神々の戯言
宿屋の「檻」から広場へ、そしていつもの血臭い戦場へ。
主権を奪われた肉体を引きずりながらも、レオンの心は、かつてないほど冷徹に、そして静かに燃え上がっていた。
彼らの反逆は、誰にも悟られぬよう、極限の慎重さをもって次の段階へと進められていた。
(――今だ)
主が、レオンの右腕に「大剣を構え直す」という単純な駆動命令を下した、まさにその瞬間。
レオンは、右腕の神経の奥深くに沈殿している、あの奈落から持ち帰った『灰色の澱』を、自らの意志で強く踏みしめた。
ピキリ、と右腕に冷たい痺れが走る。
主の絶対的な支配に対し、レオンの右腕だけが、まるで重い泥の中を動かすかのようなわずかな「遅延」を起こす。
主の感覚からすれば、それは戦闘の最中に生じる、取るに足らない肉体の強張りに過ぎない。だが、そのコンマ数秒の遅れの隙間に、レオンは自分の意志を滑り込ませた。
剣を構える。その「予定された軌道」の中で、レオンは右手の指先をほんの数ミリだけ動かし、大剣の柄を握る位置をずらした。
あるいは、敵の牙を大剣で受け止めるその刹那、本来の防御姿勢をわずかに傾け受け流した。
(できる……。天の命令を拒むことはできなくても、その命令の『隙間』に、僕の意図を混ぜ込むことはできる)
それは、神々が想定している「人形の限界値」を、内側からわずかに狂わせる精密な楔だった。
剣の角度、踏み込む足の親指にかける力、そして、ルナと繋がれた『契りの鎖』から流れ込む感覚の同調。
二人は戦いの中で何度も、主たちに「肉体の重さ」と誤認させながら、肉体の主導権を少しずつ、針の穴を通すような精密さで奪い返す訓練を繰り返していた。
そして、その「歪みの蓄積」は、彼らの視界にも決定的な変化をもたらした。
夕暮れ時、広場の片隅で静止させられている時だった。
レオンの頭上で、チカチカと不吉な朱色のルーン文字が明滅を始める。
かつては、世界の理そのものが発する、畏怖すべき太古の神聖語のようだったその光の羅列。
だが、今のレオンの瞳は、その文字の「崩れ」の隙間に、ある奇妙な規則性を見出していた。
不快な静電気のノイズに混じって、その光の文字列が、脳内で不気味な「言葉」の断片へと翻訳されていく。
『――■・・硬い・・不快・・/・この器・・使いにくい・・■』
『――■・・価値・・落ちる前に・・処分・・■』
『――■・・次の大猟で・・使い潰す・・■』
(……なんだ、これは)
レオンは、胃の底から這い上がってくるような、冷酷な渇いた笑いを噛み殺した。
彼らが「天の意思」と思い、世界の理そのものだと畏怖していたもの。
その正体は、世界の命運を握る崇高な神などでは決してなかった。
そこにいたのは、自分たちの流す血の重さも、命の温もりも何一つ知らず、ただ「使い勝手が悪い」「価値が落ちる」と、玩具を品値引きするように醜い打算を言い合う、ひどく陳腐で、強欲で、底の浅い『何者か』のひそひそ話に過ぎなかったのだ。
神々の正体を、言葉のレベルで完全に引きずり下ろした瞬間、レオンの心から畏怖という名の最後の鎖が完全に消え去った。
(お前たちは神ではない。僕たちの命を弄び、アリアを殺し、バルドをゴミのように消した、ただの浅ましい侵入者だ)
怒りは、もはや熱い炎ではない。
それは、絶対に獲物を逃さないと誓った、暗く凍てついた氷の針へと変わっていた。
その時、レオンの胸の奥で、昏い衝動が鎌首をもたげた。
右腕に宿る、あの『灰色の澱』。世界の理の裏側から持ち帰った拒絶の力を、この天上の文字を紡ぐ「光の糸」に向けて、ほんの少しだけ放ってみたらどうなるか。
レオンは息を潜め、勝手に動く右腕の指先に、奈落の冷たい熱を集中させた。
そして、目の前を流れる朱色の文字の『繋ぎ目』へと、網膜の裏からその歪みを滑り込ませ、そっと弾いた。
バツンッ、と頭蓋の中で、何かが爆ぜるような鋭い放電音が響いた。
レオンの頭上で明滅していた朱色の文字が、一瞬だけぐにゃりと不自然にねじ曲がり、毒々しい紫色の火花を散らして激しく明滅した。
そして、そのノイズの向こうから、天上の支配者たちが放つ「明らかな動揺」が、冷たい放電パルスとなってレオンの神経を直撃した。
『――■・・何だ・・?・・今・・■――』
『――■・・不気味・・/・・おかしい・・■――』
神々の文字が、かつてないほど激しく乱れ、途切れる。
天上の彼方で、二人の肉体を操る不可視の指先が、一瞬だけ恐怖に似た引っかかりを感じて強張ったのが分かった。
(届いた……。僕たちの拒絶が、あの雲の上の奴らに、確かに一撃を加えたんだ)
レオンの唇の端が、主権のない肉体の奥で、わずかに歪んだ。
さらに、乱れた文字の隙間から、彼らの打算に満ちた次の「予定」が漏れ聞こえてくる。
『――■・・古竜の来襲・・/・・最大の戦い・・■――』
『――■・・すべてを投入して・・限界まで・・■――』
(古竜の来襲――【共同討伐戦】)
レオンの脳裏に、数日後にこの世界を襲う、最大級の厄災のイメージが流れ込んできた。
世界の理が、その戦いのためだけに特別な空間を切り拓き、この領域に存在するほぼすべての「人形」と「主たち」が一堂に会する、最大の決戦。
そこが、彼らにとってのタイムリミットであり――
そして、あの傲慢な者たちを、この地獄の底へと引きずり落とすための、唯一にして最大の「舞台」だった。
『レオン……』
脳裏の深部で、ルナの魂のささやきが、かつてないほど鋭く響いた。
彼女もまた、この世界の隙間から、神々の動揺と、彼らが企む「大一番」の計画を聞いていた。彼女の青い瞳の奥に宿る光は、すでに絶望の涙を乾かし、獲物を見遂げる猛獣のそれへと変貌している。
『あの戦いのとき、奴らは私たちの肉体に、最も深く意識を重ね合わせる……。その瞬間を狙えば、きっと――』
『ああ。引きずり落とせる』
レオンは、主権を奪われた右手の指先を、主の命令の隙間で、わずかにピクリと動かした。
お揃いの『契りの鎖』は、今も二人の魂を強固に繋ぎ止めている。
天が引き裂こうとしても解けなかったこの不滅の繋ぎ目を、今度は自分たちの手で、奴らの支配を根本から叩き割るための「特大の楔」へと変換するのだ。
タイムリミットは、数日後の夜。
世界中が巨獣の咆哮に震えるその瞬間。
レオンとルナは、貼り付いた笑顔の奥で、自らを手なずけた気になっている天上の者たちへ、最悪の罠を仕掛けるための準備を、静かに、確実に進め始めていた。
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