世界の綻び
静寂は、世界の死の匂いがした。
窓の外の埃も、立ち上る宿屋の暖炉の煙も、すべてが透明な琥珀に閉じ込められたように静止している。
レオンの頭蓋を苛んでいた主たちの乱暴な放電音すらも途絶え、耳の奥に残るのは、ただ自分の鼓動と、隣にいるルナの怯えた呼吸の音だけだった。
「レオン……」
ルナが小さく囁いた。その声さえ、いつもより低く、まるで何重にも重ねられた衣服の奥から響くように、くぐもって聞こえる。
世界の「音の伝わり方」さえもが、その本来の理を失って狂い始めているのだ。
次の瞬間、足元から「それ」は始まった。
みしり、と宿屋の頑丈な床板が、不自然な音を立ててたわんだ。
いや、たわんだのではない。レオンが視線を下ろすと、確かにそこにあるはずの焦げ茶色の木目が、まるで水面に落とした墨汁のように、ゆっくりと「灰色」に濁り、境界線を失って溶け出し始めていた。
「あっ――」
短い悲鳴とともに、ルナの体が僅かに沈む。
床板が抜けたのではない。木材という物質が、その「手応え」を完全に放棄したのだ。レオンとルナの足は、泥濘に引きずり込まれるように、床板を静かに通り抜け、その下の階へと落下することなく、底のない暗黒へと吸い込まれていく。
重力という法則すら、いまや彼らを縛ることをやめていた。
浮遊しているのか、それとも凄まじい速度で落下しているのかすらわからない。二人の体は、宿屋の部屋という「箱」を通り抜け、構築された世界の底を突き破って、どこまでも深く、深く沈んでいった。
冷たい。
だが、それは冬の冷気ではなく、存在そのものを否定されるような、虚無の冷たさだった。
「レオン! 手を、手を離さないで……!」
暗闇のなかで、ルナの声が悲痛に響く。
レオンは死に物狂いで、彼女の手首を握り締めていた。二人の皮膚の境界が、時折、赤黒いノイズを伴って曖昧に溶け合いそうになる。それを、ただ【双魂の契り】という不条理な因果の青い糸だけが、辛うじて個々の肉体として繋ぎ止めていた。
やがて、奈落への沈下がおさまったとき、二人は奇妙な「空間」に佇んでいた。
そこには、空がなかった。
上を見上げても、青い空も、夜の星も、宿屋の天井すらない。あるのは、ただどこまでも続く平坦な、光を吸い込むような「灰色の広がり」だけだ。
そして足元を視ると、そこには地面がなかった。彼らは、空中に引かれた「細い、光り輝く蜘蛛の巣のような無数の網目」の上に、辛うじて立ち尽くしていた。その網目の隙間から遥か上方を見上げると――そこには、不気味なものが浮かんでいた。
(あれは……僕たちの、世界……?)
見上げる視界の先、漆黒の虚空に、皿のように平らな「大地の破片」が浮いている。
そこには、先ほどまで彼らがいた村の家々や、うっそうとした森、濁った渓谷が、まるでおもちゃの模型のように不自然に配置されていた。
下から見上げる大地の「裏側」は、土や根っこがあるわけではなかった。それはただの厚みのない、灰色の一枚の「膜」であり、その表面にだけ、緑の草や木々の色彩がペタペタと貼り付けられているに過ぎない。
彼らは、世界の皮の裏側――構築の隙間に、剥がれ落ちてしまったのだ。
「何、ここ……。誰も、いないの……?」
ルナの震える声が、遮るもののない静寂に吸い込まれていく。
天の意思の干渉は、ここには一切届いていなかった。レオンの指先も、首の筋肉も、自らの完璧な主権のもとで動かすことができる。あの悍ましい、脳髄を焼くような支配の信号は、この奈落の底までは追ってこられないようだった。
しかし、自由の喜びなど、このおぞましい景色を前にして一瞬で消え去った。
灰色の平原を歩むにつれ、二人は世界の「ゴミ箱」に迷い込んだことを悟った。
そこかしこに、不気味な残骸が転がっている。
宙に浮かぶ、半分に千切れた石の柱。
色彩が塗られておらず、粘土の塊のような質感のまま放置された、巨大な教会の尖塔。
それらは重力を無視して、あるものは傾き、あるものは互いの壁を食い破るようにして、不自然に重なり合っていた。
さらに恐ろしいのは、その廃棄物のなかに「命の形骸」が混ざっていることだった。
「う、あ……」
ルナが小さく息を呑み、レオンの背中に隠れる。
目の前の空間に、静止した「人々」が、まるで乾いた洗濯物のように並んで浮いていた。
それは、アリアのいる村で見かけた、いくつかの見慣れた顔だった。
だが、その様子は狂っていた。
まったく同じ顔、同じ背格好の村人が、一列に十数人も、瞬き一つせずに直立している。ある者は腕が不自然に引き伸ばされ、ある者は頭部があるべき場所から僅かに浮き、首の皮一枚で繋がっていた。
彼らは呼吸をしていない。彫刻よりも硬く、泥人形よりも無機質な「雛形」として、ただそこに捨てられているのだ。
(これが……世界の、本当の姿か)
神々が、世界の裏側で使い捨て、あるいは使い道を見出せずに放置した、名もなき部品の群れ。
かつて消去されたバルドも、戯れのように殺されたアリアも、この灰色の虚無のどこかで、形を失って漂っているのだろうか。
レオンは、自分たちの足元に浮かぶ、細い光の網目を見つめた。
その網目のさらに深淵、光すら届かない最果ての暗黒から、時折、生々しい「駆動音」が響いてくる。
世界を動かすための、目に見えない巨大な歯車が、錆びついた悲鳴を上げながら、今も回り続けているのだ。
「レオン、私たちは……どうなるの?」
ルナが、重ねた手にしがみつく。
天の支配から解放されたはずなのに、この場所にあるのは、ただの底なしの虚無と、世界の不気味な骸だけだった。
主たちの糸は切れた。だが、それは同時に、彼らをこの存在の檻の中に繋ぎ止めていた、最低限の保障すら失われたことを意味していた。
このままここで、灰色の霧に溶けて、あの歪な人形たちと同じように、動かない残骸になっていくのだろうか。
そのときだった。
ピチ……、ピチ、と。
彼らの足元の光の網目が、にわかに赤黒く明滅し始めた。
静止していた周囲の歪な廃屋や、静止した村人たちの雛形が、一瞬だけ「本来の色彩」を取り戻し、すぐにまた灰色に枯れる。
世界の底が、再び彼らを引きずり戻そうと、激しい「処理の波」を起こし始めたのだ。
『レオン……!』
脳裏で、ルナの魂のささやきが、かつてないほど激しく響いた。
彼らに刻まれた傷痕が、呼応するようにドクンドクンと冷たい拍動を刻み始める。
神々はまだ、諦めていない。
彼らの起こした決定的な歪みを、世界というシステムは「異物」として排出しようとするか、あるいは強引に「元の位置」へと修復しようとしているのだ。
「ルナ、手を離すな……!」
レオンは、激しく脈打つ自らの肉体を、これまでにない冷徹な意志でコントロールした。
世界の境界線を自らの足で歩き、スープの味を知り、世界の底を目撃した。
もはや、ただ操られるだけの無垢な人形には、二度と戻れない。
「帰ろう。あの地獄へ。でも――次は、僕たちのルールで戦うんだ」
赤黒い光の奔流が、彼らの足元から噴き出し、二人の視界を完全に飲み込んでいった。
[ITEM:汚染された双魂の指輪]
[ITEM: 偽神に抗うルナの十字架 ]




