終わりなき虚無
本作は毎週【月・金】の20時に更新予定です。
アリアと別れた直後、レオンの肉体は、まるで背後から巨大な磁石で引っ張られたかのように、乱暴に向きを変えられた。
彼の意志など、羽虫の羽ばたきほども顧みられない。
(次は……何だ? どこへ行くんだ……!)
喉の奥で、見えない意思がレオンの舌を湿らせ、滑らかに「目的」をささやいた。
――隣村へ、この書状と水袋を届ける。
ただそれだけだった。
命を懸けた魔獣との闘いでもなければ、アリアを脅かす凶刃から守るための戦いでもない。誰でもよい、その辺の道端の子供でもこなせるような、あまりにも些細で、意味のない雑務。だが、天の意思はその無意味な巡礼を、レオンの命を削るかのような速度で強行し始めた。
世界が、恐るべき速度で後方へと飛び去っていく。
レオンの肉体は、山道の起伏を、重力を無視したような不自然な跳躍力で駆け抜けていた。
一歩。また一歩。踏みしめる石畳を粉砕せんばかりの筋力が、彼の意志とは無関係に、四肢から爆発的に搾り出されている。
おかしいのだ。
ほんの数日前まで、レオンは自分の身の丈を超える大剣を満足に持ち上げることすらできなかった。走ればすぐに肺が焼け付くように喘ぎ、泥に塗れて這いつくばっていた。それが凡人たる彼の、まぎれもない「肉体の限界」だったはずだ。
だが、あの夜から、すべてが狂った。
目を覚ますたび、レオンの脳裏には、おぞましい「数字」が無理やり焼き付けられるようになった。
それは頭蓋の裏側、暗闇の中で脈打つ、血の滴るような奇妙な記号の羅列だ。その羅列が、彼のあずかり知らぬ法則によって「増大した」という宣告を受けるたび、彼の肉体は、努力や鍛錬の過程をすべて嘲笑うかのように、一瞬で「強化」された。
肉の強度、骨の密度、血流の速度。
それらが、何者かの手によって『調整』されたかのように無理やり引き上げられる。
自分が鍛え、勝ち取った力ではない。ただ、世界の管理者が、自分の型番の出力を二倍、三倍へと引き上げただけなのだ。その、自分のものでない強大な力に四肢を駆動させられている感覚が、レオンにはたまらなく生理的に不気味で、悍ましかった。
(止まれ……! 壊れてしまう、こんな速度で走ったら……!)
だが、肉体は悲鳴をあげない。肺は一分の乱れもなく、冷徹に酸素を吸排し続けている。
さらにレオンを恐怖させたのは、走る彼に強要された「視界」だった。
彼の首は、正面の一点からコンマ一度のズレも許されず、鉄の固定具で固定されたかのように締め付けられていた。横を見ることも、空を仰ぐことも許されない。
ただ固定された視界の端で、彼は世界そのものの「底」を見てしまった。
走る彼の前方に広がる景色。
それは、ある一定の距離を境に、不自然な「灰色の空虚」に覆われていた。
空もなく、大地もなく、ただ不気味な無地の空間が平面的に広がっているだけ。だが、レオンの肉体がそこへ近づいていくと――。
ガサガサと、不自然な静寂を破るように、灰色の空虚から木々が、岩が、山肌が「湧き出てくる」のだ。
音もなく、摩擦もなく、まるで最初からそこにあったのだと強弁するかのように、目の前で世界が『書き足されて』いく。レオンの疾走速度に間に合わせるように、突貫工事で組み立てられる未完成の箱庭。
自分が今踏みしめている大地すら、一秒前には虚無だったのではないか。そんな底なしの恐怖が、彼の精神を白く摩耗させていく。
(ああ、僕は……どこを走っている……?)
ようやくたどり着いた目的地の村。しかし、そこはのどかな静寂とは程遠い、阿鼻叫喚の地獄と化していた。
村を囲む木柵が引きちぎられ、鋭い牙と醜悪な緑の皮膚を持つ小鬼――ゴブリンの群れが、けたたましい叫び声を上げて住人たちに襲いかかっていたのだ。
レオンの胸が恐怖で縮み上がった。
しかし、彼の頭の奥に、突如としておぞましい「術式」の羅列が現れる。
(な、んだ……この、頭に流れ込んでくる不気味な感覚は……!)
大剣をどう振るうべきか、どの角度で重心を移動させるべきか。
彼がこれまでの人生で一度も学んだことのない、極限まで無駄を削ぎ落とした「殺戮の最適解」が、彼の脳の最奥に強制的に刻印される。
彼自身の技術ではない。ただ、天から流し込まれた「命令形」だ。
肉体が、自動的にその術式をトレースする。
大剣が、ハエを叩き落とするような容易さで、完璧な弧を描いて小鬼たちの首をはね飛ばした。
骨を断ち、肉を引き裂く不快な手応えだけが、レオンの神経をドロリと伝って魂へと流れ込む。
自分がやったのではない。ただ、脳に強制インストールされた「技術の雛形」に、肉体を操り人形のように踊らされただけだ。この、自らの魂を踏みにじる『最適化された暴力』の刻印こそ、彼が最も畏怖する呪いの一つだった。
肉体は無慈悲に大剣を振るい続け、数十匹の小鬼をまたたく間に屠っていく。
致命傷を負い、あるいは恐怖に駆られた生き残りの小鬼たちは、息絶えた同胞の死骸をずるずると引きずりながら、逃避するように鬱蒼とした森の闇奥へと消え去っていった。
それを見送るレオンの肉体は、追撃することもなく、ただ血濡れた剣をピタリと鞘に収めた。
「ああ、お救いいただいた……! ありがとうございます、旅の剣士様!」
恐怖に震えていた村人たちが、涙を流してレオンを取り囲んだ。
レオンの喉は、勝手に「お安い御用です」と爽やかな挨拶を紡ぎ出し、お使いの書状と水袋を村長に手渡す。
村を救った若き超戦士に対し、村人たちは精いっぱいの感謝を込め、村に一軒しかない粗末な宿屋の、最も良い部屋を無償で提供してくれた。
こうして、夜が来た。
宿屋のベッド。
レオンは、主権を取り戻した数メートルだけの領域で、激しく呼吸を乱しながら窓の外を見下ろしていた。
夜の帳が下りた山道と、昼間、彼が死闘を繰り広げた村の境界。
ゴブリンたちが逃げ去り、死骸を引きずっていったはずの、踏み荒らされた地面。
だが、おかしいのだ。
いくら死骸を持ち去ったとはいえ、あれほど激しく飛び散ったはずの、ゴブリンたちの青黒い返り血すら、土の上に一滴も残っていない。まるで最初から戦いなどなかったかのように、夜露に濡れた地面は白々しいほどに清浄だった。
そして、午前三時。
空気が、不自然にキリキリと鳴動を始めた。
何もない闇の空間。森の入り口。
そこに、突如として彼らが出現した。
「――っ!?」
レオンは息を呑み、窓枠に指を食い込ませた。
小鬼たちは、地面に横たわった状態から立ち上がるのではなかった。
彼らは、十字架のように両腕を真横に広げ、瞬き一つせず、棒立ちのポーズのまま、虚空から「パッ」とその場に配置されたのだ。
重力も、摩擦も、世界の道理もすべてを無視して、ただ不自然に直立する死人形たち。
さらに恐ろしいことに、彼らの頭上には、赤と緑に塗り分けられた「不気味な光の帯」が、糸で吊るされたかのように浮遊していた。
それは彼らの生命の残量を冷酷に示す、世界の歪んだ刻印。
その帯は、彼らが確かに「設定された生存物」であることを無言で主張している。
人形のように直立し、呼吸すら止めていた小鬼たち。
数秒の不気味な静寂の後、見えない指揮者が合図を送ったかのように、彼らの両腕がずるりと下に落ち、同時に一斉に「呼吸」を開始した。
ギャア、と醜悪な鳴き声が夜の静寂に響き渡る。
(何なんだ、これは……)
レオンは頭を抱え、床にずり落ちた。
自分が昼間、命を削り、恐怖に震えながら、血塗られた右腕で勝ち取った勝利は何だったのか。
救ったはずの隣村は、明日も全く同じように、同じ山賊や小鬼に襲われる。
自分が殺した魔物は、夜が来れば何事もなかったかのように、寸分の狂いもなく元の位置に補充される。
自分が不気味な数値の増大によって強くなるのも、ただの天の気まぐれに過ぎない。
この世界で行われるすべての「命のやり取り」は、血の温もりも、死の痛みも伴わない、ただの終わりのない無意味な茶番だ。
自分自身もまた、その茶番を永遠に演じさせられる、中身のないマリオネットに過ぎないのだ。
「誰も……誰も救われてなんかいない……」
暗闇の中で、レオンは自分の冷え切った右手を凝視しながら、声を殺して泣き続けた。
[QUEST_CLEAR: 報酬:金貨100]




