神の消しゴム
世界の底を冷酷に這いずるノイズは、あの日から一瞬たりとも、レオンの頭蓋から消え去ることはなかった。
アリアが死に、代わりに配置された「あの人形」の、瞬きよりも短い刹那に見せた――両目のない墨汁のような漆黒の空洞。
その貌が網膜に焼き付いたまま、レオンの肉体は、ただ一日一日の殺戮をなぞるだけの鋼の人形へと戻されていた。
「――応えよ、大地の壁。我が背後を満たす、不落の城塞となれ」
低く、地響きのような詠唱。
突風のごとき突進を仕掛けてきた、無数の眼球を全身に宿す狂獣――『百眼の捕食者』の爪牙がレオンの肉体に届く寸前、その大剣の前に、漆黒の重甲を纏った巨大な影が割り込んだ。
ズドォォォォォォン!!!
衝撃波が石畳を爆砕する。
だが、その暴力的な一撃を、重戦士バルドは身の丈を超える巨大な鉄盾だけで完璧に受け止めていた。
「ハッ! 案ずるなレオン! お前の背中は、この俺が死んでも守り抜いてみせる!」
盾の隙間から覗くバルドの顔。
そこには、過酷な激痛のフィードバックなど微塵も感じさせない、豪胆で、不敵な「笑顔」が貼り付いていた。
バルドが放つ、闘気と生々しい男の汗の臭い。
レオンが切り刻まれそうになるたび、その巨大な盾を構えて割り込み、無慈悲な一撃を身代わりとなって受け止めてくれる。自らの存在すら信じられなくなった虚無の戦場において、このバルドの岩のような頑強さと、命を分かち合う頼もしさだけが、レオンをこの地獄のような戦場に辛うじて繋ぎ止める現実だった。
レオンの魂は、バルドの重甲から放たれる熱い血流の気配に縋っていた。
彼がいれば、この過酷な死闘も、いつか終わらせるための糧になるかもしれない。この地獄のような箱庭を、一緒に歩み抜くことができるかもしれない、と。
だが。
そんなレオンの小さな信頼を嘲笑うかのように、世界の輪郭が、不気味に歪み始めた。
――キ、ジジッ……ジ、ツン――
頭蓋骨の最奥、直接脳髄を冷たい針で掻き回されるような感覚。
それと同時に、レオンの視界の端に、のたうつような「赤黒い文字列」が、滝のようにボロボロと流れ落ちてき始めた。
それは、世界の理を書き換える『神々』が交わす、不気味な意思表示。
普段、他のアバターたちが言葉を交わす代わりに頭上に浮かび上がらせる、あの解読不能な奇怪なルーン文字。
だが、今日のルーンは、いつもと決定的に違っていた。
文字としての意味は一切、成していない。それは不自然に引き伸ばされた記号の羅列であり、視覚的な暴力となってレオンの網膜を赤黒く埋め尽くしていく。
何十、何百もの人形のような戦士たちが、広場を滑るように走り抜けながら、その頭上から吐き出す奇怪な紋章の明滅。それは言葉ではない。しかし、レオンの脳髄に直接、悍ましい「悪意」のニュアンスだけを暴力的に叩き込んできた。
そこに浮かぶ記号群が放つのは、徹底的な【値踏み】と【査定】の気配だった。
バルドの頑強な重甲を、その肉体を、まるで価値の無くなった鉄屑か、摩耗した消耗品のように見下し、冷酷に計算を弾き出している。
脳の最奥に、ギチギチと歯車が軋むような不快な電子音が響き渡り、視界が真っ赤なグリッチノイズに覆われる。
解読不能な赤黒い記号の群れは、やがて、ひとつの「決定」となってレオンの認知を直接侵食した。
(……何だ? 何をするつもりだ……?)
言葉ではない。しかし、冷酷な『天の意思』がバルドの全存在を包み込み、それを「無用」と判断したことだけが、冷たい泥のようにレオンの魂に流れ込んでくる。
その不気味な信号が頭蓋を突き抜けた瞬間、世界の色彩がドロリと反転した。
レオンの肉体は、戦闘を終え、大剣の返り血を冷徹に払って鞘に収める動作をなぞっていた。
その正面。
つい一秒前まで、不敵な笑みを浮かべて「背中は任せろ」と豪快に笑っていた、あの頼もしき戦友。
バルドの身体に、異常が起きた。
「――ガ、あ、あ、が、あぁぁぁ……ッ!!」
バルドの口から、およそ彼らしくない、か細く、引き裂かれた絶呼ばかりが漏れ出た。
首元から全身の筋肉がきしむように震え、その皮膚の端から、まるで古びた壁紙がポロポロと剥がれ落ちるように、彼を構成する「漆黒の重甲」や「頑強な筋肉」の表面が、乾いた音を立てて剥がれ落ち、灰色の虚無が露出し始めた。
そして、真の地獄が剥き出しになる。
バルドの顔面を縛り付けていた、あの笑顔。
それが、見えない爪で皮膚ごと力任せに剥ぎ取られるように、ピキ、ピキ、と乾いたプラスチックの割れる音を立てて崩壊したのだ。
笑顔が剥がれ落ちた、その下。
そこには――涙を流し、血走った両目を見開き、極限の「死への恐怖」で顎をガタガタと震わせる、中身の、バルドの本物の「魂の泣き顔」が、生々しく露出していた。
「あ、レ、レオン……っ! たすけ、たすけてくれ……! おれは、消えたくない……! 消されたく、な……っ!」
喉の筋肉が不自然に膠着し、その声は音を成さない。
だが、彼の唇は、必死に『たすけて』『たすけて』とレオンに向けて口パクを繰り返していた。
あの大盾を構えていた、頑強で、誇り高き重戦士の面影はどこにもない。そこにいたのは、理不尽なる神の指先によって、世界の存在から抹消されようとしている、ただの一人の、怯える哀れな人間だった。
(バルド!! 手を伸ばせ! バルドォォォォッ!!)
レオンの魂は叫んだ。
しかし、レオンの右手は、勝手に腰のベルトをきつく締め直す「爽快な勝利モーション」をなぞるだけだった。指先一つ、バルドに向けて伸ばすことすら、世界のルールが拒絶する。
プツン。
あまりにも軽い、糸が切れるような音が、静まり返った世界の底に響いた。
バルドの輪郭が、一瞬で「半透明」になった。
彼が流した涙の滴も、怯えてガタガタと震えていた両腕も、その全身の色彩が、一瞬にして世界の闇へと融解していく。
最後の瞬間、バルドはレオンを、絶望に濡れた瞳で見つめ――。
フッと、そこには最初から何もいなかったかのように、彼の存在が丸ごと、空間から削り取られた。
「あ……」
主権を取り戻した瞬間、レオンはその場にへたり込んだ。
石畳の上に、乾いた重い金属音が響く。
バルドの姿はどこにもない。
ただ彼が消え去った冷たい床の上に、彼が大切に磨き続けていた、あの巨大な漆黒の重盾だけが、ぽつんと、無造作に取り残されていた。
その、主を失った盾の表面。
そこには、かつてバルドが誇らしげに語っていたドワーフの伝統紋章など、どこにも存在していなかった。
あるのは、世界の理が冷酷に刻みつけた、あの悍ましく、無機質な赤黒い認識記号だけ。
耳を劈くような激痛のノイズも、のたうつ赤黒い記号も、すべては嘘のように霧散していた。
風の音すら聞こえない。
叫びをあげる喉は、とうに枯れ果てていた。
レオンはただ、涙も出ない引き裂かれた瞳で、相棒の消え去ったその冷たい空間と、取り残された重盾をじっと見つめていた。
ただ、冷え切った絶対的な静寂だけが、静かに世界を支配していた。
『Object ID: B.A.L.D.O-03』




