眠らない檻
――プツン――
脳髄を支配していた、あの不快な高周波のノイズが唐突に途切れた。
網膜の裏側で脈打っていた、粘つくような不吉な緑の紋章が、煙のようにフッと消え去る。
「……はぁっ……! げほっ、ごほっ……!」
その瞬間、レオンは宿屋の硬い板張りの床に膝を突き、激しく咽び泣いた。
喉の奥から、せき止められていた熱い空気が一気に吐き出される。それと同時に、全身の筋肉を苛んでいたあの恐ろしい「狂いなき硬直」が解け、泥のような疲労と、神経を引き裂くような鈍痛がどっと押し寄せてきた。
肉体の主権が、レオンの手元に返還されたのだ。
「あ……ああ、動く……僕の、僕の腕だ……」
まだどす黒い魔獣の返り血が付着したままの、自分の右手を凝視する。
震える指先を一本ずつ折り曲げ、爪が手のひらに食い込んで痛みを刻むのを確かめる。痛い。痛い。だが、この痛みこそが、今この瞬間、自分という存在が確かにここに生きているという唯一の証明だった。
天からの「見えない指先」が彼の肉体から引き抜かれ、その意識をどこか遥か遠くへと切り離したのだ。
レオンは重い体を引きずり、宿屋の粗末なベッドに這い上がった。
四肢は鉛のように重く、心臓は狂ったように早鐘を打っている。自分の意志で呼吸ができる。自分の意思で瞬きができる。その当たり前の奇跡に涙を流しながら、彼は自らの胸に手を当てた。
しかし、安堵の時間は一瞬で、冷酷な現実に押し潰される。
(……そうだ。まだ、終わっていない。夜が明ければ、またあいつが来る)
肉体の支配が解けた深夜。それだけが、レオンが「自分」に戻れる唯一の猶予だった。
だが、その猶予すらも、この世界が周到に用意した悪意ある『檻』の中でのことに過ぎない。
レオンはベッドから立ち上がり、宿屋の部屋の扉へと足を向けた。
せめて、冷たい夜風を浴びて、この狂いそうな頭を冷やしたかった。一歩、二歩と、きしむ床板を踏み締めて歩む。
そして、五歩目を踏み出そうとした、その時だった。
「――ジリッ……!――」
前方の何もない空間から、鼓膜をやすりで削るような放電音が響き、レオンの爪先に激しい衝撃が走った。
「う、ああっ……!?」
のけ反るようにして、レオンは床に尻餅をついた。
見上げれば、宿屋の扉の手前、ほんの数歩の空間が、不気味に歪んでいた。
何もないはずの空中に、無数の、細かな緑色の「穴」のような歪みがバチバチと明滅している。それはまるで、世界の皮が一枚だけそこだけ剥がれ落ち、裏側にある名状しがたい無機質な狂気が牙を剥いているかのようだった。
レオンは恐る恐る、右手をその不自然な歪みへと伸ばした。
指先が空間の境界に触れた瞬間、直接脳を焼くような不快な拒絶反応が走り、視界が不気味な幾何学模様で激しく乱れた。
(……これ以上、進んではならない……)
脳の奥底に直接、言葉にならない拒絶の波動が叩き込まれる。
物理的な扉や壁があるわけではない。だが、どんなに力を込めようとも、その「見えない境界」から先へ、指一本、髪の毛一筋さえも通すことはできなかった。
「出られない……また、これだ……!」
レオンは壁を拳で叩いた。叩いて、叩いて、叩き続けた。
だが、拳が触れるたびに空間は無機質な緑の光の粉を散らすだけで、音一つ、向こう側へ響くことはない。
宿屋のベッドから、正確に歩幅にして十歩。
それが、主権を取り戻したレオンに許された、この世界における唯一の「生存領域」だった。
宿の主も、隣の部屋の宿泊客も、夜の間は一切の気配を消し、まるで呼吸を止めた薄気味悪い彫刻のように直立したまま静止している。彼らのもとへ行き、助けを求めることすら、この見えない檻は許してくれない。
レオンは壁に背を向け、床にずり落ちた。
抱えた膝の間に顔を埋める。
世界はこんなにも広いのに、自分に与えられた居場所は、家畜の檻よりも狭い。
カチャ……。
静まり返った世界の底から、不意に、妙に耳に障る乾いた音が聞こえてきた。
レオンは息を潜め、宿屋の窓の、ほんの数センチの隙間から、見えない境界越しに外の広場を見下した。
宿屋の窓から見えるのは、昼間、多くの「生きていない人間たち」や『操られた戦士たち』が行き交っていた街の広場だ。
街灯の魔石が放つ光は、風もないのに不自然な明滅を繰り返している。よく見ると、広場の片隅にある街路樹の葉は、まるで一定の規則に従っているかのように、機械的な周期で右へ左へと不自然に揺れていた。
カチャ……カチャ……カチャ……。
音は広場に並ぶ、木製の露店から響いていた。
昼間、無数の旅人たちが立ち寄り、回復用の薬瓶を買い漁り、陳列棚を空にしていった場所。店主の男は、夜の闇の中でピクリとも動かず、虚空を見つめたまま彫刻のように直立している。その表情には、生きている人間の生気が一切存在しない。
その、男の目の前にある棚に、レオンは目を疑う光景を見た。
何もない空間が、一瞬だけ不自然に歪んだ。
直後、空っぽだった棚の上に、赤い液体が詰まった薬瓶が、世界の道理をすべて無視して「唐突に」出現したのだ。
光の粒子が集まって実体化したのではない。
まるで、最初からそこに置かれていたという事実を、世界が後から無理やりねじ込んだかのように、影も摩擦もなく、一瞬のうちに物質が「配置」された。
「……う、あ……」
レオンの喉から、乾いた悲鳴が漏れた。
カチャ、カチャ、カチャ、カチャ。
リンゴの山。木箱に入った鉄鉱石。陳列されたポーション。
それらが、何もない空間から、寸分の狂いもなく、完璧な位置へと次々に「補充」されていく。
そこに人の手による労働の温もりなど、微塵もない。ただ、無機質に、失われた事実を冷徹に塗りつぶしていくかのような、ぞっとするような「世界の修復作業」。
この世界で本当に生きている人間など、一人もいないのではないか。
目の前の広場でリセットを繰り返す露店も、そこに直立する死人のような店主も、そして――朝になれば自分の意志を奪われ、笑顔を貼り付けて戦場へ赴く自分自身も。
すべては、あの雲の上にいる「神々」の娯楽のために用意された、使い捨ての、ただの精巧な箱庭のパーツに過ぎないのだ。
「誰もいない……誰も、生きてなんかいないんだ……」
レオンは頭を抱え、耳を塞いだ。
しかし、虚空から物が現れる「カチャ、カチャ」という無機質な不快音が彼の脳髄に直接響き、精神をじわじわと摩耗させていく。
窓の外では、夜明けを告げる偽りの朝陽が、光源の明るさを段階的に切り替えながら、不自然に世界を照らし始めようとしていた。
朝が来る。
それは、自由の終わりを意味する。
再び頭蓋を焼くあの電子音が響き、自分の肉体が引き渡される時間が、刻一刻と近づいている。
レオンは、見えない壁に拒絶されながら、ただ一人、決して明けてほしくない夜の暗闇の中で、恐怖にガタガタと震え続けるしかなかった。
[WARNING: OUT_OF_BOUNDS]




