手を置こうとした、その瞬間だった。
「失礼します」
横から伸びてきた大きな手が、私の腕を掴んだ。少し強い力でぐいっと引かれ、奏多さんの腕から私の身体が離れる。
「わっ」
気づいたときには、見慣れたベージュのコートへ頬が触れそうな距離にいた。当直明けの日にしか見られない、ほんの少しだけのびた顎下の髭。それが、たまらなくかわいく見える。
「倫ちゃん?」
思わず顔を上げる。
「早かったね!」
倫ちゃんは私の右腕を掴んだまま、奏多さんとの間へ身体を入れていた。
「そういう靴の日は、足元を見てください」
「見てたよ。引っかかったの」
「でしたら、もう少し注意してください」
「でも、奏多さんが支えてくれたから大丈夫だったよ」
倫ちゃんの指に、わずかに力が入った。
「……そうですか」
その直後、冷たい風がワンピースの袖を抜けた。
「へっくしゅ……っ」
慌てて二人から顔を背けて、口元を押さえる。けれど、くしゃみが止まらない。
私が自分の肩を抱いて体を温めるより早く、倫ちゃんがコートを脱いだ。それをふわりと肩へ掛けられ、まだ残っていた体温に包まれる。
「倫ちゃん?」
「冷えます。もう中へ入ってください」
「でも、倫ちゃんが寒いよ」
「私は平気です」
倫ちゃんは、ずり落ちかけた襟元を引き上げ、前を閉じるように整えた。
今まで想像したことのないほどに、近い距離。そして、コートの襟元からは倫ちゃんがよく使う、整髪料のアンバーの香りが漂っている。
「これ、倫ちゃんの匂いがする」
「……報告しなくて結構です」
「いい匂いなんだもん」
「雪奈さん」
「このまま借りてもいい?」
「本邸へ入るまでです」
「え、やだ! 一生借して! お願い!」
「返してください」
「やだやだ! 今、掛けてくれたばっかりなのに!」
奏多さんは、私たちをしばらく眺めていた。口元には、いつもの感じのいい笑顔が戻っている。けれど、その目だけは倫ちゃんを観察するように細められていた。
「あなたが、榊 倫太郎さんでしたか」
奏多さんが一礼する。
「……榊です」
「お会いしたかったです、榊さん。雪奈さんから、たくさんお話を伺いました」
聞き慣れない声で呼ばれた自分の名前に、倫ちゃんの返事がほんの少し遅れる。
「……そう、ですか」
「雪奈さんが何度も先生のお名前を出される理由が、少し分かった気がします」
「お二人で、私の話を……?」
「つ、つい話しちゃって……」
ごめんね? と謝る目線を投げてみる。けれど倫ちゃんは呆れた様子で話を続けるだけ。
「お見合いで、私の話は必要ないでしょう」
「僕には必要でしたよ」
奏多さんは明るく笑った。
「雪奈さんを知るには、榊先生のことも知っておいた方がよさそうですから」
倫ちゃんの声から、さらに温度が下がる。
「……お嬢様が何を話したのかは知りませんが、私には関係ありませんので」
「そうでしょうか」
奏多さんは、コートに包まれた私と倫ちゃんを見比べた。
「少なくとも僕の目には、今のところ、かなり関係があるように見えますが」
「奏多さん……!」
「冗談ですよ」
ハハっと軽く笑ったその声に、感情は少しも乗っていないように聞こえる。
「先ほどのお返事ですが、急がなくて大丈夫です」
「返事?」
「次にお会いする日程です。まずはお友達から始めようかと」
「また、会うんですか」
倫ちゃんの言葉が、奏多さんの説明を遮った。
私も、奏多さんも、一瞬黙る。倫ちゃんだけが、自分で口にしたことに気づいていないような顔をしていた。
「まだ、決めてないけど」
私が答えると、倫ちゃんの視線がこちらへ向く。
「でも奏多さんは嫌な人じゃなかったし、私の話もちゃんと聞いてくれたから」
「そうですか」
「ケーキを3つ頼んでも引かなかったの」
「……3つも食べたんですか」
「気にするのはそこなの?」
「夕食は控えめにしてください」
「嫉妬を、指導で誤魔化してる?」
「違います」
ここだけは返事が早い。
奏多さんは、そのやり取りを面白そうに見ていた。
「榊先生は、雪奈さんが僕と会うことに反対ですか?」
「……私が決めることではありません」
「では、僕からもう一度お誘いしても問題はないと?」
倫ちゃんは答えない。奏多さんも急かさず、笑顔のまま待っている。
私も倫ちゃんを見上げた。
だめだと言うなら、今しかないのに。
止めてくれたら、私は会わないのに。
「……冷えますので」
倫ちゃんは奏多さんへの回答を見送って、私の肩から滑りかけたコートを直した。
「雪奈さんは、早く中へ入ってください」
答えの代わりに、会話を終わらせる。
奏多さんは一瞬だけ目を細めたあと、静かに会釈した。
「分かりました。今日は失礼します」
***
車のエンジン音が遠ざかり、門の向こうで完全に聞こえなくなったところで、私はようやく倫ちゃんを振り返った。
「ねえ」
「何ですか」
「奏多さん、どうだった?」
倫ちゃんはすぐには答えず、門の向こうへ視線を残したままだった。冷たい風に、黒い前髪がわずかに揺れている。
「礼儀正しい方だと思います」
「それだけ?」
「ほかに何を言えばいいんです」
「かっこよかった?」
「私に聞くことではありません」
「優しかったよ」
「そうですか」
「話も合った」
「それはよかったですね」
言葉だけ聞けば、何とも思っていないように聞こえる。
けれど、さっきまでより少しだけ声が低い。奏多さんが私を名前で呼ぶたびに、返事が遅くなっていたのも、私はちゃんと見ていた。
倫ちゃんは離れへ向かって歩き始める。私は当然のように、その横へ並んだ。
「倫ちゃん」
「何ですか」
「本当に、次も会っていいの?」
「雪奈さんが決めることです」
「でも、倫ちゃんはさっき『次も会うんですか』って聞いたよね」
「確認しただけです」
「何のために?」
「先生から尋ねられる可能性がありますので」
「パパは私に直接聞くよ?」
「では、特に理由はありません」
「嘘だ」
「嘘ではありません」
「じゃあ、次に会っても平気?」
「僕に関係はありません」
「それも嘘!」
倫ちゃんが小さく息を吐いた。返事の代わりみたいなため息だった。
そのまま、歩幅だけが少し広くなる。
逃げた。絶対に逃げた。
「ちょっと、倫ちゃん!」
足の長さが違うせいで、普通に歩いていては追いつけない。私はコートの裾を押さえながら、小走りでその背中を追った。
「待って」
「本邸へ戻ってください。冷えます」
「答えてくれたら戻る」
「何をです」
「私が奏多さんと会うの、嫌かどうか」
「……はぁ」
「ほんのちょっとくらい、嫌じゃない?」
「……いえ」
「爪の先くらいも?」
「そんなもの、測定できません」
「そこは真面目に返さなくていいの!」
雪を踏む音が、二人分続く。離れの玄関前へ着いても、倫ちゃんは答えなかった。
私は先回りして、扉の前へ立つ。
「倫ちゃんが嫌なら、私、もう会わない!」
今度はふざけずに言った。
門灯の明かりが、倫ちゃんの横顔を淡く照らしている。寒さのせいで耳も頬も少し赤い。
こんなときまで、綺麗な顔をしている。
だから困る。そんな顔で黙られたら、怒りきれない。
「たった一言でいいの」
声が少しだけ小さくなる。
「嫌だって。会わないでほしいって。そう言ってくれたら、私、迷わないよ」
倫ちゃんは長いあいだ、何も言わなかった。右手はコートのポケットへ入ったまま。首の後ろへも触れない。
ただ、私を見ている。期待してしまうには、十分すぎる沈黙。それでも、結局返ってきたのは同じ言葉だった。
「……雪奈さんが決めることですから」
「そっか」
喉の奥へ、鉄の杭が落ちたような鋭い痛みが走る。
それでも、今日は泣かなかった。奏多さんは、私の話を最後まで聞いてくれた。私自身がどうしたいのか、急かさずに待つと言ってくれている。
それなのに私は、また倫ちゃんへ答えを決めてもらおうとしていた。
「じゃあ、自分で決めるね」
口にした瞬間、自分でも少し驚いた。
いつもなら、倫ちゃんが答えてくれるまで追いかけた。何度だって好きと言って、困らせて、それでも振り向いてくれるのを待っていた。
けれど、今回は違う。決めるのは私だと、倫ちゃん自身が言ったから、自分で決めた。
倫ちゃんの視線が、わずかに足元へ落ちる。私はその意味を受け取らず、肩へ掛かっていたコートを脱ぎ、胸元へ押しつけた。
温もりが離れていった途端、体は急に軽くなる。薄い布越しに冷たい空気が直接触れて、思考が徐々にクリアになっていく。
「コート、ありがとね」
それだけ言って、本邸へ向かう。
三歩進んだところで、どうしても我慢できずに振り返った。
「今ならまだ、嫌って言ってもいいよ!」
倫ちゃんは何も言わない。
「本当に会っちゃうよ!」
返事はない。
「奏多さん、次はもっと甘いものを食べに連れていってくれるかもしれないよ!」
「……糖分は、控え目にしてください」
「そこじゃない!」
最後まで医師の顔で返され、私は頬を膨らませた。
「もう、知らない……っ!」
今度こそ本邸へ向かう。
降ったばかりの雪を踏む自分の足音だけが、やけに大きく聞こえた。
門をくぐる前に、どうしても我慢できず、もう一度だけ振り返る。
倫ちゃんは、まだ同じ場所に立っていた。離れへ入るでもなく、こちらを見ている。
目が合った瞬間、何事もなかったように小さく頭を下げ、玄関の扉へ向き直った。
「……やっぱり、ちょっとは嫌なんじゃない」
小さく呟く。傷ついたはずの心が、ほんの少しだけ軽くなる。けれど今度は、それだけで自分の答えを決めるつもりはなかった。




