アリアの祈りと空白の記憶
本作は毎週【月・金】の20時に更新予定です。
――ジジッ、ツ、ツン――
また、あの音がした。
脳を直接、沸騰した針で突き刺すような高周波の電子音。
午前五時五十九分。
宿屋の硬いベッドの上、半径五メートルという「夜の檻」の中で、膝を抱えて震えていたレオンの猶予は、その不快な音と共に唐突に、そして暴力的に打ち切られた。
(来る――ッ!)
レオンは内側で身構えた。だが、抵抗する暇など与えられない。
天からの「見えない指先」が、彼の脳髄を乱暴にかき回し、肉体の主権を強引に引き剥がす。
彼の魂は、自らの肉体の最奥、冷たい暗闇の底へと押し込められた。
肉体は、レオンの意志を一切無視して跳ね起きる。
大剣を背負い、寸分の狂いもない一定の歩幅で、きしむ床板を踏み締めて部屋を出た。
昨日、あれほど彼を拒絶し、触れれば脳が焼き切れるような火花を散らした「境界線」は、まるで最初から存在しなかったかのように、彼の両足を素通りさせた。
自由になったのではない。
より強固な、一歩の乱れも許されない「糸」によって、肉体を強制駆動させられているのだ。
早朝の街の広場。
朝陽は、雲の間から段階的に、まるである瞬間を境に光の強さを二段階ほど無理やり引き上げたかのような不自然さで、世界を均一に照らしていた。
広場を、レオンの肉体が疾走する。
その視界の端で、レオンは『彼ら』を見た。
自分と同じように、身の丈を超えるような大剣や、禍々しい杖を携えた戦士たち。彼らは一切の雑談もせず、互いに視線すら交わさず、まるで地面を滑るように最短の直線ルートを無機質に走り抜けていく。彼らの瞳には、生きている人間の光がない。どれほど強大な力を誇っていようとも、その中身は、天の意思によってただ「動かされているだけの肉塊」だ。
そして広場の脇には、彫刻のように直立する住人たちがいた。
彼らは、天の意思が『話しかける』という手順を踏まない限り、瞬き一つせず、胸の上下運動(呼吸)すら止めたまま、不気味に静止している。彼らは「生きていない人間たち」だ。世界を飾るための、ただの肉の張り子に過ぎない。
だが――。
(アリア……!)
広場の片隅、見慣れた大樹のふもとに佇む少女の姿を捉えた瞬間、レオンの魂が切実に脈打った。
アリア。彼の幼馴染み。
彼女は、他の「生きていない人間たち」とは決定的に違っていた。
レオンの肉体が近づくと、彼女は機械的な彫刻のように直立しているのではなく、寒さに耐えるように小さく身を震わせ、心配そうにその美しい眉をひそめていた。
彼女の瞳には、湿った光がある。
天の意思に操られ、ただ獲物を屠るためだけに走る戦士たちや、背景と同化した死人形たちとは違う。彼女は、本当に「生きている」。
カチリ。
レオンの脳内で、冷酷な歯車が噛み合う音がした。
レオンの肉体は、アリアの目の前でぴたりと静止した。
レオンの心は、必死に「逃げろ、アリア! 僕はもう僕じゃないんだ!」と叫んでいた。だが、彼の喉の筋肉は、彼の意志を嘲笑うように、滑らかで、驚くほど爽やかな声を紡ぎ出す。
「アリア。こんな朝早くに、どうしたんだい?」
それは、自分の心とは裏腹に、天の意思が強制的に喋らせている「台本」だった。
アリアは、レオンの引きつった笑顔に気づく様子もなく、そっと一歩を踏み出したが、
そして、レオンの右手を、両手で包み込むようにして握りしめた。
「レオン……。最近、あなたの顔、すごく辛そうだから……」
その瞬間、レオンの魂は、激しい衝撃に震えた。
熱い。
あまりにも、熱かった。
アリアの手のひらから伝わってくる、生々しい血流の鼓動。皮膚の柔らかな温もり。それは、この無機質で冷酷な世界において、唯一、本物の「命」を感じさせる温かさだった。彼女は本当に生きている。
生きている彼女が、目の前で自分の手を握ってくれている。
――彼女は、僕の希望だ。
アリアが本物の人間としてここにいるのなら、彼女の隣に立ち、その温もりを感じている僕も、ただの人形ではないはずだ。この狂った箱庭の中で、僕が本当に生きているという、たった一つの存在証明。レオンの魂は、その熱い手のひらに泣きながら縋りついた。絶対に離したくない、離れてしまえば、自分という存在が消えてしまうかのような切迫感と共に、彼はそのぬくもりを必死に自らの魂に焼き付けようとした。
「大丈夫だよ、アリア。僕なら、何ともない」
レオンの喉が、また勝手に嘘を吐く。
これほど残酷な仕打ちがあるだろうか。
唯一の希望である幼馴染みと手を握り合っているというのに、自分に許されているのは、肉体の内側という分厚いガラス越しに、彼女の温もりをただ「観測」することだけなのだ。
アリアは、握った手にさらに力を込め、懐から小さな革袋を取り出した。
「これ、持っていって。大丈夫、きっと太古の神様が、あなたを守ってくれるから……」
彼女が、レオンの掌にお守りを乗せた。
それは、古い革と、見たこともない鈍い銀色の金属で編まれた、奇妙な意匠のお守りだった。
レオンの指先が、そのお守りに触れた、その瞬間――。
――グ、グギ、ギギギギ――ッ!!
頭蓋の裏側を、極低温の氷の楔で直接ぶち抜かれたかのような、凄まじい激痛が走った。
悲鳴をあげることすら、肉体の主権がないために許されない。
レオンの網膜の裏側、視界のすべてが、どす黒い不吉な緑の光で埋め尽くされていく。
それは暴力的な宣告だった。
脳裏に強引に投射されたおぞましい光が、二つの意味の束を彼の精神に直接、冷酷に刻印していく。
一つは、今自らの手に「未知の物質が握られ、その所有が完全に確定した」という冷徹な事実。
そしてもう一つは、彼自身の「名前」だった。
だが、それはただの『レオン』ではなかった。
脳を直接焼くその不快な光は、彼の名をなぞる文字と文字の間に、まるで何かを区切るような、あるいは彼という存在を記号として分類するかのような、おぞましい「点」をいくつも孕んでいた。不自然に、歪に配列された「点」を伴う自分の名前。その歪な名が脳髄に直接焼き付けられる悍ましさに、レオンの精神は白く染まりかけた。
「……レオン?」
お守りを手渡したアリアが、不思議そうに首をかしげ、微笑んだ。
その無垢な、温かい彼女の笑顔を見つめながら、レオンは自らの胸の奥底に、致命的な冷たい楔が打ち込まれるのを感じていた。
アリアの言った、「太古の神様」という言葉。
それが、あまりにも不自然に、彼の思考の隙間に滑り込んできたのだ。
(待て……。僕は、いつからアリアとここにいる?)
レオンは、自らの魂の奥深くへと必死に手を伸ばし、過去の記憶を探ろうとした。
自分は、この村の生まれだ。アリアとは幼馴染みで、昔から一緒にいて、剣を学び、そして旅に出た――。
そう。驚くほど滑らかに、澱みなく「知識」としての自分の生い立ちが頭に浮かんできた。それはあまりにも完璧な、疑問の余地すらない『事実』だった。
だが、おかしいのだ。
では、アリアと過ごした日々の中で、僕たちはどんな会話をした?
幼い頃、一緒に走り回った村の景色は、どんな匂いがした?
自分の親は、どんな顔で僕を叱り、どんな温もりで抱きしめてくれた?
自分が初めて本物の剣を握った瞬間、その鉄はどれほど冷たく、どれほど重かった?
――何一つ、思い出せない。
脳の引き出しを開ければ、そこには他人が書いた歴史の書物を無理やり流し込まれたような「説明文」が冷たくへばりついているだけで、それを裏付ける五感の記憶が、体験としてのディテールが、一秒たりとも存在しなかった。
まるで、劇の舞台に立たされた役者が、今朝渡されたばかりの「配役の設定書き」を、最初から知っていたかのように脳内でなぞっているだけのような、ぞっとするような虚無。
自分という存在は、一体何者なのだ。
本当に「レオン」としてこの世界に生まれ、生きてきたのか。
アリアは確かに温かい希望だが、その希望に縋ることすら、あらかじめ誰かに用意された「設定」の上での茶番に過ぎないのではないか。
あの無機質な天の意思が、このおぞましい箱庭を動かすために、ある日突如として世界の隙間に放り込んだ、ただの、中身のない操り人形なのではないか。
「ありがとう、アリア。大切にするよ」
肉体は、レオンの底知れぬ恐怖など微塵も感知せず、何事もなかったかのように、お守りを懐へとしまい込む。
アリアは、無邪気に手を振りながら、静止した「生きていない人々」の隙間へと戻っていく。
彼女の背中を見つめながら、レオンの肉体は、天の意思が示す『最短の攻略ルート』へと向かって、再びマシーンのように走り出す。
自らの存在そのものが、薄っぺらい紙の盾のように虚ろであるという、底なしの恐怖を抱えたまま。
[ITEM:アリアのお守り]




