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勇者に勝ちたいだけなのに、魔王の剣が闇堕ちした宿敵ムーブを強要してくるせいで周りが曇り始めた。  作者: 黒雪ゆきは


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006 勇者と少年。

「……ユリ……ス?」


 アリアの視線は、俺の顔ではなく右手に向いている。

 当然だった。そこには、魔王の剣がある。中央広場の魔王像の足元に、ずっと突き立てられていたはずの黒い剣。誰も本物だと思っていなかった、ただの古びた飾り。入学式の時に説明され、それ以降は誰の記憶にも残らなくなった、学園の景色の一部。

 それを今、俺が握っている。

 しかも刀身には、消えかけとはいえ黒紫の靄が絡みついていた。訓練人形には大きな亀裂が走っている。俺の胸には、制服越しでもまだ熱を感じる魔王印が刻まれている。

 どう見ても、言い逃れできる状況ではなかった。


『クク……見られたな』

「……黙れ」


 思わず低く呟いた瞬間、アリアの肩が小さく震えた。


「……誰と、話してるの?」


 その声は、いつものアリアではなかった。

 俺を心配する時の柔らかい声でもない。模擬戦の後に笑う声でもない。喉の奥に恐怖を押し込めたような、細い声だった。

 俺は一瞬、言葉を失う。メルギドスの姿はアリアには見えていない。声も聞こえていない。つまり今の俺は、誰もいない場所で一人、魔王の剣を握りながら「黙れ」と呟いた男である。

 最悪だった。

 かなりまずい。


『実に良い。勇者の顔が曇っているぞ』

「ユリス……?」


 アリアの顔がさらに青ざめる。

 胃のあたりが重くなった。

 違う。今のはお前に言ったわけじゃない。そう説明すればいい。説明すればいいのだが、説明内容が終わっている。魔王の剣に宿っていた魔王メルギドスと契約した。闇の魔力を得た。ついでに勇者の宿敵ムーブを指導されることになった。

 誰が信じる。

 信じられたとしても終わりだ。


「アリア、これは……」

『言い訳するな』


 メルギドスの声が胸の奥に沈んだ。

 さっきまでの愉快そうな響きが消えている。


『勇者の前に立つのだろう。ならば、取り繕うな。隠すな。縋るな。貴様が選んだ力を、貴様のものとして見せろ』

「簡単に言うな……」

『簡単ではない。だから価値がある』


 アリアが一歩、訓練場の中へ入った。

 その動きに、俺は反射的に魔王の剣を握り直す。敵意があったわけではない。ただ、身体が勝手に動いた。

 けれどアリアは、それを見て足を止めた。蒼い瞳が揺れる。

 ああ、と思った。

 今の仕草だけで、十分だったのだ。

 俺はアリアに対して、剣を握り直した。彼女の中で、それがどう見えたのか。考えなくても分かる。


「その剣……中央広場にあった、魔王の剣だよね」


 アリアは震える声で言った。


「どうして、ユリスが持ってるの……?」


 真っ当な問いだった。俺は答えられない。答えれば、すべてが変わる。答えなくても、もう変わり始めている。


「ユリス、何があったの? その黒い魔力は……何? さっき、中央広場の方で変な気配がして、それで……」


 アリアは言葉を探すように視線を彷徨わせる。俺の右手。魔王の剣。亀裂の入った訓練人形。俺の顔。そして、また剣。


「まさか、その剣に触れたの?」

「……ああ」


 嘘はつけなかった。アリアの唇が震える。


「駄目だよ!」


 その一言は、ひどく優しかった。


「そんなの、絶対に駄目だよ! だって、それは魔王の剣なんだよ? 本物かどうか分からないって言われてたけど、でも、そんな黒い魔力が出てるなら……危ないに決まってる!」


 アリアは俺を見る。

 泣きそうな顔だった。


「ねえ、ユリス。手を離して。今すぐ」


 手を離す。その言葉に、俺の指がわずかに動いた。

 アリアは俺を助けようとしている。危険なものから遠ざけようとしている。あの日と同じだ。魔物の前に立った時と同じ。俺が傷つく前に、壊れる前に、彼女は手を伸ばしてくれる。


 優しい。

 どうしようもなく、優しい。

 だから、胸が軋んだ。だが――


「――嫌だ」


 俺の口から出た声は、自分でも驚くほど静かだった。

 アリアの目が見開かれる。


「え……」

「この剣は離さない」

「どうして……?」

「俺が選んだ」


 言った瞬間、胸の魔王印が熱を持った。メルギドスが、どこか満足げに嗤う気配がした。


「俺が、この力を選んだ」


 アリアが息を呑む。


「力って……何を言ってるの? ユリスは、そんなもの使わなくていいよ。危ないなら、私が――」

「それだ」


 声が、思ったより鋭く出た。アリアの言葉が止まる。

 俺は彼女を見た。陽光のような金髪。蒼い瞳。女神に選ばれた勇者候補。俺をずっと見てくれていた幼馴染。何度負けても笑って受け止め、傷つけば手を伸ばし、危険があれば前に立とうとする少女。

 俺にとって、一番大切な相手。

 そして、一番勝ちたい相手。


「私が守る。私が助ける。私が何とかする。……アリアはいつもそう言う」

「だって、私は――」

「分かってる。お前が俺を馬鹿にしていないことくらい分かってる。心配してくれているのも、助けようとしてくれているのも、全部分かってる」


 だから苦しい。

 そう続けることはできなかった。言葉にすれば、アリアを傷つけると分かっていたからだ。だが、もう遅かったのかもしれない。アリアの表情は、すでに揺れていた。


「なら、どうして……」

「俺は、お前に守られるために剣を振っているわけじゃない」


 訓練場に、俺の声だけが落ちる。


「お前の後ろで生きたいわけじゃない。お前に庇われて、助けられて、次も頑張ろうねって笑われるために、毎日剣を振っているわけじゃない」

「そんなつもりで言ってない!」


 アリアが初めて声を荒げた。それは、悲鳴に近かった。


「私は、ユリスに傷ついてほしくないだけだよ! ユリスが無茶して倒れるのを見たくないだけ! それの何がいけないの!?」

「悪くないさ」


 俺は即答した。アリアが固まる。


「お前は何も悪くない。だから、俺が勝手に苦しいだけだ」


 これだけは、言わなければならなかった。アリアは悪くない。アリアは俺を救った。支えてくれた。ずっと隣にいてくれた。

 悪いのは俺だ。救われたことに感謝しながら、救われたまま終わることに耐えられない俺の方だ。


『よい、その歪みを隠すな』


 メルギドスが低く呟いた。俺は魔王の剣を握る手に力を込める。


「――アリア」


 名を呼ぶと、彼女はびくりと肩を震わせた。


「俺は、お前に勝ちたい」

「……知ってるよ」

「違う。たぶん、お前が思っているよりずっと、本気でだ」


 アリアの瞳が揺れる。


「幼馴染としてじゃない。男なのに頑張ってる相手としてでもない。守るべき相手としてでもない。一人の戦士として、お前の前に立ちたい」


 その言葉だけは、すぐに出た。


「お前はまだ、俺に本気で剣を向けていない」

「それは……!」

「俺が怪我をするからか? 俺が男だからか? 俺が、お前より弱いからか?」


 アリアは答えられなかった。

 それが答えだった。

 胸の奥が痛む。けれど、目は逸らさなかった。ここで逸らせば、また全部が優しさに戻ってしまう。


 勇者と少年。

 守る者と、守られる者。

 その関係に戻ってしまう。


「俺は、このままじゃ届かない。何年剣を振っても、お前は俺を守る対象として見る。俺が倒れたら手を伸ばす。俺が危ないものに触れたら、離してって言う」

「それは、当然でしょ……!」

「ああ。当然だ。お前は間違ってない」


 だからこそ、苦しかった。


「お前が正しい限り、俺はずっと守られる側に置かれる」


 黒い剣を握る指に、力が入る。


「だから俺は、お前の正しさの外へ行く」

「ユリス……」

「守られる側から出る。勇者に救われた少年のままでは終わらない。――そのために、俺はこの力を選ぶ」


 アリアの視線が、魔王の剣へ落ちる。


「それが……その剣なの?」

「そうだ」

「魔王の力でも?」


 アリアの顔が、ひどく歪んだ。泣く寸前の顔だった。

 それを見た瞬間、胸が痛んだ。


『耐えろ、ここで目を逸らせば、貴様はまた守られる側へ戻る』


 分かっている。

 分かっているから、最悪だった。


「ユリス、お願い。そんな力、使わないで」


 アリアは一歩近づいた。


アリアは一歩近づいた。


「私、ユリスが強くなりたいのは知ってる。ずっと見てきた。ユリスがどれだけ頑張ってるかも知ってる。だから、そんな危ないものに頼らなくても――」

「今のままでは届かない」

「そんなことない!」

「あるんだ!」


 思わず、声が荒くなった。


「あるんだよ、アリア」


 その言葉で、アリアは止まった。

 俺の声が、きっと思ったよりも冷たかったからだ。


「お前は強い。これからもっと強くなる。女神の祝福を持っていて、それに甘えず努力もする。そんなお前に、俺が普通に剣を振るだけで届くと思うか?」

「私は……」

「思っていないだろ」


 アリアは唇を噛んだ。否定してほしかったのかもしれない。でも、否定されたらされたで、きっと俺は傷ついた。

 面倒くさい。

 どうしようもなく面倒くさい感情だ。

 それでも、これが俺だった。


 ――もう、偽るのはやめよう。


『そうだ。それでよい。美しくない願いから逃げるな』


 俺は息を吐いた。


「俺は、お前の光に勝つために闇を掴む」


 アリアの目が大きく見開かれる。

 その言葉は、言ってはいけないものだったのかもしれない。だが、もう戻せなかった。


「ユリス……それ、本気で言ってるの?」

「ああ」

「魔王の力だよ?」

「分かっている」

「そんなの、絶対に危ないよ! 身体がどうなるかも分からない! 心が、変わっちゃうかもしれない! もし、ユリスがユリスじゃなくなったら……」


 アリアの声が震える。


「私、どうしたらいいの……?」


 その一言が、胸を刺した。

 アリアは俺を責めていない。責めるより先に、失うことを恐れている。俺が変わることを。俺が遠くへ行くことを。俺が、自分の知らない何かになってしまうことを。その恐怖が、彼女の顔に浮かんでいた。


『今だ、突き放せ』


 メルギドスが囁く。


「……ふざけるな」

『ふざけてなどいない。今の勇者に優しくすれば、貴様は止められる。泣かれ、縋られ、手を取られれば、貴様は折れる』


 否定できなかった。


『ならば、折れぬように演じろ。宿敵とは、時に己の弱さを隠すための鎧だ』


 闇堕ちした宿敵ムーブ。

 馬鹿馬鹿しい言葉だと思っていた。けれど今だけは、その意味が少しだけ分かった。

 このまま素直に話せば、俺はきっとアリアの手を取ってしまう。大丈夫だと言ってしまう。心配するなと笑って、剣を影に沈めて、いつもの俺に戻ろうとしてしまう。

 それでは、何も変わらない。

 俺はもう、変わると決めたのだ。


「アリア」


 俺は彼女の名を呼んだ。できるだけ、静かに。


「俺はもう、お前に守られる俺じゃない」

「……ユリス」

「次に俺と剣を交える時は、本気で来い」


 アリアが息を止める。


「でないと、お前は後悔する」

『良い。実に良いぞ!』


 メルギドスの声が、腹立たしいほど嬉しそうだった。

 アリアは小さく首を振る。


「そんな言い方、しないでよ……」


 胸が痛む。

 けれど、止まらない。

 いや、止まってはいけなかった。


「──俺は、お前の敵になる」


 言った。

 言ってしまった。

 その瞬間、アリアの顔から最後の血の気が引いた。訓練場の空気が、凍ったように静まり返る。俺の中で、胃が悲鳴を上げた。


『百点だ』

「……本当に黙れ」


 俺が低く呟くと、アリアがまたびくりとする。

 最悪だ。だが、もうどうしようもない。


「敵って……何?」


 アリアの声は掠れていた。


「どういう意味……? ねえ、ユリス。そんなの、冗談だよね?」

「冗談じゃない」

「どうして……?」


 アリアは一歩近づこうとした。俺は魔王の剣をわずかに上げる。刃を向けたわけではない。ただ、距離を示しただけだ。

 だが、それだけでアリアは止まった。

 その顔を、俺は忘れないだろう。

 泣きそうで。信じたくなくて。

 それでも、目の前の現実から逃げられない顔。


『曇ったな――実に、美しい』


 メルギドスの声が、低く甘く響いた。


「黙れ……」


 今度の呟きは、ほとんど祈りだった。

 アリアが震える。


「ユリス……お願い。私、分からないよ。何があったのか、ちゃんと話して。魔王の剣のことも、その黒い魔力のことも、誰と話してるのかも。私、ユリスを助けたい」


 助けたい。

 その言葉が、最後の刃だった。

 俺は笑った。たぶん、ひどく歪な笑みだった。


「もう、助けなくていい」


 アリアの瞳が揺れる。


「俺はもう、助けられる側には戻らない」


 それだけ言って、俺は魔王の剣を下ろした。刃が黒い霧にほどけ、足元の影へ沈んでいく。黒紫の靄も、胸の熱も、完全には消えない。ただ表面だけを隠す。


 アリアはその一部始終を、呆然と見ていた。


「剣が……消えた……」

「今日は帰れ」

「ユリス」

「帰れ、アリア」


 きつい声だった。自分でも分かる。アリアの肩が震えた。


「……嫌だ」


 それでも、彼女は首を振った。


「嫌だよ。だって、このまま帰ったら、ユリスがどこかに行っちゃいそうで……」


 胸の奥が握り潰される。

 やめろ。

 そんな顔をするな。

 そんな声を出すな。


『ならば、背を向けろ』


 メルギドスが言った。


『宿敵は、別れ際にすべてを語らぬ』


 本当に最悪の助言だ……。

 俺は奥歯を噛みしめた。そして、アリアに背を向ける。


「ユリス! 待って!」


 悲鳴のような声が、背中に刺さった。足が止まりかける。

 止まるな。

 ここで振り返れば、全部終わる。

 俺は前へ進んだ。


「待って! お願い、待ってよ!」


 アリアの声が追いかけてくる。それでも、俺は振り返らなかった。第三訓練場の出口へ向かう。足元の影が、いつもより濃く伸びている。胸の魔王印が熱い。胃が痛い。喉の奥が苦しい。

 けれど、足は止めなかった。


『よくやった』

「黙れ」

『勇者の心に、確かに爪痕を残した』

「黙れ……」

『これが宿敵の第一歩だ』

「黙れって!」


 それ以上、メルギドスは何も言わなかった。ただ、愉快そうに嗤う気配だけが残る。

 背後で、アリアの声が震えていた。


「ユリス……」


 その声に応えなかった。応えられなかった。俺は第三訓練場を出る。夕陽はもう沈みかけていた。校舎の影が長く伸び、世界は赤から紫へと変わっていく。

 この日、勇者は闇を見た。

 けれど、彼女が見ていたのは魔王ではない。


 魔王の剣を握り、震えながらも前へ進もうとする、一人の少年だった――。

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