村人Bの微笑み
どれほどの時間が流れたのだろう。
宿屋のベッドからわずか十歩という「夜の檻」の中で、レオンはただ膝を抱え、自らの右手を見つめ続けていた。
アリアを引き裂いた、あの生々しい肉の手応え。
彼女を屠った返り血を浴びながら、天の操り人形として完璧なステップを踏み、美しく舞い踊った自らの四肢の忌まわしさ。
(アリア……アリア……)
魂の咆哮は、喉の膠着を突き破ることはない。
涙すら涸れ果てた暗闇の中で、レオンの指先は、アリアの衣服の切れ端と、彼女が手渡してくれた鈍い銀のお守りだけを、命綱のように強く、強く握りしめていた。
――ピキィィィィィン――
世界の静寂を乱暴に引き裂いて、あの脳を直接沸騰させる高周波が炸裂した。
(やめろ……もう動かすな……殺してくれ……!)
レオンの悲痛な抵抗を、天の意思は寸分の狂いもなく踏み潰す。
肉体の主権は強引に剥奪され、レオンは再び、自らの肉体の最奥に押し込められた。
跳ね起きた肉体は、大剣を背負い、寸分の狂いもない一定の歩幅で宿を出る。朝陽が不自然に二段階ほどの明度変化を伴って街を照らし出す中、レオンの足は、いつものように街の広場へと向かっていた。
(……え?)
広場に近づいた瞬間、レオンの魂が、激しく血を吐くように震えた。
街の広場。あの大樹のふもと。
そこには、見覚えのある「美しい金髪の少女」が佇んでいた。
細い身体。昨日、確かに自分の右手で両断し、光の塵となって夜空へ消えていったはずの、あの愛おしい少女の輪郭。
(アリア……!? 生きて、生きているのか!?)
レオンの魂は、狂おしいほどの歓喜と希望に満たされ、暗闇の壁を叩いた。
天の悪趣味な演出でもいい、あれがすべて悪夢だったのだとしても構わない。生きていてくれた。あの温もりが、まだこの世界に存在している。
肉体は、天の意思が示す『対話の開始』という動作をなぞり、彼女の正面へと回り込んだ。
「あ……」
レオンの魂が、凍りついた。
振り向いた少女。
だがその瞬間、彼女の顔の「両目」があるべき場所が、まるで墨汁をぶちまけたような、完全な平坦の「黒い空洞」のまま静止していた。
皮膚のテクスチャだけが貼られ、器官が抜け落ちた、のっぺらぼうのようなおぞましい貌。
ほんの一瞬、瞬きをするよりも短い刹那の後――その黒い虚無の上から、まるで濡れた紙をペタペタと貼り付けるかのように、遅れて「美しい瞳」が這い出てきて、彼女の瞳が完成した。
そして、その少女の頭上。
何もない空中に、世界の理が提示する、あの不自然な緑色の文字列が実体化しようとしていた。
文字は激しく明滅し、最初はノイズを放ちながら不気味に歪んでいたが、やがて、世界の歪みを隠蔽するように、冷酷に固定された。
だが、そこに浮かび上がった文字は、レオンが愛した彼女の名を示す、あの温かい綴りでも、その長さでもなかった。
それはまるである特定の個体を分類するためだけに用意された、記号としか思えないほどに冷たく、極端に短い、名前ですらない冷酷な文字列の並び。
(アリア……じゃない……?)
違う。姿も、顔も、金髪の揺らぎも、着ている衣服も、すべてが昨日までいたアリアと完璧に同じだ。
だが、そこに浮かぶ文字は彼女の名前ではない。
彼女はアリアの死によって生じた、この世界の「空白」を埋めるために、天がただ無機質に配置しただけの、名前すら与えられていない、肉の張り子。
「旅の剣士様。何かお困りですか?」
彼女の口から紡がれたのは、アリアのあの湿り気を帯びた優しい声だった。
しかし、その声には、自分に向けられていたはずの「特別な温もり」が、感情の機微が、一滴も存在しない。
カチリ。
レオンの喉が、天の用意した台本に従って、勝手に滑らかな声を紡ぎ出す。
「いいえ。少し、気になっただけです。あなたのお名前は?」
それは、ただ世界を機能させるためだけの、無機質な対話のトレース。
少女は、寸分の狂いもない完璧な、そして恐るべきほど平坦な笑顔を貼り付けたまま、お辞儀をした。
「私はこの村で暮らす者です。旅の剣士様、何かお困りですか?」
(やめろ……そんな笑顔で、アリアの声で喋るな!!)
レオンの魂は、自らの脳髄を引きちぎらんばかりに絶叫した。
しかし、肉体は冷酷に動き続ける。
レオンの右手は、自らの意志を無視して懐へと入り――アリアが遺した、あの鈍い銀のお守りを取り出した。
アリアが、生前最後に自分に託してくれたお守り。
そこには、古い太古の神聖語で、きわめて精緻な一節が刻み込まれていた。
『Lux Eternam Ordo Nova』
アリアは、お守りを手渡した時に言っていた。
――きっと、あなたを守ってくれるから。
このお守りを手渡してくれた時の、アリアの指先のあの生々しい熱、自分を見つめる慈愛に満ちた瞳、二人の間に確かに通い合っていた本物の絆。
この、お互いを繋ぐ唯一の光を見れば、彼女の中に一欠片でもアリアの魂が残っているのなら、何かを思い出してくれるかもしれない。
頼む、思い出してくれ。僕を「レオン」と呼んでくれ。僕が、君のレオンだ――!
レオンの右手は、その鈍い銀のお守りを、目の前の少女へと差し出した。
「これに、見覚えはありませんか?」
勝手に動くレオンの喉。
少女は、差し出されたお守りをじっと見つめた。
その美しい瞳が、お守りの表面を滑る。
そして。
彼女は首を愛らしくかしげ、アリアと全く同じ無垢な笑顔のまま、言った。
「綺麗なゴミですね。旅の剣士様、何かお困りですか?」
ドロリ、と。
レオンの脳の奥で、すべての色が反転した。
(あ……あ……)
ゴミ。
アリアが、自らの命を削られる直前に、最期の祈りを込めて自分に手渡してくれた、あの唯一の温もりの塊を。
アリアと全く同じ姿をした人形が、全く同じ美しい声で、何事もないように「ゴミ」と吐き捨てた。
何もない。
この世界には、自分が命を懸けて守るべきものなど、最初から何も存在していなかったのだ。
アリアのあの温もりも、アリア自身の存在も、すべては天がこの精巧な箱庭を機能させ、自分を都合よく躍らせるために用意した、ただの『甘い嘘』に過ぎなかった。
世界はアリアを奪ったのではない。
ただの破損したデータとして処理し、空いたスロットに、同じガワを被せた『名もなき記号』というパーツを、何食わぬ顔で補充しただけなのだ。
この世界の残虐さは、命を奪うことではない。
奪った命を、ゴミのように、全く同じ顔で「再生」し続けることだ。
「そうですか。……お騒がせしました」
レオンの喉は、勝手に爽やかな別れの言葉を紡ぎ出した。
肉体はくるりと背を向け、何事もなかったかのように、広場を後にする。
アリアのガワを被った人形に、無神経に「ゴミ」と呼ばれた、銀のお守り。
それを懐に収めながら、レオンの肉体の奥深くで――。
アリアの祈りも、天の祝福も、すべてが底なしの冷たい虚無へと融解していく。
残されたのは、ただ一つ。
天の雲の上にいる『神々』への、一滴の容赦もない、冷酷に研ぎ澄まされた純粋な【殺意】だけだった。
アリアのお守りに刻まれた、太古の神聖語(ラテン語風)の一節。
『Lux Eternam Ordo Nova(永遠の光、新しき秩序)』
[アリアのお守り]:[ITEM_CONVERSION: SUCCESS]:[惨めな村人の古びたお守り]




