因果の目詰まり(前編)
漆黒の古竜が、その巨大な翼を静かに広げた。
渓谷を覆い尽くすその影は、赤土の谷底で蠢く数百体の人形たちを、夕闇よりもさらに深い、血のような暗黒へと一瞬にして沈めていく。
ふと天を見上げれば、どす黒く渦巻く雲の隙間から、まるで充血した血管のように不気味に赤く脈打つ、無数の『天上の支配の糸』が地上へと垂れ下がっていた。
どの糸も、千切れんばかりにピンと張り詰めている。
かつてない数の『神々』が、天上の向こうから降臨していた。
世界の『時』の歩みは、まるで泥濘を這うように、不自然に粘つき始めていた。
一歩を踏み出し、その爪先が赤土に触れるまでのコンマ数秒が、ゴムのようにぐにゃりと引き伸ばされる。風に舞う灰や火の粉は、空中で一瞬だけピタリと静止し、次の瞬間、遅れて数歩先へと不自然に「跳ぶ」。
周囲に集まる他の戦士たち――その四肢は、腕を真横に広げたままピクリとも動かずに浮遊し、あるいは首が正面を向いたまま一秒間に何度もガタガタと左右に震えていた。
何百、何千もの『見えない目』が一斉に注がれる物理的な質量が、目に見えない強烈な重圧となってレオンの肩にのしかかる。
脳髄の奥で「ジジジ……ジジジ……」と耳障りな静電気が猛烈な勢いで火花を散らし、神経が焼き切れるような頭痛がレオンの思考を白く染め上げていく。
頭蓋の裏側で、無数の甲虫が乾いた床を這い回るような「カタカタ、ガチャガチャ」という乾いた不快な破壊音が猛烈に反響する。それが、天上の向こうの神々が狂ったように指令を叩きつけている、物理的な音の逆流だった。
視界の端には、暗闇の中で青白く発光するディスプレイの硝子が重なって映り込み、酷い貌が、二重写しのようにぼんやりと反射している。
(こちらからも、お前たちの脳髄へ、届くはずだ)
レオンは凍りついた笑顔の仮面の裏側で、冷酷に、静かに殺意を研ぎ澄ませていた。
隣に立つ、白金髪の聖女ルナが、ほんの僅かに青い瞳をこちらに向けた。
瞬きをする刹那、彼女の瞳が一瞬だけ灰色へと切り替わり、世界の裏側が不気味に覗く。だが、今のレオンにとって、その壊れかけた異形さこそが、何よりも愛おしい彼女の「人間らしさ」の証明だった。
喉の膠着によって声は出ない。だが、脳裏を直接結ぶあの青い因果の線を通じて、二人の魂だけが静かに囁き合った。
『準備はできてる、レオン。』
『ああ。』
『これで、全部終わりにしよう。』
『うん、終わらせよう。僕たちの手で』
二人は、昨夜の宿屋の暗闇の中で、一つの恐るべき『決断』と『下準備』を完了させていた。
世界は知らない。天上の向こうの神々も、一ミリたりとも気づいていない。
お互いの魂を同期させる【双魂の契り】には、誰一人として到達したことのない、禁忌の最終段階が存在することを。
かつて、結ばされた【双魂の契り】。
それは、レオンが受けた激痛の半分を、後方のルナへと無慈悲に同期させ、彼女の華奢な肉体を引き裂き、血を吐かせて崩れ落ちさせる、神々の効率のためだけの「呪わしい絆」だった。
だが、ルナは彼の剥がれた爪の手をきつく握り締め、「痛みを半分分け合えたから、私はただの人形じゃなくて、レオンと繋がっている『本物の人間』なんだって叫べた」と、涙を流して微笑んでくれた。
その瞬間、呪いは消えた。
二人は、神々に押し付けられたおぞましい「痛みの共有」を――お互いがここに「本物」として生きて存在していることを叫び、守り抜くための、絶対的な【存在証明の絆】へと書き換えることを誓った。
【双魂の契り:『存在統合』】。
片方が存在する限り、もう片方も絶対に存在し続けなければならない。
世界の道理を根底から破綻させる絶対依存の鎖。無論、世界がそれを許容するはずがない。
世界の裏側に辿り着いたレオンだから辿り着けた境地。右腕に宿った力。
あと一歩。
あと一つだけ、戦闘中の世界の順序を書き換え、この『存在統合』を叩き込めば、すべてが完成する。
そして、それを実行するための引き金を、彼らは今まさに引こうとしていた。
ズゥゥゥン……!!
渓谷の底が、爆発したかのように激しく震えた。
赤土の大地が裂け、煮え滾るような溶岩を周囲へと押し退けながら、古竜がその圧倒的な巨体を現した。
青白い破壊の紋様を刻んだ、漆黒の鱗。山々を一度の羽ばたきで切り裂く、巨大な翼。万物を論理的な死へと導く、黄金に輝く厄災の瞳。
そして――。
「――グォォォォォォォォォッ!!」
空間そのものが粉々に砕け散るような、凄絶な咆哮。
直撃すれば、どんな肉体であっても一瞬にして命を灯火を消され、世界の背景へと融解させられる、絶対的な死の命令。全てを薙ぎ払う古竜のブレス。
画面の向こうの主たちの間に、凄まじい恐怖と焦燥の放電が走り、狂ったような指令の音がレオンの頭蓋の裏で「カタカタカタカタ!」と爆音を立てて鳴り響いた。
システムからの強制移動命令が、筋肉を引き裂くほどの莫大な電圧を伴って、二人の肉体へと一斉に降り注ぐ。
(今だ……ッ!!)
レオンだけが。
自らの魂のすべてを賭して、右腕に宿る『灰色の澱』を爆発させた。
狙うは、神の指先から送られる電気信号の強制保留。
神々が狂ったように叩きつける「走れ」という指令を、レオンは網膜の奥でコンマ数秒だけ、泥のように重くせき止めた。
――レオン、静止。
――ルナ、静止。
世界に修正されてから一度も起きなかったはずの現象が、予想外に起きたことに神々の動揺を誘発する。
しかし、世界にとっては想定内、ただ動かないだけを修正はしない。
その、一瞬の閃光の隙間。
不快な重力が消え去ったゼロ距離の空間で、レオンの右手は、神々の命令を完全に裏切り、自らとルナを繋ぐ、あの胸元の『契りの鎖』へと真っ直ぐに伸ばされた。
そこに浮かぶ、神々には決して見えない、血のように赤黒く脈打つ契約の紋。
レオンの、剥がれた爪の指先が、その紋章に直接触れた。
その瞬間。
昨夜、いつ終わるとしれない地獄の中で、二人が極限まで引き絞り、上書きを保留していた『存在統合』の契約が、世界へと一気に逆流し、理を上書きした。
処理順序の、強制スキップ。
レオンは自らの右手で、世界が適用を感知する前に、二人の『存在統合』を物理的に「確定」させたのだ。
ピキッ。
空間のどこかで。
世界を隔てる硝子に、決定的な亀裂が入るような、鋭く、小さな音が響いた。
ルナが、確かに感じる繋がりに青い瞳を見開く。
『……レオン?』
レオンは、凍りついた世界の中心で、生まれて初めて、作り物ではない本物の、穏やかな微笑みを浮かべた。
『これで、もう誰もお前たちに、俺たちを消させはしない』
直後――。
すべてを塵に還す古竜の咆哮が、二人の肉体を真正面から直撃した。
ズガァァァァン!!!
轟音。閃光。世界が白く、暴力的に弾け飛ぶ。
一瞬だった。
レオンの鼓動が、完全に停止する。
ルナの鼓動もまた、全く同じタイミングで、完全に停止した。
二人は、同時に「死」を迎えた。
――そのはずだった。
世界の理が、冷酷に二人のアバターの死亡処理を開始する。
[SYSTEM: AVATAR_STATUS > L.E.O.N-01 > DEAD]
[SYSTEM: AVATAR_STATUS > L.U.N.A > DEAD]
二つの存在へ、同時に、完璧な死が確定する。
だが、その消滅処理が実行されようとした、まさにその刹那。
レオンが右腕で確定させた、あの最終段階の契約が、理の深層から一斉に牙を剥いた。
[Twin Soul Protocol: PHASE_III > EX-MERGE: ACTIVE]
[RESTRICTION: PARTNER_LOST > FORCE_RESURRECTION]




