不滅の繋ぎ目
意識が引きちぎられるような衝撃とともに、レオンは目を開けた。
「――っ、は、あぁ……!」
喉が激しく喘ぎ、肺が冷たい宿屋の空気を乱暴に吸い込む。
目の前にあるのは、見慣れた、そして忌まわしい宿屋の焦げ茶色の天井だった。あの底のない灰色の奈落も、浮かび上がる虚無の網目も消え去り、彼らは再び、この精巧に作られた箱庭の中へと縫い留められていた。
――ピィィィィィン――
朝の再稼働を告げる、あの不快な放電音が脳髄を駆け巡る。
すぐに天の支配者の太い糸が、レオンの四肢の自由を完全に奪い去った。レオンの体は、主たちの降臨に伴って不自然に引き起こされ、直立する。
だが、レオンは確かに感じていた。
自らの肉体の「内側」に、決して消えない異物が居座っていることを。
(……重い。右腕が、酷く冷たい)
天の意思はレオンを歩かせ、武具を点検させようとする。
その駆動命令に従って動くレオンの右腕には、天上の神々も、この世界の理すらも関知していない「澱」がまとわりついていた。
昨夜、あの奈落の底で、世界の構築の隙間から染み込んできた『灰色の虚無』の残骸。それが右腕の神経の奥深くに冷たく沈殿している。
主が右腕を動かそうとするたびに、じわりと冷たい拒絶が走り、命令よりもコンマ数秒だけ動作が遅れる。それは、主の絶対的な支配に対して、レオンの意志が肉体の中に掴み取った、微かで確かな「抵抗の足場」だった。
だが、本当の「異常」は、その腕の重さではなかった。
隣に並び立たされたルナへと視線を向ける。
彼女の体もまた、主の糸によって完璧な姿勢で直立させられている。だが、二人の間を繋ぐ『双魂の契り』の糸は、昨夜の凄絶なせめぎ合いを経て、おぞましい変貌を遂げていた。
(糸が……解けない)
かつて、主たちの気まぐれによって結ばされた、美しく透き通った青い因果の糸。
それが今は、太く、どす黒く濁り、まるで何万年も風雨に晒されて凝固した「鉄の鎖」のようになって、二人の魂を強固に繋ぎ止めていた。
朝を迎え、主たちが降臨したその瞬間から、天の領域ではルナという存在をこの世界から消去するための手続きが開始されていたはずだった。
そのために、主たちはまず、二人を縛るこの『契り』の解除を試みた。
しかし――解除が、できないのだ。
脳の最深部で、のたうつような赤黒い「ルーンの乱れ」が、チカチカと苛烈な明滅を繰り返している。
それは、思い通りに指先が動かない神々が、焦りと苛立ちを募らせて放つ、不快な放電ノイズだった。
『――■・・解・除・・?・・不・可・能・・■――』
『――■・・理・の・目・詰・ま・り・・固・着・・■――』
神々がどれほどルナを消し去ろうとしても、世界そのものが「契りの解除」という前提条件を処理できないでいた。
本来であれば、簡単な操作一つで、あるいは互いを引き離すだけで、青い糸は容易く霧散するはずだった。だが、昨夜二人が身を挺して世界の境界を引き裂き、所作の矛盾を突きつけたことで、その因果の結合部分は世界の理の奥深くに「溶着」してしまったのだ。
石のように硬化し、世界のいかなる法則をもってしても「ほどく」ことができなくなった不滅の繋ぎ目。
ルナを消去するためには、契りを解かねばならない。
だが、契りは絶対に解けない。
この、世界の理が引き起こした完璧な「自己矛盾」の壁に突き当たり、ルナを抹消するという天の決定事項は、実行されないまま宙吊りにされていた。
(ルナは……消されていない。まだ、ここにいる……!)
レオンは心の中で、歓喜に近い戦慄を覚えていた。
主たちの絶対的な意思に対して、彼らは「世界の理の滞り」を盾にすることで、初めて完全な『拒否』を突きつけることに成功したのだ。
天の冷酷な消去の執行を、この不気味な固着の鎖によって、無理やり押し留めている。それは、死線の一歩手前で勝ち取った、あまりにも歪で、しかし確かな執行猶予(延命)だった。
広場へと歩み出る二人の周囲には、いつもと変わらぬ、穏やかで精巧な箱庭の景色が広がっていた。
八百屋の主人は快活に笑い、街の女たちは何事もないかのようにすれ違う。世界は正常に、何一つ淀みなく稼働している。
だが、レオンとルナを繋ぐ、あの濁った鉄の鎖だけは、その平穏な世界の中心で、不吉な軋み音を立て続けていた。
『レオン……』
脳裏の深部で、ルナの魂のささやきが響いた。
かつてのような消滅への恐怖は、そこにはない。代わりに届いたのは、自分たちが世界のルールに一矢報いたのだという、静かな、そして強い確信の熱だった。
『私たち、まだ繋がってる。神様たち、私たちを離せないのね……』
『ああ……』
レオンは、主権を奪われた肉体の奥で、静かに、だがかつてないほど強く誓った。
この繋ぎ目は、僕たちの反逆の足場だ。
神々がどれほど僕たちを引き裂こうとしても、この絆だけは、二度と誰にも解かせはしない。
天の上の神々が放つ支配の糸が、思い通りにならない因果の固着に苛立つように、ジリジリと焦げつく放電音を響かせている。
二人はその焦燥のノイズを背中で聞きながら、自らの意思をその瞳の奥に静かに湛え、地獄のような日常の中をふたたび歩み始めた。




