赤き返り血、呪いの契理(前編)
決戦を、翌日に控えた夕刻。
渓谷を吹き抜ける風は、不快なほど生温く、そして生臭かった。
慣れ親しんだ魔獣の腐臭ではない。
人の――いや、自分たちと同じように、天からの見えない呪いの糸に繋がれた同胞たちの、生々しい鉄の匂いだった。
その日、天は狂っていた。
いつもなら雲の上の主たちは、魔獣を効率よく狩り、明日の決戦へ備えて牙を研ぐためだけに糸を引く。
だが、その日に天から脳髄へと降ってきた意思は、決定的に違っていた。
乾いている。
焦っている。
頭蓋の最奥で、狂ったように叩きつけられる無機質な打鍵音が、猛烈な静電気の火花となって神経を逆撫でする。
それは、飢えた獣が獲物を貪り食うような、剥き出しの強欲と焦燥。液晶画面の向こうにいる主たちの狂気が、電流となってレオンの脊髄を強く締め上げた。
(違う……。やめろ、そっちじゃない……!)
レオンの魂の絶叫を完璧に黙殺し、鉄の肉体が前へと滑り出る。
目の前にいるのは、牙を持つ怪物ではない。
自分と同じように、天の不条理なルールに縛られ、この狂った世界を生かされているであろう、一人の戦士だった。
「待っ――!」
その喉から声が紡がれるより早く、レオンの肉体は、極限まで最適化された殺戮の軌道で『悲嘆の魔剣』を振り下ろした。
ぐにゃり、と。
肉を断ち、骨を砕くおぞましい感触が、神経を通じてドロリと脳に流れ込んでくる。
しかし、大剣が引き裂いた胸元から噴き出したのは、赤い血ではなかった。
それは、世界から存在が崩壊したことを示す、白く、淡い光の粒子の塵。魂そのものがバラバラに砕け散るような、あまりにも冷たい死の光。
「な……ぜ……」
胸を貫かれた戦士は、信じられないものを見るように、光の粒子を吐き出しながらレオンを見つめた。
「俺たちは……共に……戦うはず、では……」
言葉は、最後まで紡がれなかった。
輪郭がガタガタと不自然に震え、戦士の身体は光となって世界の虚無へと融解していく。
だが、レオンの肉体は止まらない。
それどころか、主の強欲な意思に引きずられるようにして、右手が勝手に虚空へと伸びた。
消えゆく戦士が持っていた剣を奪い、衣服を乱暴に引き裂いて護符を剥ぎ取る。
懐に収められていた魔石を、粘つくような手のひらで乱暴に毟り取り、自らのカバンへと詰め込んでいく。
明日の決戦が終われば、自分たちをゴミのように使い捨てるつもりでいる神々。彼らにとって、同胞の命など、決戦を有利に進めるための「ただの使い捨ての燃料」に過ぎないのだ。
(やめろ……! 頼むから、止まってくれ……!)
脳の最奥で、レオンは血を吐くように叫び続けていた。
しかし、指先一つ、自らの意志で曲げることすら世界のルールが拒絶する。
天の上の『神の命令』を、冷徹に、寸分の狂いもなく実行し続けていた。
◇
その後も、凄惨な殺戮は繰り返された。
二人。
三人。
四人。
恐怖に顔を歪めて逃げ惑う戦士。
泥の中に膝を突き、涙を流して命乞いをする僧侶。
まだ幼い少女ほどの小柄な体躯を震わせる、無力な魔導士。
その誰もを、レオンの魔剣は容赦なく両断した。
大剣を振るうたび、神経の裏側を直接やすりで削られるような、耳障りなノイズが耳元で鳴り響く。
世界そのものが、この不条理な殺戮に悲鳴を上げているかのようだった。
そして。
五人目の獲物の首を、冷酷に跳ね飛ばした、その時だった。
――ピチャ。
頬へと飛び散ったはずの、冷たい返り血の滴。
それが、おぞましい「逆流」を起こした。
「……?」
レオンの網膜の奥で、世界の時間が一瞬だけ不自然に引き伸ばされた。
宙に舞ったはずの血飛沫が、まるで録画された記録を巻き戻すように、不自然に不均一に引き戻され、斬られた男の傷口へと吸い込まれていく。
そして一瞬の硬直の後、何事もなかったかのように、再びレオンの頬を温かく濡らした。
時間にすれば、コンマ数秒。
瞬きをすれば見落としてしまうほどの、世界の描画の「歪み」。
(今の……何だ……?)
レオンの魂が、底なしの寒気に凍りつく。
だが、肉体はそんな彼の疑問など一顧だにせず、引きつった「勝利の笑顔」を顔面に貼り付けたまま、次の獲物へと向かって滑るように歩き出してしまった。
◇
『レオン!!』
背後から、引き裂かれるようなルナの悲鳴が響いた。
レオンが振り返ることもできない視界の端で、彼女は細い胸元をきつく押さえ、赤土の地面へと膝を突いていた。
『うっ……がはっ……!』
完璧に美しいはずの彼女の青い唇から、生々しいドス黒い血が溢れ出し、純白の法衣の袖を赤黒く汚していく。
【双魂の契り】。
前線で他者を屠るレオンが絶対に倒れないよう、彼が受けるべき反動の痛みを、背後にいるルナへと強制的に流し込み、身代わりに受け持たせる残酷な仕組み。彼らを操る者たちは知らない。殺された者たちの怨嗟の負荷さえ共有していることを、主たちにとって、ルナはレオンという前衛を不死身に保つための、ただの「使い捨ての身代わり(デコイ)」に過ぎないのだ。
『ルナ!』
助けたい。
今すぐ魔剣を放り投げ、血を吐く彼女の体をこの腕で抱き締めたい。
だが。
操られた四肢は、振り返ることすら許さなかった。
次の獲物へ。
次の、温かい命の残滓を奪い取るために。
人形の肉体は、一定の歩幅でただ無機質に前進し続ける。
『やめろおおおおおッ!!』
魂の叫びは、膠着した喉を突き破ることはなく、ただ自らの暗闇の底で、虚しく反響し、消え去っていくだけだった。
◇
六人目の戦士を、背後から無慈悲に突き刺す。
肉体が勝手にその懐を漁り、鈍く光る銀の護符を奪い取る。
その、瞬間だった。
レオンの目に、その護符が――同時に「二つ」見えた。
『……え……?』
確かに、二つの護符が世界に存在していた。
片方は、血に濡れた赤土の地面にぽつんと落ちて、静止している。
そしてもう片方は、レオンの傷だらけの手甲の中に、確かに握り締められている。
拾い上げる前の「過去」と、拾い上げた後の「現在」が、世界のルールを完全に無視して、同じ空間に「同時に」存在しているのだ。
レオンが目を擦った瞬間、地面の護符は不自然に掻き消えた。
錯覚。
あるいは、殺戮を繰り返したことによる、精神の疲労。
そう思おうとした。
だが、護符を握り締めている右腕だけが、皮膚の裏側を氷水で満たされたかのように、異様に、そして悍ましく冷たかった。
まるで、その右腕の空間だけが、世界全体の時間から切り離され、取り残されてしまったかのように。
◇
「助け……」
微かな、掠れた囁きが耳元を掠めた。
レオンは反射的に首を巡らせようとしたが、誰もいない。
肉体はただ、主の命令に従って再び最短ルートを歩み始める。
「助けて……」
今度は、はっきりと脳髄に響いた。
それは、さっきレオンがその手で引き裂き、すでに光の塵となって消滅したはずの、あの戦士の声だった。
その肉体はもうどこにも存在しない。世界から完全に削除されたはずだ。
『違う……』
レオンの喉の奥が、不気味な寒気にガタガタと震えを刻む。
『聞こえるはずがない……。あいつらはもう、僕が……殺したんだ……!』
それでも。
一歩、歩みを進めるたびに、先ほど殺した者たちの、あの最期の絶叫や怨嗟の言葉が。
世界の道理を無視した時間差で、遅れて、何度も何度も耳の奥へと直接届けられる。
「家族が……」
「まだ……」
「死にたく……ない……っ」
その声を発する口は、世界のどこにも存在しない。
なのに。
レオンの「灰色に染まり始めた右腕」だけが、その死にゆく瞬間の空気の震えを、確かに繋ぎ止めたまま離さない。
まるで。
一つ前の時間が、その右腕の皮膚に、糊でべったりと貼り付いているかのように。
◇
ルナは、それを見ていた。
誰よりも近く。
誰よりも鮮明に。
二人の頭上を結び、血のように脈打つ『双魂の契り』の糸を流れる、生命の脈動。
普通なら、命は一本の、不可逆の流れだ。
生まれ。
進み。
そして、終わる。
決して逆らうことのできない、一本の冷たい川。
だが。
レオンの肉体だけが、明らかに違っていた。
契りを介してルナへとなだれ込んでくる生命の波。その波が、レオンの右腕へと到達した瞬間に――一瞬だけ、不自然に「戻る」のだ。
流れたはずの命の川が、ほんの僅かに、物理的に逆流している。
「そんな……」
ルナの美しい青い瞳が、激しい衝撃に揺れる。
不自然に逆流した、頬の返り血。
消去されたはずの死者たちの、遅れて届く声。
地面と手の中に、二重に存在していた護符。
それらは、偶然の錯覚などではない。
すべては、同じ一つの場所から、世界の理を書き換えながら発生している。
レオンの右腕。
度重なるデスペナルティの実験と、上書きセーブのノイズによって、灰色に染まり始めた彼の腕だけが。
世界全体の時間軸から、ほんの僅かに「遅延」し、過去の状態を保持したまま動いているのだ。
そして、その不気味な遅れは。
双魂の契りの鎖を伝って、ルナの肉体の奥深くへも、じわじわと、泥のように流れ込み始めていた。
胸の奥で。
命の鼓動が、一拍だけ、重なって響く。
一つではない。
二つでもない。
同じ心臓の拍動が、
"ほんの僅かに時間をずらして"
同じ胸の中で二重に重なり、共鳴している。
ルナの細い背筋に、極低温の氷の楔を直接ぶち抜かれたような、悍ましい衝撃が走った。
(これは……呪いじゃない。)
(もっと深い。)
(世界そのものの――綻びだ)
その瞬間。
天から、再び乾いた、耳障りな打鍵の振動が降ってきた。
主たちの強欲な指先に引かれ、レオンの身体が、次の同胞へ向かって不自然な速度で動き出す。
ルナは、血に濡れた唇を強く噛み締めた。
今は、まだ確信はない。
だが。
この世界が起こしている異常には、自分たちがこの檻を破壊するための、絶対的な意味がある。
神々ですら気づいていない、世界の致命的な綻びが。
レオンの灰色に染まり始めた右腕には、確かに、そしておぞましく生まれ始めていた。




