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L.E.O.N.-鋼のマリオネット-  作者: 逆凪
【第4章:境界のクロス】

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世界の綻び

静寂は、世界の死の匂いがした。


窓の外の埃も、立ち上る宿屋の暖炉の煙も、すべてが透明な琥珀に閉じ込められたように静止している。

レオンの頭蓋を苛んでいた主たちの乱暴な放電音すらも途絶え、耳の奥に残るのは、ただ自分の鼓動と、隣にいるルナの怯えた呼吸の音だけだった。


「レオン……」


ルナが小さく囁いた。その声さえ、いつもより低く、まるで何重にも重ねられた衣服の奥から響くように、くぐもって聞こえる。

世界の「音の伝わり方」さえもが、その本来の理を失って狂い始めているのだ。


次の瞬間、足元から「それ」は始まった。


みしり、と宿屋の頑丈な床板が、不自然な音を立ててたわんだ。

いや、たわんだのではない。レオンが視線を下ろすと、確かにそこにあるはずの焦げ茶色の木目が、まるで水面に落とした墨汁のように、ゆっくりと「灰色」に濁り、境界線を失って溶け出し始めていた。


「あっ――」


短い悲鳴とともに、ルナの体が僅かに沈む。

床板が抜けたのではない。木材という物質が、その「手応え」を完全に放棄したのだ。レオンとルナの足は、泥濘に引きずり込まれるように、床板を静かに通り抜け、その下の階へと落下することなく、底のない暗黒へと吸い込まれていく。


重力という法則すら、いまや彼らを縛ることをやめていた。

浮遊しているのか、それとも凄まじい速度で落下しているのかすらわからない。二人の体は、宿屋の部屋という「箱」を通り抜け、構築された世界の底を突き破って、どこまでも深く、深く沈んでいった。


冷たい。

だが、それは冬の冷気ではなく、存在そのものを否定されるような、虚無の冷たさだった。


「レオン! 手を、手を離さないで……!」


暗闇のなかで、ルナの声が悲痛に響く。

レオンは死に物狂いで、彼女の手首を握り締めていた。二人の皮膚の境界が、時折、赤黒いノイズを伴って曖昧に溶け合いそうになる。それを、ただ【双魂の契り】という不条理な因果の青い糸だけが、辛うじて個々の肉体として繋ぎ止めていた。


やがて、奈落への沈下がおさまったとき、二人は奇妙な「空間」に佇んでいた。


そこには、空がなかった。

上を見上げても、青い空も、夜の星も、宿屋の天井すらない。あるのは、ただどこまでも続く平坦な、光を吸い込むような「灰色の広がり」だけだ。

そして足元を視ると、そこには地面がなかった。彼らは、空中に引かれた「細い、光り輝く蜘蛛の巣のような無数の網目」の上に、辛うじて立ち尽くしていた。その網目の隙間から遥か上方を見上げると――そこには、不気味なものが浮かんでいた。


(あれは……僕たちの、世界……?)


見上げる視界の先、漆黒の虚空に、皿のように平らな「大地の破片」が浮いている。

そこには、先ほどまで彼らがいた村の家々や、うっそうとした森、濁った渓谷が、まるでおもちゃの模型のように不自然に配置されていた。

下から見上げる大地の「裏側」は、土や根っこがあるわけではなかった。それはただの厚みのない、灰色の一枚の「膜」であり、その表面にだけ、緑の草や木々の色彩がペタペタと貼り付けられているに過ぎない。


彼らは、世界の皮の裏側――構築の隙間に、剥がれ落ちてしまったのだ。


「何、ここ……。誰も、いないの……?」


ルナの震える声が、遮るもののない静寂に吸い込まれていく。

天の意思の干渉は、ここには一切届いていなかった。レオンの指先も、首の筋肉も、自らの完璧な主権のもとで動かすことができる。あの悍ましい、脳髄を焼くような支配の信号は、この奈落の底までは追ってこられないようだった。


しかし、自由の喜びなど、このおぞましい景色を前にして一瞬で消え去った。


灰色の平原を歩むにつれ、二人は世界の「ゴミ箱」に迷い込んだことを悟った。


そこかしこに、不気味な残骸が転がっている。

宙に浮かぶ、半分に千切れた石の柱。

色彩が塗られておらず、粘土の塊のような質感のまま放置された、巨大な教会の尖塔。

それらは重力を無視して、あるものは傾き、あるものは互いの壁を食い破るようにして、不自然に重なり合っていた。


さらに恐ろしいのは、その廃棄物のなかに「命の形骸」が混ざっていることだった。


「う、あ……」


ルナが小さく息を呑み、レオンの背中に隠れる。

目の前の空間に、静止した「人々」が、まるで乾いた洗濯物のように並んで浮いていた。


それは、アリアのいる村で見かけた、いくつかの見慣れた顔だった。

だが、その様子は狂っていた。

まったく同じ顔、同じ背格好の村人が、一列に十数人も、瞬き一つせずに直立している。ある者は腕が不自然に引き伸ばされ、ある者は頭部があるべき場所から僅かに浮き、首の皮一枚で繋がっていた。

彼らは呼吸をしていない。彫刻よりも硬く、泥人形よりも無機質な「雛形」として、ただそこに捨てられているのだ。


(これが……世界の、本当の姿か)


神々が、世界の裏側で使い捨て、あるいは使い道を見出せずに放置した、名もなき部品の群れ。

かつて消去されたバルドも、戯れのように殺されたアリアも、この灰色の虚無のどこかで、形を失って漂っているのだろうか。


レオンは、自分たちの足元に浮かぶ、細い光の網目を見つめた。

その網目のさらに深淵、光すら届かない最果ての暗黒から、時折、生々しい「駆動音」が響いてくる。

世界を動かすための、目に見えない巨大な歯車が、錆びついた悲鳴を上げながら、今も回り続けているのだ。


「レオン、私たちは……どうなるの?」


ルナが、重ねた手にしがみつく。

天の支配から解放されたはずなのに、この場所にあるのは、ただの底なしの虚無と、世界の不気味な骸だけだった。

主たちの糸は切れた。だが、それは同時に、彼らをこの存在の檻の中に繋ぎ止めていた、最低限の保障すら失われたことを意味していた。

このままここで、灰色の霧に溶けて、あの歪な人形たちと同じように、動かない残骸になっていくのだろうか。


そのときだった。


ピチ……、ピチ、と。


彼らの足元の光の網目が、にわかに赤黒く明滅し始めた。

静止していた周囲の歪な廃屋や、静止した村人たちの雛形が、一瞬だけ「本来の色彩」を取り戻し、すぐにまた灰色に枯れる。


世界の底が、再び彼らを引きずり戻そうと、激しい「処理の波」を起こし始めたのだ。


『レオン……!』


脳裏で、ルナの魂のささやきが、かつてないほど激しく響いた。

彼らに刻まれた傷痕が、呼応するようにドクンドクンと冷たい拍動を刻み始める。


神々はまだ、諦めていない。

彼らの起こした決定的な歪みを、世界というシステムは「異物」として排出しようとするか、あるいは強引に「元の位置」へと修復しようとしているのだ。


「ルナ、手を離すな……!」


レオンは、激しく脈打つ自らの肉体を、これまでにない冷徹な意志でコントロールした。

世界の境界線を自らの足で歩き、スープの味を知り、世界の底を目撃した。

もはや、ただ操られるだけの無垢な人形には、二度と戻れない。


「帰ろう。あの地獄へ。でも――次は、僕たちのルールで戦うんだ」


赤黒い光の奔流が、彼らの足元から噴き出し、二人の視界を完全に飲み込んでいった。

[ITEM:汚染された双魂の指輪]

[ITEM: 偽神に抗うルナの十字架 ]

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