神の悲鳴
世界は死に絶え、灰色の静寂だけが渓谷を満たしていた。
巨竜の吐き出した炎は空中で凍りつき、崩れ落ちる岩石は重力を失って宙に浮かんだまま動かない。あらゆる因果の流れが強制的に叩き切られたこの領域で、レオンとルナだけが、自らの意志で呼吸をし、確かな体温を分け合っていた。
だが、真の絶望は、この凍りついた世界の「外」――天上の領域で、音もなくその幕を開けようとしていた。
レオンの右目は、二重写しになった異界の光景を、より鮮明に、かつてないほど生々しく捉え続けていた。
「な……んで、消えない……っ!? 嘘だろ、ログアウトが……通じない!?」
薄暗い部屋の中。
主である男は、狂ったように叫びながら、自身の身体を「光の壁」から引き剥がそうともがいていた。
手元の黒い突起をどれだけ乱暴に叩きつけ、接続を断ち切るための命令を繰り返しても、壁の向こうの灰色に凍りついた世界はビクともしない。
焦燥に駆られた男は、壁へと電力を供給している配線を直接引き抜こうと手を伸ばした。しかし、彼の指先が配線に触れた瞬間、パツンと激しい静電気のような火花が弾け、痛烈な痺れが全身を駆け抜ける。
「痛っ……! クソ、なんだよこれ……壊れたのか!?」
電力を遮断することすらできない。
ログアウトを拒絶され、現実的な脱出手段をすべて封じられた男の額から、じっとりとした嫌な汗が吹き出して床に滴り落ちる。
彼は、自分がただの娯楽として消費してきたデータの牢獄の前に、完全に縛り付けられていた。
「ひっ、あ、あぁ……っ!」
男の喉から、浅ましい悲鳴が漏れる。
その恐怖をあざ笑うかのように、男の目の前で、完全に暗転していたはずの光の壁が、再びぼんやりと不気味な燐光を放ち始めた。
だが、そこに映し出されたのは、元の戦場の光景ではなかった。
虚無の泥のような灰色一色の領域。その中央に、突如として、巨大な「黒い格子盤」が勝手に出現した。
それは、神がこれまでにレオンたちに命じ、世界のあちこちから強欲に毟り取らせてきた、血塗られた『遺品の保管庫』だった。
カチ。
静まり返った部屋に、爪で硬い石を叩いたような、不快な乾いた音が響いた。
男の意思とは無関係に、格子盤の最も左上の隙間が、細かく明滅する。
カチ、カチ、カチカチカチカチカチカチカチカチ!!!
突起を叩く指が完全に止まるほどの、耳を劈くような高音の連続音が部屋の中に鳴り響いた。
それは何者かが、保管庫の中身を狂ったような速度で並び替え、整理を連打している音だった。
「動くな! 勝手に動くんじゃねえ!!」
男は、冷たくなった指先で必死に突起を連打し、その不気味な自動整理を止めようとした。だが、彼の必死の拒絶は虚しく空を切り、格子盤の中の物品たちは、まるで意志を持った蟲のように、勝手にそれぞれの位置へと這いずり、整列していく。
並び替えられていくのは、彼がレオンたちに集めさせ、ゴミのように扱い、あるいは不要な不良在庫としてインベントリの奥底へと掃き戻したはずの、大切な者たちの形見。
それが、左上から順に、完璧な規則性を持って並んでいく。
一つ目の隙間に収まったのは、黒い革紐に濁った鎖のついた、薄汚れた首輪。
陰りのある新魔獣の首輪
効率という餌のために、愛獣を犠牲にして得たペットの首輪。
二つ目の隙間に収まったのは、泥と血にまみれた、古ぼけた紐付きの小さな木製のお守り。
惨めな村人の古びたお守り
かつてレオンがすべてを賭けて守りたかった、しかしその記憶すら消されて残骸となったアリアの遺品。
三つ目の隙間に収まったのは、粗末な布が不自然に引き裂かれた、色褪せた切れ端。
割けたアリアの衣服の切れ端
効率を高めるという理由だけで、大切な人の形見を無慈悲に引きちぎって作られた衣服の残骸。
四つ目の隙間に収まったのは、白い粉末と小さな骨の破片が混ざり合った、冷たい器。
魔素となって砕けた愛獣の遺骨
ただの経験値の足しにするためだけに、育てられた愛獣の哀れな死骸。
五つ目の隙間に収まったのは、笑顔の意匠が描かれた、不気味に凍りついた鉄の仮面。
継ぎ接ぎだらけの笑顔の仮面
どんなに絶望し、悲鳴を上げようとも、神々の目を楽しませるために貼り付けさせられていた強制された笑顔の残骸。
六つ目の隙間に収まったのは、不自然に真っ二つに叩き割られた、鈍く光る鉄の十字架。
偽神に抗うルナの十字架
神々の支配に逆らおうと、肉体の同期を狂わせた結果、握り締め歪んだ十字架。生々しい拒絶の証。
七つ目の隙間に収まったのは、刀身に幾重もの不吉なヒビが入った、黒ずんだ禍々しい大剣。
刃こぼれした『悲嘆の魔剣』
アリアの心臓を自らの手で貫かされ、世界を壊すための最初の凶器となった、呪われた刃。
八つ目の隙間に収まったのは、二つの指輪が引きちぎられ、不自然に変形した一対の金属輪。
汚染された『双魂の契り』の指輪
神々の醜い決裂によって無理やり引き裂かれ、泥の中に踏みにじられた、歪な絆の残骸。
九つ目の隙間に収まったのは、血のついた真っ白な法衣の袖。
真っ白なルナの噛みちぎられた袖
踏み躙られた尊厳を取り戻すため、自らを傷をつけた決意の証。
十目の隙間に収まったのは、重厚な金属板がぐにゃりと歪み、返り血が凝固して黒ずんだ装甲。
エラーコード『B.A.L.D.O-03』の重盾
その存在が天の領域から抹消された後、ただの型落ちのガラクタとしてその場に放棄されていた、戦友の唯一の形見。
十一目の隙間に収まったのは、幾千、幾万の泥と血を浴びて、二度と元の白銀には戻らなくなった一対の鉄の籠手。
大剣士の血塗られた手甲
自らの意志を剥奪され、ただ人形として大剣を振るい続けさせられてきた、レオンの右手の写し身。
合計、十一。
完璧に整列したその瞬間、カチカチという耳障りな破裂音がピタリと止んだ。
男の背筋に、氷柱を突き立てられたような不気味な静寂がのしかかる。
「なんだよ……これ……。なんで、これがなんだってんだよ……?」
なぜ、自分がとうの昔に忘れていたはずの、あるいは単なる「換金価値のないゴミ」として切り捨ててきたはずの遺品ばかりが、一分の隙もなく、美しく、そしておぞましく整列しているのか。
単なる偶然か、あるいはシステムの不具合か。
恐怖と疑問で頭が破裂しそうになりながら、男の視線は、格子盤のなかに並ぶ遺品たちの「名称」へと吸い寄せられた。
その時だった。
整列した十一の遺品の、その名称の「最初の一文字」だけが。
じわりと、どす黒い血液を吸い上げたかのように、赤黒く変色し始めた。
それは、男の網膜の裏へと直接焼き付けられていく、不吉な配列。
一、陰りのある新魔獣の首輪 ――『か』
二、惨めな村人の古びたお守り ――『み』
三、割けたアリアの衣服の切れ端 ――『さ』
四、魔素になって砕けた愛獣の遺骨 ――『ま』
五、継――継ぎ接ぎだらけの笑顔の仮面『つ』
六、偽神に抗うルナの十字架 ――『ぎ』
七、刃こぼれした『悲嘆の魔剣』 ――『は』
八、汚染された『双魂の契り』の指輪 ――『お』
九、真っ白なルナの噛みちぎられた袖 ――『ま』
十、エ(え)ラーコード『B.A.L.D.O-03』の重盾 ――『え』
十一、大剣士の血塗られた手甲 ――『だ』
「……か、み、さ、ま……つ、ぎ、は……」
男は、乾いた唇を震わせながら、その頭文字を無意識に、一文字ずつなぞるように読み上げていた。
そして。
すべてが、完全に繋がった。
「――っ!?」
男の顔から、一滴の血液も残らないほどに、血の気が完全に引いた。
見開かれた両の瞳が、恐怖のあまりに激しく痙攣し、顎ががたがたと音を立てて震え始める。
『かみさまつぎはおまえだ』
――【神様、次はお前だ】。
それは、彼が「ただの便利な道具」として、何度も死なせ、何度も弄び、使い潰してきたデータの人形――レオンからの、世界の境界を越えて届けられた、絶対的な死の宣告だった。
「あ、あ、あ……っ! 違う、私は、私はただ……遊んでいただけだ! 」
男は狂ったようにキーボードを叩き、マウスを投げつけ、席から立ち上がろうとした。だが、光の壁の向こうに映るレオンの、完全に主権を取り戻した冷酷な「人間」の瞳が、画面越しにまっすぐ自分を睨み据えていることに気づき、金縛りに遭ったようにその場から動けなくなった。
神への完璧な復讐の回路は、今、彼らがこれまでに流した血と涙のすべてを注ぎ込まれ、世界の理の底から逆流を始めようとしていた。
次回作のお知らせです。
9月28日(月)20時より、長編ファンタジー
『BLADEFALL ― 刃が落ちる、その前に ―』
の投稿開始を予定しています。
詳細は完結後に改めてお知らせします。




