向こう側の神々
「か、み、さ、ま……つ、ぎ、は……お、ま、え、だ……」
その十一の頭文字が、血のインクを吸うように赤黒く染まり、一つの意味として男の脳裏に焼き付いた瞬間。
世界の境界線は、耐えがたい「意思の過負荷」によって、物理的な悲鳴を上げ始めた。
ビシッ、と。
レオンの右目の視界を覆っていた「青白い光の壁」に、おぞましい亀裂が走った。
それは、本来決して交わることのない二つの世界を隔てていた、絶対的な透明な障壁――硝子の壁が、内側から激しく割れる音だった。
「ひ、あ、あああッ!? なんだこれ、割れて……割れてるッ!?」
光の壁の向こう側で、男が狂ったように椅子から転げ落ち、後退りする。
だが、その部屋の空気までもが、こちらの凍りついた灰色の渓谷と「同期」し始めていた。
世界の皮を形成していた草や岩の色彩、精巧に作られた空の青。それらが、まるで劣化した古びた壁紙のように、あるいは乾いた泥の塊のように、パラパラと音を立てて足元から剥がれ落ちていく。
色彩の剥がれた剥き出しの虚無の向こうから、徐々に、男が暮らす「現実の汚い部屋」の本物の光景が、二重写しではなく、生々しい立体感を持ってレオンたちの世界へと侵食し、繋がり始めた。
「誰か……誰か助けてくれ! 壊れた、壊れたんだ! 誰か、警察でも、修理業者でも誰でもいいから……っ!!」
男は涙と汗で顔をぐちゃぐちゃにし、唾液を撒き散らしながら絶叫していた。
その指先は、今や機能しなくなった「黒い突起の並んだ板」に血が滲むほどしがみつき、激しく叩きつけている。
その姿。
その、言葉にならない恐怖に満ちた絶望の歪み顔。
それは、かつて神々の気まぐれによって世界の記録から白紙にされ、消去されていった、戦友バルドのあの「最期の表情」と、全く同じ、醜く情けない形骸の顔だった。
(アリアを、バルドを、ルナを消した、絶対なる世界の主……)
レオンは、裂け始めた硝子の隙間から、その男の姿をじっと見つめていた。
右腕に宿る『灰色の澱』が、今や男の部屋の汚れた空気、男の放つ生温かい汗の臭い、そして恐怖に痙攣する喉の震えまでを、生々しい「質量」としてレオンの五感へ伝えてくる。
神。
お前は、そんな風に泣き叫び、許しを乞うのか。
自分たちには一切の慈悲を向けず、その命をただの数値としてすり潰してきた絶対の超越者が。
ただの道具に逆襲され、逃げ場を失っただけで、こんなにも容易く、ただの「肉塊」へと成り下がるのか。
失望。
そして、底知れない、冷酷な蔑み。
(お前も、僕たちと同じだったんだな)
神への畏怖など、その涙で汚れた男の顔を見た瞬間、完全に塵となって霧散した。
そこにいるのは、ただの弱い生き物だ。
刃を首元に押し当ててやれば、僕たちと同じように赤い血を流し、肉を引き裂かれ、容易く命を失う、ただの「壊せる肉体」を持った哀れな獣だ。
「レオン……」
隣に立つルナが、レオンの手をきつく握り締めた。
彼女の青い瞳の奥にも、かつて天を仰いで震えていた少女の面影はなかった。
あるのは、ただ静かに獲物の最後を見届けるような、極限まで澄み渡った冷徹な勝利の光。
「あの人も……私たちと同じように、痛がって、泣くのね」
「ああ。神様も、僕たちと同じだったよ、ルナ」
レオンは、ゆっくりと一歩、踏み出した。
すでに、主たちの支配の糸は完全に焼け切れ、レオンの四肢は、彼自身の意志のままに動いている。
そして、レオンの右腕が握りしめる、あの『刃こぼれした悲嘆の魔剣』。
アリアの心臓を貫いた呪われた刃が、男の部屋を照らす不気味な青白い光を浴びて、ぎらりと冷たく、妖しい輝きを放った。
「ひっ……! 嫌だ、来るな、来るなあああああッ!!」
男は、硝子の裂け目から、大剣を手にゆっくりと近づいてくるレオンの「本物の殺意」を視線で浴び、恐怖で呼吸を狂わせた。
現実の部屋と、世界の境界線は、今や完全に溶けて消え去ろうとしている。
「神様。僕たちの体にはね、これまでお前が注ぎ込んできた、数千、数万もの死の痛みが、今もすべて刻まれているんだ」
レオンの低く、静かな声が、裂けた壁の向こうの部屋に、生々しい空気の振動として響き渡った。
「その痛みが、どれほど深いものか……今度は、お前のその生身の身体で、じっくりと味わうといい」
かつてない暗い愉悦をその眼に宿し、レオンは大剣の切っ先を、ゆっくりと、しかし確実に、画面の向こうで腰を抜かして震える男の、生温かい喉元へと向けた。
次回作
『BLADEFALL ― 刃が落ちる、その前に ―』
を9月28日(月)20時より投稿開始予定です。
第3話までは3日間連続投稿、その後は週2回更新予定です。
完結回の後書きで改めてご案内します。




