03.嫌な人ではありませんでした
お見合い当日の朝、私の部屋はおもちゃ箱をひっくり返したような惨状だった。
「ねえ、燕。初対面で人に嫌われるには何色がいいと思う?」
『その質問、人生で初めて聞いたわ』
鏡台に立てかけたスマートフォンのなかで、燕があくびをしながら黒縁眼鏡を押し上げる。
ベッドの上には、試着を終えたワンピースもう何着も積み重なっている。淡い水色、クリーム色、薄いピンク。どれもママが買ってくれたものだから、着たところで大きく失敗するとは思えない。
とどのつまり、私は今大変困っている。
「水色は?」
『似合う』
「ピンク」
『似合う』
「じゃあ、この黒いの」
『それも似合う。あんたが本当に黙ってられるなら、服で嫌われるのは無理だって』
「そんなぁ……」
私は喪服にも見える黒いボレロ付きのワンピースを、力なくベッドへ戻す。
先方から断ってくれれば、誰も傷つかず、すべて丸く収まる。ママには「御子柴さんとはご縁がなかったみたい」と言えばいいし、パパも胸を撫で下ろすだろう。
倫ちゃんだって……私がお見合いをした結果、ほかの人から選ばれなかったのなら、さすがに少しくらい責任を感じるはずだ。多分。
だからこれはもう、完全無敵な計画だと思ったのに。
『一応言っておくけど、嫌われるために相手へ失礼なことをしたら怒るからね』
「…………しないよ。そんなこと」
『今、考えてたでしょ』
「ちょっとだけ」
『待てぇい』
画面越しでも分かるほど、燕の目が鋭くなった。
「だって、先方から断ってもらうなら欠点を見せないと」
『欠点を見せるのと、わざと無礼に振る舞うのは全く違うでしょうがっ』
「……分かってるもん」
『分かってる人は、深夜遅くに“お見合い相手が突然般若心経を唱えたら引くと思う?”なんて送ってこないはずですが?』
「そ、それは、念の為の最終手段として!」
『使うな』
「はい……」
燕は一度、大きく息を吸った。
『雪奈。あんたは今日、宝生家のお嬢様として相手に会うの。向こうだって、親に言われて来るのかもしれない。最低限、きちんと礼儀を守るべきよ』
「はい」
『でも、好かれるために無理して取り繕う必要もない』
「はい」
『つまり、普通にしてなさい』
「だからぁ……それが一番難しいの」
私の普通には、かなりの頻度で倫ちゃんが含まれる。会話の途中で倫ちゃんを褒めたくなった場合、いわゆる一般的な女子大生に求められる"普通"らしく、振る舞える自信がない。そんなことを考えていると、部屋の扉が二度ノックされた。
「雪奈、入るわね」
ママが、淡いラベンダー色のワンピースを持って入ってくる。
首元は詰まりすぎず、袖も長すぎないリボンタイ。ベルトでウエストがマークされていて、スタイルが良く見える。膝下までのスカートが、華やかだけれど派手ではないバランスをとっていた。
「今日はこれがいいと思うわ」
「ママ。私は嫌われたいんだけど」
「あらあら。せっかくなら、ちゃんと似合う服にしましょうよ」
ママは、ちっとも私の話を聞いてくれなかった。
『お母様、もっと言ってやってください』
「雪奈はそのままで十分よ」
「それ、褒めてる?」
ママは答えず、楽しそうに笑った。
本心を隠して笑顔で話す技術は、元トップスターだけあって一流だ。
それから30分後、私はママが選んだワンピースを着て、鏡の前に立っていた。
髪はハーフアップ。耳元には小粒のパール。足元は細いストラップのついたパンプス。
自分で見ても、十分にお見合いへ向かう令嬢らしい。
十分すぎて困る。
『あははっ似合ってるじゃん』
「だから困ってるの」
『もう諦めなって』
燕の声を聞きながら、私は最後に口紅を薄く塗った。と同時に、ベッドの上に置いていたスマートフォンが震える。
画面に表示された名前を見て、反射的に背筋が伸びた。
「あっ倫ちゃん!」
『うるさっ。その声量で榊先生の名前を呼ぶな』
「ごめん、つい……。でも、そんなことより!」
届いていたのは、短いメッセージだった。
——本日はお気をつけて。
私はそのメッセージを読み上げて三秒ほど画面を見つめたあと、スマートフォンを卓上へ放り投げた。
「ちっがーう!」
『何が』
「そこは“行かないでください”じゃない!」
『あんたは期待してることが毎回重いのよ』
燕は至って冷静な顔で爪の先にやすりをかけながら、私の方をチラリと見る。
「だって、『気をつけて』って何? ホテルのラウンジで何に気をつけるっていうの?」
『それはまぁ……段差とか?』
「私の恋が崖っぷちなのに、段差のひとつふたつ、心配してる場合じゃないでしょ!」
勢いのまま叫ぶと、扉のそばにいたママが「あら」と眉を上げた。
「ちゃんと気にしているのね、倫太郎くん」
「そうなの! 絶対に気にしてる!」
『急に元気になっちゃって』
燕の冷静な声を無視し、私はもう一度メッセージを開く。何度見ても、文面は変わらない。
それでも倫ちゃんが、私のお見合いの日を覚えていて、わざわざ連絡をくれた。その事実だけで口元が緩みそうになる。
けれど、私はその口角をすぐに引き締めた。
今日は倫ちゃんに思い知らせる日なのだ。こんな一文で浮かれてはいけない。これは超高難易度の頭脳戦なのだ。
「っしゃ! 行ってきます!」
必要最低限のコスメをバッグへしまい、私は立ち上がる。
『くれぐれも、般若心経は禁止だからね』
「分かってるってば」
『本当に?』
「あれは究極奥義よね」
『待てぇい!』
燕の叫び声を最後に、通話を切った。
玄関へ下りると、パパが柱の陰からこちらを見ていた。
「雪奈、本当に行くのかい?」
「行くよ」
「嫌なことがあったら、すぐにパパへ電話するんだよ。五分で駆けつけるからね?」
「ホテルまで四十分かかるよ」
「緊急事態だからヘリで行く」
「うーん、それは一旦、大丈夫かも」
パパは最後まで不安そうだったけれど、私はママに背中を押されて家を出た。車の窓から外を眺めながらも握りしめたスマートフォンを何度も気にしてしまう。
倫ちゃんから、追加のメッセージは来ていない。
今頃は病院だろうか。私がお見合いへ向かっていると知りながら、いつも通り診察をしているのだろうか。あの、平気そうな顔をして。
「……見てなさいよね」
誰にも聞こえない声で呟き、私は背筋を伸ばした。
***
お見合いの場所は、都内にある老舗ホテルのラウンジだった。
天井が高く、窓際には今年の干支である蛇と来年の干支である馬のオブジェが飾られている。日曜の昼ということもあり、ラウンジの席は半分以上埋まっていた。
案内されたテーブルへ近づくと、一人の青年が立ち上がる。
「宝生 雪奈さんですね」
柔らかく波打つ亜麻色の髪に、穏やかに垂れた目元。
濃いグレーのジャケットに白いシャツ。ネクタイは締めていないけれど、そこにだらしなさはない。
倫ちゃんとは、まるで違う。
倫ちゃんが磨き上げた銀のナイフなら、御子柴奏多さんはよく手入れされた洋菓子の飾りみたいだ。
どちらも綺麗だけれど、並べると方向性が違いすぎる——もちろん、倫ちゃんの方が百倍はかっこいい。
「初めまして。御子柴 奏多です」
「初めまして。宝生 雪奈です。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
練習してきた通りに挨拶すると、奏多さんは感じよく笑った。
「こちらこそ。お会いできて光栄です」
動作のひとつひとつがさりげなくて、慣れている。示された向かいの席へ私が座ると、奏多さんも続いて腰を下ろした。
「写真で拝見するより、ずっと綺麗な方ですね。その服のお色も、よくお似合いです」
「ありがとうございます」
反射的に答えたあと、私は少しだけ待った。少しくらいぐらつくかと思っていた私の胸は、うんともすんとも言わない。ただ冷静に、鼓動を刻んでいる。
倫ちゃんから「似合っていますね」と言われたときは、その一言だけで一週間くらい機嫌よく過ごせるのに。
奏多さんの言葉は優しい。けれど、私の胸の中へ届く前に、綺麗に磨かれたテーブルの上を滑っていってしまう。
「どうかしましたか?」
「いえ。……倫ちゃんは、今日は何も言ってくれなかったなと思って」
奏多さんが、わずかに目を瞬いた。
「ええと……榊先生でしたっけ」
「倫ちゃんのこと、ご存じなんですか?」
「お父様から少し。それと、お会いして三分ほどですが、もう二度ほどお名前を聞きましたので」
まずい。まずすぎる。
私は口元へ手を当てた。
「すみません。今日は御子柴さんとお話しする日なのに」
「構いませんよ。印象に残るお名前ですし」
奏多さんは、まったく気を悪くした様子を見せない。
どうしよう。
感じがいい。
普通に、感じがいい。大変困る。
眉をひそめてしまいそうな顔を隠したくて、私は店員さんから手渡されたメニューを垂直にして開いた。
ここからが勝負だ。
失礼なことはしない。
ただし、完璧なお嬢様だと思われないようにする。
まずは食いしん坊なところを見せれば、引いてくれるかもしれない。
「ご注文はお決まりですか?」
「はい」
私は息を吸った。
「苺のショートケーキと、ガトーオペラと、季節のパフェをお願いします」
「3つとも、ですか?」
店員さんではなく、奏多さんが確認した。
「はい。3つとも!」
堂々と答える。大食いだと思って、引けばいい。
ところが奏多さんは、今日一番の笑顔でメニューを閉じた。
「よかった」
「何がですか?」
「僕も甘いものが好きなんです。二人なら、いろいろ頼んで分けられますね」
そう来たか。
「では、僕はモンブランとアップルパイを。飲み物はダージリンでお願いします」
奏多さんは平然と注文を追加する。
店員さんが離れてからも、私はメニューを見つめたまま固まっていた。
「どうしました?」
「いえ……こういうの、引きませんか?」
「まさか。気取って少ししか頼まれないより、ずっといいですよ」
嬉しいなと声に出して笑う奏多さんはペパーミントの畑みたいに、爽快感120パーセントを超えている。
「そうですか……」
第一作戦、失敗。
そこは引くところだったのに。
しばらくして紅茶が運ばれてくる。
メニューの端に書かれていた値段を思い出して、私は思わず小声を漏らした。
「この紅茶一杯で、1980円……」
奏多さんが笑う。
「意外です」
「何がですか?」
「こういう場所の値段は、気にされない方だと思っていました」
「いち大学生にとって、飲み物1杯で1980円は高いですから」
「金銭感覚がまともなんですね」
「そこを心配されていたんですか?」
「ええ、少しだけ」
大変だ。第二作戦も失敗。
むしろ好感を持たれている。
私は内心で頭を抱えながら、紅茶へ口をつけた。
その後も何とか欠点を見せようとしたけれど、奏多さんは何を言っても感じよく受け止めてしまう。
どうして。
そこまで前向きに解釈しなくてもいいのに。
そうして頭を抱えながら第五作戦まで終えたところで、奏多さんはコーヒーカップを置いて、私を見つめた。
「宝生さん」
「はい」
「僕に、嫌われようとしていますか?」
「…………してません」
「今の間で確信しました」
まずい。完全に見抜かれていた。
できれば、もう少し見抜かないふりをしてほしかった。
私は観念して、パフェを完食した後のスプーンを皿の上へ置く。
「嘘です。ごめんなさい」
「謝らなくても大丈夫ですよ」
「でも、失礼でした」
「そうですね。少しだけ」
奏多さんは笑顔のまま、はっきり言った。
怒ってはいない。
けれど、何でも許しているわけでもないらしい。
その言葉に、私は背筋を正した。
「本当に、ごめんなさい。御子柴さんから断ってもらえれば、すべて丸く収まると思ってしまって」
「榊先生との関係が、ですか?」
「……はい」
答えると、奏多さんは意外そうに瞬きをする。まるで私の言葉を信じられないみたいに。
「正直ですね」
「隠しても仕方ないので」
「まぁ安心してください。僕も、父に言われて来ただけです」
「そうなんですか?」
「ええ。宝生家のお嬢さんと一度会ってこい、と」
奏多さんは紅茶へ砂糖をひとつ入れた。
「ですから、お互いに無理をする必要はありません。今日は普通にお話ししましょう」
「普通に……」
「難しいですか?」
「少しだけ」
「なぜです?」
普通に話すと、たぶん倫ちゃんの話になるから。
でも、そう答えるのはさすがに憚られた。
私は膝の上で手を組み直す。
「分かりました。普通にお話しします」
「では、休日は普段、何をされているんですか?」
「小児病棟でボランティアをしたり、倫ちゃんのお休みに合わせて——」
そう言いかけて、ギリギリアウトのところで言葉を止める。
奏多さんは何も言わない。
「……今のは忘れてください」
「分かりました」
目元が少しだけ楽しそうに細くなる。
「趣味は?」
「ピアノとヴァイオリンです。でも倫ちゃんは、ピアノの方が好きみたいで」
「あぁ」
「……今のも、忘れてください」
「承知しました」
「ええと、御子柴さんのご趣味は?」
「読書と映画鑑賞ですね。旅行も好きです」
「旅行、いいですね! この前、倫ちゃんと家族で箱根へ——」
ああ、てんでだめだ。
私は両手で口を塞いだ。
奏多さんが、とうとう小さく吹き出す。
「すみません」
「謝らないでください」
「でも、さっきから倫ちゃんの話ばっかり」
「お気づきになりましたか」
「今、気づきました」
「僕は、少し前から気づいていました」
奏多さんは腕時計を確認するような素振りをしてから、私を見る。
「8回目です」
「何がですか?」
「この30分で出た、榊先生のお名前です」
「私、そんなに倫ちゃんの名前を?」
「今ので9回目ですね」
「今のは、御子柴さんが言ったんでしょう!」
「では、8回のままにしておきましょう」
法律を学んでいる人は、こういうところに厳密なのかもしれない。時々声を抑え気味にクククッと意地悪そうに笑う姿は、年相応に見えた。
そこからは、倫ちゃんの話だらけだった。
好きな食べ物を聞かれれば「倫ちゃんが作ってくれる甘くない卵焼き」、好きな動物を聞かれては「倫ちゃんといった水族館のイルカが可愛かった」と答えてしまい——結局、何を尋ねられても、私の答えは倫ちゃんへ繋がっていた。
「12回目ですね」
「もう数えなくていいです!」
「なんだか、癖になってきました」
奏多さんは、ずっと同じように笑っている。でも、不思議と馬鹿にされている感じはしなかった。
私が小児病棟のボランティアについて話したときも、彼は途中で遮らず、最後まで聞いてくれた。
「なぜ、病院でボランティアを始めたんですか?」
「最初は、倫ちゃんに会いたかったからです」
「正直ですね」
「でも、今はそれだけじゃありません」
私は少しだけ前のめりになった。
「病院にいる子って、毎日が治療や検査だと思うかもしれないんですけど……実際はその結果を待つ時間のほうが長いんです。だから、ピアノを弾いたり、絵本を読んだりしている間だけでも、その不安を忘れてもらえたらいいなって」
「医療とは別の形で、病院にいる時間を楽にしているんですね」
「そんな大層なことじゃないです。でも、私が行くと喜んでくれる子もいるから」
「それは、十分大きなことだと思いますよ」
奏多さんの言葉に、私は一瞬、返事ができなかった。綺麗な褒め言葉ではなく、私が話したことを受け取って返してくれた。
奏多さんは、嫌な人ではない。それが、もう十分に分かってしまった。そして、だからこそ困っていた。
嫌な人なら、はっきり断れるのに。
優しく私の話を聞いてくれた人へ「私には倫ちゃんがいるので」と簡単に背を向けるのは、何かが違う気がした。
「宝生さん」
「はい」
「榊先生がお好きなんですね」
唐突ではあったけれど、驚きはしなかった。
ここまで話して、分からない人の方が珍しい。
「はい、かなり」
「迷いませんね」
「迷う理由が、ないので」
奏多さんは、少しだけ目を見開いた。それから、さっきまでの感じのいい笑顔を浮かべる。
「なるほど。……それでも」
奏多さんは深く沈み込むソファの上で姿勢を整えて、ジャケットの襟を正す。そして、まるで正式に交際を申し込まれるのかと勘違いしそうなほど色気のある声で、言葉を続けた。
「次も、僕と会っていただけませんか」
「え?」
聞き間違いかと思った。
「でも、私、倫ちゃんが好きですよ?」
「知っています」
「御子柴さんと結婚する気もありません」
「それも承知しています」
「じゃあ、どうして?」
奏多さんは、テーブルの上で指を組んだ。
「今度は、僕に嫌われようとしていない、素直なあなたと話してみたいんです」
「私、普通にしても倫ちゃんの話ばかりだと思います」
「それも含めて、興味があります」
ここまで言われると、どう断ればいいのか分からない。奏多さんは、私が倫ちゃんを好きだと知っている。
それでも会いたいと言っている。嫌な言い方はしないし、無理に返事を迫ることもない。
優しくされるほど、断るのが難しくなる。こんな気持ちは、初めてだった。
「次もお会いいただけるなら、ご自宅までお送りしても?」
「家まで?」
「お見合い相手を送り届けるのは、礼儀でしょう?」
奏多さんは、感じのいい笑顔のまま首を傾げる。
「それに……その榊先生という方を、一度見てみたくなりました」




