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L.E.O.N.-鋼のマリオネット-  作者: 逆凪
【第4章:境界のクロス】

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赤き返り血、呪いの契理(前編)

決戦を、翌日に控えた夕刻。


渓谷を吹き抜ける風は、不快なほど生温く、そして生臭かった。

慣れ親しんだ魔獣の腐臭ではない。

人の――いや、自分たちと同じように、天からの見えない呪いの糸に繋がれた同胞たちの、生々しい鉄の匂いだった。


その日、天は狂っていた。


いつもなら雲の上の主たちは、魔獣を効率よく狩り、明日の決戦へ備えて牙を研ぐためだけに糸を引く。

だが、その日に天から脳髄へと降ってきた意思は、決定的に違っていた。

乾いている。

焦っている。

頭蓋の最奥で、狂ったように叩きつけられる無機質な打鍵音が、猛烈な静電気の火花となって神経を逆撫でする。

それは、飢えた獣が獲物を貪り食うような、剥き出しの強欲と焦燥。液晶画面の向こうにいる主たちの狂気が、電流となってレオンの脊髄を強く締め上げた。


(違う……。やめろ、そっちじゃない……!)


レオンの魂の絶叫を完璧に黙殺し、鉄の肉体が前へと滑り出る。

目の前にいるのは、牙を持つ怪物ではない。

自分と同じように、天の不条理なルールに縛られ、この狂った世界を生かされているであろう、一人の戦士だった。


「待っ――!」


その喉から声が紡がれるより早く、レオンの肉体は、極限まで最適化された殺戮の軌道で『悲嘆の魔剣』を振り下ろした。


ぐにゃり、と。

肉を断ち、骨を砕くおぞましい感触が、神経を通じてドロリと脳に流れ込んでくる。

しかし、大剣が引き裂いた胸元から噴き出したのは、赤い血ではなかった。

それは、世界から存在が崩壊したことを示す、白く、淡い光の粒子の塵。魂そのものがバラバラに砕け散るような、あまりにも冷たい死の光。


「な……ぜ……」


胸を貫かれた戦士は、信じられないものを見るように、光の粒子を吐き出しながらレオンを見つめた。


「俺たちは……共に……戦うはず、では……」


言葉は、最後まで紡がれなかった。

輪郭がガタガタと不自然に震え、戦士の身体は光となって世界の虚無へと融解していく。

だが、レオンの肉体は止まらない。

それどころか、主の強欲な意思に引きずられるようにして、右手が勝手に虚空へと伸びた。


消えゆく戦士が持っていた剣を奪い、衣服を乱暴に引き裂いて護符を剥ぎ取る。

懐に収められていた魔石を、粘つくような手のひらで乱暴に毟り取り、自らのカバンへと詰め込んでいく。

明日の決戦が終われば、自分たちをゴミのように使い捨てるつもりでいる神々。彼らにとって、同胞の命など、決戦を有利に進めるための「ただの使い捨ての燃料」に過ぎないのだ。


(やめろ……! 頼むから、止まってくれ……!)


脳の最奥で、レオンは血を吐くように叫び続けていた。

しかし、指先一つ、自らの意志で曲げることすら世界のルールが拒絶する。

天の上の『神の命令』を、冷徹に、寸分の狂いもなく実行し続けていた。


◇


その後も、凄惨な殺戮は繰り返された。


二人。

三人。

四人。


恐怖に顔を歪めて逃げ惑う戦士。

泥の中に膝を突き、涙を流して命乞いをする僧侶。

まだ幼い少女ほどの小柄な体躯を震わせる、無力な魔導士。

その誰もを、レオンの魔剣は容赦なく両断した。


大剣を振るうたび、神経の裏側を直接やすりで削られるような、耳障りなノイズが耳元で鳴り響く。

世界そのものが、この不条理な殺戮に悲鳴を上げているかのようだった。


そして。

五人目の獲物の首を、冷酷に跳ね飛ばした、その時だった。


――ピチャ。


頬へと飛び散ったはずの、冷たい返り血の滴。

それが、おぞましい「逆流」を起こした。


「……?」


レオンの網膜の奥で、世界の時間が一瞬だけ不自然に引き伸ばされた。

宙に舞ったはずの血飛沫が、まるで録画された記録を巻き戻すように、不自然に不均一に引き戻され、斬られた男の傷口へと吸い込まれていく。

そして一瞬の硬直の後、何事もなかったかのように、再びレオンの頬を温かく濡らした。


時間にすれば、コンマ数秒。

瞬きをすれば見落としてしまうほどの、世界の描画の「歪み」。


(今の……何だ……?)


レオンの魂が、底なしの寒気に凍りつく。

だが、肉体はそんな彼の疑問など一顧だにせず、引きつった「勝利の笑顔」を顔面に貼り付けたまま、次の獲物へと向かって滑るように歩き出してしまった。


◇


『レオン!!』


背後から、引き裂かれるようなルナの悲鳴が響いた。

レオンが振り返ることもできない視界の端で、彼女は細い胸元をきつく押さえ、赤土の地面へと膝を突いていた。


『うっ……がはっ……!』


完璧に美しいはずの彼女の青い唇から、生々しいドス黒い血が溢れ出し、純白の法衣の袖を赤黒く汚していく。


【双魂の契り】。

前線で他者を屠るレオンが絶対に倒れないよう、彼が受けるべき反動の痛みを、背後にいるルナへと強制的に流し込み、身代わりに受け持たせる残酷な仕組み。彼らを操る者たちは知らない。殺された者たちの怨嗟の負荷さえ共有していることを、主たちにとって、ルナはレオンという前衛を不死身に保つための、ただの「使い捨ての身代わり(デコイ)」に過ぎないのだ。


『ルナ!』


助けたい。

今すぐ魔剣を放り投げ、血を吐く彼女の体をこの腕で抱き締めたい。

だが。

操られた四肢は、振り返ることすら許さなかった。

次の獲物へ。

次の、温かい命の残滓を奪い取るために。

人形の肉体は、一定の歩幅でただ無機質に前進し続ける。


『やめろおおおおおッ!!』


魂の叫びは、膠着した喉を突き破ることはなく、ただ自らの暗闇の底で、虚しく反響し、消え去っていくだけだった。


◇


六人目の戦士を、背後から無慈悲に突き刺す。

肉体が勝手にその懐を漁り、鈍く光る銀の護符を奪い取る。


その、瞬間だった。


レオンの目に、その護符が――同時に「二つ」見えた。


『……え……?』


確かに、二つの護符が世界に存在していた。

片方は、血に濡れた赤土の地面にぽつんと落ちて、静止している。

そしてもう片方は、レオンの傷だらけの手甲の中に、確かに握り締められている。

拾い上げる前の「過去」と、拾い上げた後の「現在」が、世界のルールを完全に無視して、同じ空間に「同時に」存在しているのだ。


レオンが目を擦った瞬間、地面の護符は不自然に掻き消えた。


錯覚。

あるいは、殺戮を繰り返したことによる、精神の疲労。

そう思おうとした。

だが、護符を握り締めている右腕だけが、皮膚の裏側を氷水で満たされたかのように、異様に、そして悍ましく冷たかった。

まるで、その右腕の空間だけが、世界全体の時間から切り離され、取り残されてしまったかのように。


◇


「助け……」


微かな、掠れた囁きが耳元を掠めた。

レオンは反射的に首を巡らせようとしたが、誰もいない。


肉体はただ、主の命令に従って再び最短ルートを歩み始める。


「助けて……」


今度は、はっきりと脳髄に響いた。

それは、さっきレオンがその手で引き裂き、すでに光の塵となって消滅したはずの、あの戦士の声だった。

その肉体はもうどこにも存在しない。世界から完全に削除されたはずだ。


『違う……』


レオンの喉の奥が、不気味な寒気にガタガタと震えを刻む。


『聞こえるはずがない……。あいつらはもう、僕が……殺したんだ……!』


それでも。

一歩、歩みを進めるたびに、先ほど殺した者たちの、あの最期の絶叫や怨嗟の言葉が。

世界の道理を無視した時間差で、遅れて、何度も何度も耳の奥へと直接届けられる。


「家族が……」


「まだ……」


「死にたく……ない……っ」


その声を発する口は、世界のどこにも存在しない。

なのに。

レオンの「灰色に染まり始めた右腕」だけが、その死にゆく瞬間の空気の震えを、確かに繋ぎ止めたまま離さない。

まるで。

一つ前の時間が、その右腕の皮膚に、糊でべったりと貼り付いているかのように。


◇


ルナは、それを見ていた。

誰よりも近く。

誰よりも鮮明に。


二人の頭上を結び、血のように脈打つ『双魂の契り』の糸を流れる、生命の脈動。


普通なら、命は一本の、不可逆の流れだ。

生まれ。

進み。

そして、終わる。

決して逆らうことのできない、一本の冷たい川。


だが。

レオンの肉体だけが、明らかに違っていた。

契りを介してルナへとなだれ込んでくる生命の波。その波が、レオンの右腕へと到達した瞬間に――一瞬だけ、不自然に「戻る」のだ。

流れたはずの命の川が、ほんの僅かに、物理的に逆流している。


「そんな……」


ルナの美しい青い瞳が、激しい衝撃に揺れる。


不自然に逆流した、頬の返り血。

消去されたはずの死者たちの、遅れて届く声。

地面と手の中に、二重に存在していた護符。

それらは、偶然の錯覚などではない。

すべては、同じ一つの場所から、世界の理を書き換えながら発生している。


レオンの右腕。

度重なるデスペナルティの実験と、上書きセーブのノイズによって、灰色に染まり始めた彼の腕だけが。

世界全体の時間軸から、ほんの僅かに「遅延」し、過去の状態を保持したまま動いているのだ。


そして、その不気味な遅れは。

双魂の契りの鎖を伝って、ルナの肉体の奥深くへも、じわじわと、泥のように流れ込み始めていた。


胸の奥で。

命の鼓動が、一拍だけ、重なって響く。

一つではない。

二つでもない。

同じ心臓の拍動が、

"ほんの僅かに時間をずらして"

同じ胸の中で二重に重なり、共鳴している。


ルナの細い背筋に、極低温の氷の楔を直接ぶち抜かれたような、悍ましい衝撃が走った。


(これは……呪いじゃない。)


(もっと深い。)


(世界そのものの――綻びだ)


その瞬間。

天から、再び乾いた、耳障りな打鍵の振動が降ってきた。

主たちの強欲な指先に引かれ、レオンの身体が、次の同胞へ向かって不自然な速度で動き出す。


ルナは、血に濡れた唇を強く噛み締めた。

今は、まだ確信はない。

だが。

この世界が起こしている異常には、自分たちがこの檻を破壊するための、絶対的な意味がある。


神々ですら気づいていない、世界の致命的な綻びが。

レオンの灰色に染まり始めた右腕には、確かに、そしておぞましく生まれ始めていた。

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