神の指先
本作は毎週【月・金】の20時に更新予定です。
――ピキィィィィィン――
脳髄を針で引っ掻き回すようなあの高周波が、いつもと違う悍ましい鳴動を伴って炸裂した。
世界が朝の光に満たされようとするその瞬間、レオンの魂は、強引に肉体の底へと引きずり下ろされる。
(また、始まる……!)
抗う間もなく肉体の主権を剥奪され、レオンは自らの網膜を覗き見るだけの無力な観客となった。
寸分の狂いもない足取りで、肉体が宿屋の階段を滑るように駆け下りていく。だが、宿を出た瞬間、固定されたレオンの視界に映り込んだのは、いつも通りの静謐な早朝の景色ではなかった。
遠く、アリアの待つあの村の方向から、空をどす黒く染める不吉な黒煙が立ち上っていた。
さらに、レオンの頭蓋の奥に、直接、警鐘のような重苦しい不快音がドクンドクンと脈打ち始める。
(まさか……アリアの村が!?)
レオンの心臓が、恐怖で凍りついた。
アリアが危ない。あの、世界にたった一つだけ残された本物の温もりが、今まさに脅かされている。
肉体は、天の意思が示す最短の攻略ルートをなぞり、凄まじい速度で山道を疾走し始めた。
その疾走の最中、レオンの胸の内に、奇妙な、そして歪な「変化」が訪れた。
一歩で十数メートルを跳躍し、風を引き裂いて駆けるその四肢。
首元に食い込んだ『黒い獣の首飾り』からは、凍てつくような、しかし圧倒的な生命の濁流が肉体へと供給され続けている。かつては凡庸で、大剣をまともに持ち上げることもできなかった自分。だが、今のこの肉体は、世界の法則を歪めるほどの圧倒的な「暴力」の結晶と化していた。
今まで、この操られる不条理を、レオンは世界の何よりも憎み、恐れていた。
自分の意志を奪われ、笑顔を貼り付けさせられ、ただ殺戮をなぞるだけの鋼のマリオネット。
だが、今だけは違った。
(これなら……この力があれば、アリアを守れる!)
恐怖は、にわかに甘美な「安堵」へと塗り替えられていった。
天の意思が自分を動かしている。その最適化された無敵の暴力があるのなら、目の前で迫るどんな怪物だろうと、容易く消し炭にできるはずだ。
神よ、今だけはあなたを歓迎しよう。僕をいくらでも弄ぶがいい。その代わり、その恐るべき力で、アリアを、僕の唯一の希望を救い出してくれ――!
そう懇願するレオンの魂を乗せ、肉体は猛り狂う獣のように、炎に包まれた村へと突入した。
木柵は粉砕され、家々は崩れ落ちている。
村の広場の中央。そこには、これまでに見たどの魔物よりも巨大で、粘つくような泥で構築されたような異形の巨大な怪物がそそり立っていた。
その足元で、腰を抜かし、涙を流しながら後退りしている少女がいた。
(アリア――!)
アリアは、怪物の振り下ろされる巨腕を見上げ、恐怖に身を縮めている。
レオンの肉体は、一切の躊躇なく、背負った大剣を引き抜いた。
その剣筋は完璧だった。怪物の巨腕を空中で正確に受け流し、火花を散らす。
大剣の重み、肉に食い込む衝撃。それらが神経を伝って魂を震わせる。
今の自分は強い。アリアを、この手で、確かに守っている。
レオンの心は、かつてない高揚と救いに満たされていた。天の意思が、アリアを救うためにこの肉体を最高効率で駆動させてくれているのだと、本気で信じていた。
だが。
雲の上の主たちが弾き出した「最高効率」は、レオンのささやかな祈りなど、端から一ミリも顧みてはいなかった。
怪物の注意を惹きつけ、その隙に急所へ最大の一撃を叩き込む。
そのための、最も「安価」で「確実」な手法。
レオンの肉体は、怪物を追撃するのではなく、突如として身を翻した。
そして、へたり込んでいたアリアの元へと、吸い込まれるようにして滑り寄った。
(……え……?)
レオンの右腕が、アリアの細い肩を、鉄の万力のような力で乱暴に掴み上げた。
「あ、レオン……!?」
アリアの瞳に、一瞬だけ安堵の光が宿った。自分を助けに来てくれた幼馴染み。その温かい眼差しが、レオンの張り付いた無機質な瞳を見つめる。
しかし、次の瞬間、レオンの右腕は、彼女の体を優しく引き寄せるのではなかった。
掴んだ細い身体を――目の前に佇む怪物の大顎に向けて、力任せに「突き飛ばした」のだ。
「――っ!? キャああっ!?」
熱い砂の上に転がり、無防備に怪物の目の前へと晒されるアリア。
何が起きたのか理解できず、アリアはただ、絶望的な表情でレオンへと手を伸ばした。
(やめろ……! 何をしているんだ、そっちじゃない! アリアを助けるんじゃないのか!?)
レオンの魂は、暗闇の底で狂ったように壁を叩き、血を吐くように叫んだ。
しかし、肉体はレオンの絶叫を完璧に無視し、アリアを盾にするように、その背後で冷酷に大剣を上段に構え直す。
突如、世界の空気が不吉にねじ曲がった。
アリアの胸元から、のたうつような「赤黒い光の糸」がずるりと伸び、それが目の前の巨大な怪物の額へと、強制的に接着された。
それは、どれほどアリアが逃げ惑おうとも、怪物の凶刃が彼女にのみ牙を剥くという、世界の管理者が引き絞った絶対的な死の因果。
それと同時に、レオンの網膜の直上に、おぞましい「異常」が発生した。
何もない空中に、アリアの「命の総量」を冷酷に現す、一本の細長い「赤い浮遊する帯」が実体化したのだ。
怪物がアリアに向けてその巨腕を振り下ろす。
ズシャァァァァン!
衝撃が走り、アリアの悲鳴が耳を裂く。
その瞬間、視界に浮遊する赤い帯が、右端からチリチリと燃え盛るようにして削り取られていった。
半分、いや、それ以上。彼女の生々しい命の熱が、世界の歪な表示器の上で、ただの「減少する概念」として冷酷にすり潰されていく。
(やめろぉぉぉぉぉぉっ!! 僕を動かせ! 僕の、僕の腕を動かしてくれぇぇぇっ!!)
アリアを囮にし、怪物の意識が彼女に完全に固定されたその瞬間。
レオンの肉体は、かつてないほど滑らかに、神速の踏み込みを開始した。
アリアの命を削るその怪物の無防備な背後を突くため、天の意思が、レオンの肉体を、最高効率の刃として突き動かしていく。
レオンの魂は、涙を流すことすら許されない肉体の檻で、己の犯した一時的な「安堵」への狂おしいほどの後悔と、神々への底知れぬ憎悪にまみれて絶叫し続けた。




