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L.E.O.N.-鋼のマリオネット-  作者: 逆凪
【第4章:境界のクロス】

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赤き返り血、呪いの契理(後編)

夜が、すべてを塗り潰すように訪れた。


天上から脳髄へと絶え間なく降り注いでいた、あの乾いた不快な打鍵の振動は、陽が沈むと同時にぴたりと途絶えた。

昼間、渓谷を地獄に変えていた凄惨な剣戟も、同胞たちの引き裂かれた断末魔も、今はもう聞こえない。

赤黒い雲が重く垂れ込める荒野にあるのは、不気味なほど冷たい風が尖った岩肌を撫で抜ける寂寞とした音と、底知れぬ渓谷の暗闇の奥で、眠りについた『災厄』が時折漏らす地響きのような低い唸りだけだった。


崩落した岩壁の僅かな陰。

レオンとルナは、寄り添うように身を寄せていた。


お互いの生々しい呼吸、微かな鼓動の震えすら伝わるほどの暗闇。

だが、その二人の間に漂う沈黙は、昼間の戦場よりも重く、冷え切っていた。


レオンは、泥に汚れた自らの膝へと視線を落とす。


昼間、天上の主たちの強欲な指先に四肢をかき混ぜられ、何人もの同胞を無慈悲に斬り伏せた、自らの右腕。

冷たい月明かりに照らされたその腕は、まるで死人のように生気が失われ、肘から先だけが、世界の背景に溶け込むかのような灰色の靄――おぞましい澱を纏って蠢いていた。


指先を、ゆっくりと握り、開く。

命令すれば、その通りに肉体は駆動する。

だが、そこには決定的な違和感があった。

冷たい深海に沈められたかのような、神経伝達の僅かな「遅れ」。

世界が刻む時間の歩みと、自分の右腕だけが、どうしても噛み合わずにズレている。


「……やっぱり、おかしい。」


レオンの喉から、掠れた絶望の声が零れた。

ルナは、純白の法衣の袖に滲む血をそっと押さえながら、静かに、しかし強く首を縦に振った。


「私も……確かに、見たよ。レオン」


その青い瞳が、暗闇の中で仄かに揺れる。


「あなたの頬に飛び散った返り血が……一瞬だけ、時間を巻き戻すようにして、傷口へと吸い込まれていった。あの時、世界の時間が、不自然に引き伸ばされていた」


「錯覚では、ないんだね」


「ええ。それに……あの戦士から奪い取った、銀の護符も」


ルナの細い指先が、レオンの手甲をそっと指し示す。


「あなたが拾い上げる前、地面に落ちていたはずの姿と、あなたの手の中に収まった後の姿が……一瞬だけ、同じ空間に、重なるようにして『同時に』存在していた。世界が、どちらの状態を正しいとするべきか、迷うようにして……」


沈黙が、さらに深く二人を包み込む。

見間違いではない。幻覚でもない。

世界そのものの整合性が、レオンの右腕を起点にして、ドロドロと不気味に融解し始めているのだ。


ルナは、そっと両手を伸ばし、レオンの灰色の右腕を包み込むようにして触れた。


その、瞬間。


「――っ!」


ルナの細い肩が、弾かれたようにびくりと震えた。


「冷たい……か?」


レオンが尋ねる。だが、ルナは硬直したまま、激しく、恐ろしいものに触れたかのように首を横に振った。


「違う。温度じゃないの……」


彼女は、何かを恐れるように強く瞳を閉じた。


「時間……。あなたのこの右腕だけ、流れている時間が……違う。契りを介して伝わってくる、あなたの心臓の音が……一拍だけ遅れて、背後から重なって聞こえてくる」


「鼓動が、遅れて聞こえる?」


「そう。双魂の契りを流れる私たちの命の脈動は、本来なら同じ速度で、一本の川のように綺麗に循環していなければならない。それなのに……」


ルナは、自分たちの手首に絡みつく、赤黒い因果の鎖を見つめた。

そこに宿る生命の光は、一方向への流れを失い、不気味な二重の波紋を作って干渉し合っている。

一本の川ではない。

同じ流れでありながら、ほんの僅かに位相をずらした「二つの流れ」が、狭い水路の中で押し合い、渦を巻いているのだ。


「昼間、あなたが同胞を屠るたび……この右腕に溜まっていく、死者たちの怨嗟と不具合の澱が、どんどん大きくなっていった。まるで……」


ルナは、喉を詰まらせながら、世界の真理を告げる言葉を絞り出した。


「世界が、あなたの行った残虐な殺戮を……あなたの実在そのものを、なかったことにしようと『消去』を試みるたびに。この右腕だけが、消去される直前の、一つ前のあなたを過去に繋ぎ止め、頑なに保持し続けているみたい」


ドクン。


レオンの呼吸が、完全に停止した。

その、ルナが口にした極限の違和感が、彼の脳髄の中で、一本の冷酷な線となって繋がった。


頬を逆流した、冷たい返り血。

地面と手の内に、二重に配置されていた銀の護符。

この世から完全に削除されたはずの、遅れて届く死者たちの怨嗟の声。

そのすべては、偶然の錯覚などではない。


「そうか……」


レオンは、灰色に染まった右手を凝視する。


「僕は、時間を巻き戻しているんじゃない。世界が上書きして消し去ろうとした『直前の僕』の状態が、この右腕の皮膚に、糊でべったりと貼り付いたまま、まだ消えずに残っているんだ」


その瞬間、右腕にまとわりつく灰色の澱が、呼応するようにドクンと冷たく脈打った。

それに引きずられるようにして。

ルナの胸元の契約紋が、血のように毒々しい朱色を放って明滅する。


「レオン。この感覚……」


ルナの顔から、生気が一気に失われていく。


「あなたのその右腕に溜まった『一つ前の状態』が……この因果の鎖を伝って、私の中にもなだれ込んできている。それも、ほんの僅かに時間をずらして、二重の波紋のように……っ」


レオンは、赤黒くのたうつ契約の紋様を見つめ、初めてその「本当の構造」を理解した。


神々が、前衛であるレオンを不死身の戦闘マシーンに保つために繋いだ、おぞましい血の糸。

傷や苦痛を肩代わりさせるだけの身代わり(デコイ)のシステムだと思っていた。

だが、その本質は違った。

前線で削られるレオンの生命力を、後方から絶え間なく供給し、同期させるための、極めて強制的な「命の循環の術式」。


命を一つの閉じた円に閉じ込め、絶え間なく行き来させることで、片方が限界を迎えても即座に補填し、立ち上がらせるための無限のバケツリレー。


「命の……完璧な循環」


レオンは、乾いた唇から呟きを零した。


「ええ」


ルナもまた、震える瞳のまま頷いた。


「だから、私にはあなたの中の異変が、すべて自分のことのように感じられる。普通なら、一度流れた時間は、命は、決して逆流しない。終われば、それで終わり……。なのに、あなたのその右腕だけが、消去されるはずの『直前の過去』を保持し、消えずに残っている。もし、この状態で……」


再び、深い、底なしの沈黙が渓谷に落ちた。

吹き抜ける冷たい風が、二人の衣服を激しくなびかせる。

レオンはゆっくりと目を閉じた。


天上の主たちは、どうやって自分たちを動かしている。

命令。

肉体。

表情。

そのすべてを、彼らは『神の入力』によって完全に支配している。

だが、彼らがレオンたちの限界を無視して、同胞殺しというあまりにも苛烈な高負荷の殺戮を強制し続けた結果。

その絶対的な支配の網目に、肉体の接着のきしみ――小さく、しかし決定的な「綻び」が生まれてしまった。


「神は」


レオンが、静かに、そして冴え渡る殺意を込めて口を開いた。


「この世界において、常に『たった一つの正しい状態』しか認めていない」


ルナは、息を潜めて彼の言葉を聞いている。


「だから、彼らが不要と判断して消去したものは、バルドのように存在ごと消え去る。死んだものは死んだまま。世界は、それ以外の例外を解決できない。……だが、僕のこの右腕だけは、そのルールを無視して、消去される前の状態を不自然に保持し続けている」


レオンは右腕を強く握り締めた。

皮膚の下で、灰色の澱が泥のように蠢く。


「だから、世界全体の理と、僕の右腕の存在が、噛み合わずにズレていくんだ」


ルナはそこで、何かに気づいたように、美しく、おぞましい青い瞳を極限まで見開いた。


「……待って。それなら……もし、世界が、私たちを同時に……完全に『消去』しようとしたら?」


レオンの脳裏にも、全く同じ、冷酷で完璧な「数式」が浮かび上がっていた。


「僕が完全に世界から消去されようとしたその瞬間、僕の右腕には、消去される直前の『僕』が残る」


ルナの胸の鼓動が、狂ったように早鐘を打ち始める。


二人は同時に、お互いの瞳を見つめ合った。

暗闇のなか、二人の魂は、全く同じ「終わりのない矛盾」へと辿り着いていた。


「円環……」


その言葉が、冷たい渓谷の風に溶けていった。


命が、命を証明する。


「神は」


レオンの唇が、ゆっくりと、冷酷な反逆の笑みの形へと吊り上がった。


「僕たちを、最も都合よく使い潰すための道具にするために、この契りを繋いだ」


彼は、灰色に染まった自らの右手を、ゆっくりとルナの前へと差し出した。


「ならば……この呪われた血の鎖を、奴ら自身を奈落へ引きずり下ろし、縛り上げる『不滅の楔』に変えてやる」


ルナは、もう何も言わなかった。

ただ、静かに微笑みながら、自らの温かい両手で、その灰色の右手を強く、強く握り締めた。


指先が触れ合った、その瞬間。


チリチリと。

耳障りな放電音と共に、二人の手首を結ぶ赤い契約紋が、これまでにない、おぞましい輝きを放ち始めた。


それは、世界の夕焼けの色ではない。

命の血の色でもない。

世界の深層、最も深い論理の底で、システムそのものが「異常」を検知して狂い始めたことを示す、毒々しいまでの『朱色の光』。


世界が存在を同期し、処理を解決しようとするたび。

その繋がれた手の隙間から放たれる朱い光だけが、世界の命令を拒絶し、歪みを広げ続けていく。


遠く、最深の闇のなかで。


眠っていた古竜が、ゆっくりと、その黄金に輝く厄災の瞳を開いた。

世界が最も恐れる「終焉」の時は、すぐそこまで迫っている。


そしてレオンは、明日訪れるであろう、あのすべてを塵に還す咆哮が放たれる瞬間こそが。

神々の組み上げた偽物の理を、内側から完璧に叩き壊すための、唯一無二の反逆の引き金であることを、静かに理解していた。


明日。

天上の神々は、自らが便利に動かしてきた人形たちによって、自らの箱庭を完全に破壊される。


その破滅の始まりは。

血に塗れた右腕と、一つの呪われた契約から生まれた、小さく、そして何よりも悍ましい『世界の綻び』だった。

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