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勇者に勝ちたいだけなのに、魔王の剣が闇堕ちした宿敵ムーブを強要してくるせいで周りが曇り始めた。  作者: 黒雪ゆきは


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005 曇らせとは。

 黒紫の闇が、魔王の剣から噴き上がった。

 夕暮れの中央広場が、夜よりも濃い闇に呑まれていく。石畳の上を這う影が膨れ上がり、魔王像の足元から、黒い霧のようなものが溢れ出した。風は止まり、遠くの校舎のざわめきも消える。

 世界から音が抜け落ちたようだった。


「ぐ、っ……!」


 剣の柄を握った右手が焼ける。熱い。だが、同時に冷たい。燃えているようで、凍てつくようでもある。矛盾した感覚が腕を伝い、肩を越え、胸の奥へ突き刺さった。心臓の近くに、黒い釘を打ち込まれたような痛みが走る。

 俺は歯を食いしばった。


「メルギドス……っ、これは……!」

『耐えろ』


 半透明の骸骨魔王が、俺を見下ろしていた。巨大な角。紫の眼光。外套のように流れる黒紫の闇。その姿は薄く透けているのに、存在感だけはあまりにも重い。


『契約の刻印だ。魔王の剣と貴様を繋ぐ楔となる』

「先に言え……!」

『言ったところで痛みが消えるわけではあるまい』

「そういう問題じゃない!」


 叫んだ瞬間、胸の奥で何かが弾けた。制服の内側、心臓の近くが熱を持つ。皮膚の下で何かが這い回る。血管ではない。魔力でもない。もっと深いもの。魂そのものに黒い紋様を焼き付けられているような感覚。

 俺は膝をついた。片手は魔王の剣の柄を握ったまま、もう片方の手で胸元を掴む。呼吸が乱れる。視界が黒紫に滲む。なのに、不思議と意識ははっきりしていた。

 身体の奥底に眠っていた何かが目を開く。幼い頃から胸に沈んでいた屈辱。アリアに救われたあの日から、ずっと消えずに残っていた熱。守られる側で終わりたくないという願い。勇者に勝ちたいという執念。

 それらが、黒い炎となって形を得ていく。


『よいぞ』


 メルギドスが愉快そうに言った。


『実によい。貴様の内側には、これほど濃い闇が眠っていたか』

「人の、胸の内を……勝手に評価するな……!」

『評価せずにいられるか。勇者の光に焼かれながら、それでも消えなかった執念だ。これを面白いと言わずして何と言う』

「面白がるな……!」

『無理だな。我は魔王だ』


 胸元から、黒紫の光が漏れた。制服の布の下。心臓の近く。そこに、紋様が浮かび上がっていく。

 歪な王冠のような形だった。角にも見える。剣にも見える。翼にも見える。いくつもの意味を孕んだ黒い印が、俺の胸に刻まれていた。


 魔王印。


 なぜか、そう理解できた。これは外から押しつけられた烙印ではない。俺の中に元々あったものが、魔王の剣によって形を与えられただけだ。


「……これが、契約か」

『そうだ』


 メルギドスは満足げに頷く。


『今この瞬間より、貴様は魔王の剣の契約者となった』

「契約者、ね……」

『そして、我が育てる魔王候補だ』

「勝手に候補にするな」

『ならば、最高の魔王予定者と言い換えよう』

「悪化している」

『細かい男だ』

「お前にだけは言われたくない」


 言い返した瞬間、少しだけ痛みが引いた。

 胸の熱は残っている。だが、先ほどまでの焼き尽くされるような感覚は薄れていた。

 俺は荒い息を吐きながら、ゆっくりと立ち上がる。手の中には、魔王の剣があった。さっきまで石畳に突き立てられていたはずの剣。長い年月、誰にも気にされず、ただの飾りとしてそこにあった剣。

 それが今、当たり前のように俺の手に収まっている。

 重い。木剣とは比べものにならない。だが、不思議と持てない重さではなかった。むしろ、手に馴染む。まるで、初めから俺が握ることを待っていたかのように。

 

 そこで、ようやく我に返った。

 俺は反射的に周囲を見回す。中央広場に人影はほとんどない。だが、遠くの校舎にはまだ明かりが灯っている。寮へ向かう通路も完全に無人ではない。ここで黒紫の闇を噴き上げ、魔王の剣を握っているところを見られたら、どう考えても終わる。


「……まずいだろ、これ」

『何がだ』

「全部だ。場所も、剣も……この黒い魔力も」

『堂々としていればよい。魔王とはそういうものだ』

「俺は魔王じゃないし、ここは学園の中央広場だ!」

『だからこそ趣がある』

「趣で済むか……」


 俺は魔王の剣を見下ろした。展示物が消えた。しかも、それを俺が持っている。これだけでも大問題だ。


「この剣、元の場所に戻せるのか」

『戻す必要があるのか?』

「あるだろ」

『それは元々、我の剣だ』

「だとしても、見つかれば盗難扱いされるのは俺なんだよ……」


 メルギドスは愉快そうに嗤うだけだった。

 駄目だ。こいつはこういう現実的な問題に一切関心がない。


「隠せないのか、この剣」

『当然隠せる。契約者が望めば、影に沈められる』

「先に言え!」

『聞かれなかったのでな』

「性格が悪い」

『魔王だからな』


 俺は深く息を吐き、魔王の剣を握り直した。

 隠れろ。そう念じた瞬間、剣の輪郭が黒い霧にほどけるように揺らいだ。次の瞬間、魔王の剣は俺の足元の影へ沈んでいく。手の中から重みが消えた。まるで最初から存在しなかったかのように。


「……本当に消えた」

『正確には影に潜ませた。呼べば現れる』

「ますます怪しいな」

『魔王の剣だからな』

「……魔王って便利すぎだろ」


 俺は胸元に手を当てる。

 魔王印の熱は、静かに脈打っている。見た目には隠れている。だが、消えたわけではない。契約は、確かに俺の中に刻まれていた。


「この力で、何ができるんだ?」

『今の貴様にできることは少ない』

「おい」

『事実だ。契約した直後の未熟者が、いきなり勇者を圧倒できると思うな。そんな都合のいい力などありはしない』


 メルギドスの紫の眼光が不機嫌そうに揺れる。

 見た目だけなら死を覚悟する場面だが、妙に会話が成立してしまうせいで恐怖が薄れる。それが良いのか悪いのかは、分からない。


『だが、基礎は教えてやる』


 メルギドスが骨の指を上げた。


『闇の魔力には、いくつかの使い道がある。まずは黒装。闇を身体に纏い、肉体能力を引き上げる技術だ』

「身体強化か」

『そうだ。ただし、女神の祝福による強化とは性質が異なる。祝福が肉体を清め、導き、正しく動かす力ならば、闇は貴様の執念で身体を無理やり前へ進ませる力だ』

「……身体に悪そうだな」

『悪い』

「即答かよ……」

『代償なしに力が得られると思ったか?』

「思ってはいないが、もう少し夢を見させてくれよ」

『魔王に夢を求めるな』


 俺はため息をついた。

 だが、身体強化という方向性は分かりやすい。俺には女神の祝福がない。アリアのような圧倒的な聖なる身体能力も、クラウディアのような防護能力もない。

 そこを補えるなら、十分すぎる。


『次に、反祝福』


 メルギドスの声が少し低くなる。


『女神の祝福に干渉し、その流れを乱す力だ』

「祝福を乱す……?」

『勇者、聖女、聖騎士。奴らの力は、女神の祝福を通じて発現する。闇の魔力は、その祝福にとって異物だ。上手く扱えば、相手の聖魔法や身体強化を鈍らせることができる』

「それは……」


 強い。

 あまりにも強い。

 アリアの祝福に干渉できるなら、勝機が生まれるかもしれない。そう思った瞬間、メルギドスが釘を刺すように言った。


『勘違いするな。今の貴様では、勇者の祝福には触れることすらできん』

「……だろうな」

『だが、いずれ届く』


 その一言で、胸が熱くなった。

 いずれ届く。今は無理でも。今は触れることすらできなくても。道はある。それだけで、剣を振る理由になる。


『そして最後に、畏怖だ』

「畏怖?」

『魔王は、ただ強いだけでは足りん。恐れられ、記憶され、心に傷を残す存在でなければならん』

「また傷を残す話か」

『当然だ。勇者の魂に傷を残せぬ魔王など、ただの強い不審者だ』

「……強い不審者」

『貴様がそうなりたくなければ、我の指導を受けよ』


 メルギドスは構わず続ける。


『闇の魔力は、畏怖によって増幅する。敵が恐れれば恐れるほど、貴様の存在は濃くなる。貴様が勇者の宿敵として認識されればされるほど、魔王印は育つ』

「つまり、人に怖がられろと?」

『端的に言えばそうだ』

「嫌すぎる……」

『だが必要だ』


 メルギドスの声には、やけに確信があった。


『貴様が目指すのは、ただの強者ではない。勇者アリア・ルミナスの前に立つ宿敵だ。勇者の光が人々に希望を与えるなら、貴様の闇はその希望に影を落とさねばならん』


 俺は頭を抱えたくなった。力の方向性は理解できる。身体強化。祝福への干渉。畏怖による増幅。どれも、勇者に届くためには必要なものなのかもしれない。

 だが、その先にあるものが問題だった。

 俺はアリアに勝ちたい。アリアに本気で見られたい。けれど、アリアを傷つけたいわけではない。泣かせたいわけでもない。ましてや、彼女の光に影を落としたいわけでもない。


『それを甘いと言っている』

「読むな」

『読まずとも分かる。貴様は顔に出る』

「顔に出ていない」

『出ている。勇者を傷つける想像をして、胃が痛くなっている顔だ』

「……なんで分かった」


 否定したかった。

 だが、実際に胃のあたりが重くなっているのは事実だった。

 メルギドスは愉快そうに眼窩の炎を揺らす。


『──曇らせとは、実に美しいものだ』


 耳を疑った。

 あまりに突拍子がないことであったために、まったくもって理解が追いつかなかった。


「……今、なんて言った?」

『聞こえなかったか。曇らせとは、美しいものだと言った』

「最低の発言を荘厳な声で言うなよ……」


 魔王が低く嗤った。

 

『ククク……人の魂が最も鮮烈に輝くのは、幸福の中ではない。信じていたものが揺らぎ、大切なものに傷つけられ、それでもなお手を伸ばさずにはいられない時だ』


 メルギドスは、まるで聖典を読み上げる司祭のように言った。

 その内容は、聖典とは程遠いものだったが。


『勇者が勇者であるためには、光だけでは足りん。迷い、痛み、後悔、執着。それらを抱えてなお剣を取るからこそ、勇者は美しい』

「それを魔王が言うなよ」

『魔王だからこそ言うのだ。勇者の光に影を落とす者。それが魔王だ』


 紫の炎が、愉快そうに細まる。


『貴様が勇者の前に立てば、アリア・ルミナスは曇るだろう。なぜ、と問う。どうして、と縋る。救いたいと願いながら、剣を向けねばならなくなる』

「……悪趣味だ」

『ああ、悪趣味だとも』


 メルギドスは否定しなかった。


『だが、美しい。幼馴染が宿敵となり、守るべき男が魔王となる。勇者の魂に刻まれる傷として、これ以上のものがあるか?』

「俺はアリアを傷つけたいわけじゃないんだが……」

『知っている。だから良いのだ』

「いや良くないだろ!」

『傷つけたい者が傷つけるのは、ただの加害だ。傷つけたくない者が、それでも己の願いを貫くからこそ、物語になる』


 その言葉に、俺は何も返せなかった。こいつは最低だ。間違いなく、最悪の魔王だ。けれど、俺の中にある矛盾を、誰よりも正確に見抜いている。


『ユリス。貴様はアリアを大切に思っている。だが、彼女に勝ちたい。傷つけたくない。だが、本気で見てほしい。守られたくない。だが、彼女に救われたことを否定したくない』

「……」

『その矛盾ごと抱えろ』


 胸の魔王印が、熱を持つ。


『魔王とは、醜い願いから逃げぬ者だ』


 その言葉は重かった。いつもの面倒くさい魔王美学ではない。冗談でもない。メルギドスは、本気で俺にそう言っていた。

 俺は胸元を押さえた。魔王印の熱は消えない。この印は、俺の中の矛盾を焼き固めたものなのかもしれない。


「契約の条件を確認する」

『よかろう』


 メルギドスは少し満足げに頷いた。


「俺は勇者の前に立つ」

『そうだ』

「自分の欲望を偽らない」

『そうだ』

「畏怖される存在になる」

『そうだ』

「闇堕ちした宿敵ムーブを果たす」

『最重要だ』

「……やっぱりそこだけ軽い」

『何よりも重い』


 俺はため息をついた。


「具体的には何をさせる気だ」

『まず、台詞だ』

「台詞?」

『勇者と対峙した際、第一声が重要となる。そこで印象の八割が決まる』

「……面接か?」

『似たようなものだ』

「似ていないだろ!」


 頭が痛くなってきた。

 

『たとえば、久しぶりだな、アリア、などと決して言う出ないぞ』

「え、なんで? 普通に言いそうなんだが……」

『駄目だ。幼馴染感が出すぎている。宿敵としては落第点だ』

「落第するのか……宿敵」

『する。厳しい世界だ』

「知らなかった」


 メルギドスは威厳たっぷりに続ける。


『良いか。再会時は、まず沈黙だ』

「沈黙……」

『三秒だ。短すぎれば軽い。長すぎれば気まずい。三秒沈黙し、勇者の目を見ろ』

「めんどくさ過ぎる……」


 想像してしまった。

 久しぶりに再会したアリアの前で、何も言わずに三秒間見つめる俺。

 ……駄目だ。宿敵以前に、ただの様子のおかしい幼馴染だ。


『その後に言え。勇者よ、随分と遅かったな――と』

「言いたくない」

『言え』

「絶対に嫌だ!」

『毎回、我が採点する』

「採点!?」

『採点は必要だ。成長には評価が伴う』


 その言い方に、妙な既視感があった。

 冷静に観察し、分類し、評価し、改善点を並べてくる知り合いが一人いる。


「エルネアみたいなことを言うな」


 思わず名前を出した瞬間、メルギドスの眼窩に宿る光がわずかに細まった。


『エルネア。賢者科の小娘か』

「……お前、本当に見ていたんだな」

『断片的にな。貴様を観測し、分類し、理解したつもりになっている娘だろう』

「言い方が悪い」

『だが、間違ってはいまい』


 否定しようとして、言葉に詰まった。


 エルネアは、俺をよく見ている。

 俺の癖も、戦い方も、無理をする瞬間も、たぶん俺自身より冷静に把握している。


 けれど、それをメルギドスの口から言われると、妙に嫌な感じがした。


『面白い娘だ。理性で感情を囲っている。ああいう者ほど、一度崩れるとよく曇る』

「曇らせるなよ……」

『我が曇らせずとも、貴様が隠し事をすれば勝手に曇る』

「やめろ……妙に現実的なことを言うな」

 

 胃が痛くなってきた。

 契約したばかりなのに、既に後悔の気配がある。だが、胸の奥では闇の魔力が脈打っている。この力を手放せるかと問われれば、答えは否だった。


『さて、まずは黒装の初歩だ』


 メルギドスが告げる。


『右腕に闇を纏え』

「……ここでか?」

『何か問題があるか』

「あるに決まっているだろ!」


 俺はもう一度、周囲を見回した。

 中央広場に人影はない。だが、ここは学園の中心だ。誰かが通りかかる可能性は十分ある。今でさえ、俺の胸には魔王印が刻まれている。これ以上、広場で妙なことをするのは危険すぎる。


「第三訓練場へ戻る」

『怖じ気づいたか』

「違う。目立ちすぎる」

『ほう』


 メルギドスの眼窩が、わずかに愉快そうに細まった。


『衝動だけで動く馬鹿ではないか』


 こいつがやらせようとしたくせに、なんでこんな偉そうなんだ……。

 俺は胸元を押さえ、中央広場を離れた。第三訓練場へ戻る道のりは、妙に長く感じた。誰かとすれ違うたび、心臓が跳ねる。今の俺は普通に見えているのか。闇の魔力は漏れていないか。胸の魔王印は見えていないか。足元の影から、魔王の剣が勝手に顔を出したりしないか。

 いちいち気にしてしまう。


『挙動が怪しいぞ』

「誰のせいだと思っている!」

『我か?』

「そうだよ」

『魔王とは、人心を乱すものだからな』

「開き直るな」


 俺は誰にも見つからないよう、なるべく人通りの少ない通路を選んだ。第三訓練場に着く頃には、空はすっかり紫がかっていた。

 訓練場には誰もいない。さっきまで俺が使っていた木剣が、壁際に立てかけられている。傷だらけの訓練人形も、いつもの場所に並んでいた。ここなら試せる。少なくとも、中央広場よりはずっとましだ。


『では、改めて始めるぞ』


 メルギドスが告げる。


『右腕に闇を纏え』

「どうやって」

『願え』

「……雑だな」

『最初はそれでよい。勇者に勝ちたいと願え。その願いを右腕へ流し込め』


 俺は眉をひそめる。だが、やるしかない。胸の魔王印を意識する。そこにある熱。黒い炎。アリアに勝ちたいという願い。守られる側で終わりたくないという執念。それを右腕へ流す。

 すると、指先が熱を持った。黒紫の靄が手首に絡みつき、腕を覆っていく。手袋の上に闇が薄く纏わり、まるで影でできた籠手のような形を作った。


「……これが黒装」

『初歩の初歩だ。出力は低い。持続も短い。だが、悪くない』


 俺は右手を握る。力が入る。普段よりも、明らかに強い。身体が軽いわけではない。むしろ、腕だけが異様に重い。だが、その重さを力で押し切れる感覚があった。


「魔王の剣は、呼べるのか」

『呼べ』

「本当に雑だな」

『最初はそれでよいと言っている』


 俺は足元の影を見る。呼べ。そう念じた瞬間、影が揺れた。黒い霧が立ち上り、俺の右手に重みが戻る。次の瞬間、魔王の剣が手の中に現れていた。

 黒紫の靄が、右腕から剣へと絡みついていく。ただ握っているだけで、心臓が脈打つ。木剣とは違う。これは、ただの武器ではない。俺の中の闇と繋がっている。


「……試す」

『よい』


 俺は訓練人形の前に立った。傷だらけの木製人形。戦技科の生徒たちが何度も打ち込み、何度も修復されたものだ。魔王の剣を大きく振るつもりはなかった。今の俺に扱いきれる重さではないし、下手をすれば人形どころか床まで壊しかねない。

 だから、刃を軽く当てる。ただ、闇を流す感覚を確かめるだけ。

 そう思って軽く振り、剣先を訓練人形の胴に触れさせた。次の瞬間、黒紫の余波が走った。乾いた音が響く。訓練人形の胴体に、大きな亀裂が入った。


「……っ」


 思わず息を呑む。ただ、軽く振っただけ。それなのに、亀裂が走った。今の一撃は、俺の通常の力では絶対に出せない。だが、魔王の剣だけの力とも違う。俺の腕。俺の願い。そこに、闇の魔力と魔王の剣が重なった。

 つまり、この力は俺の技術を殺していない。

 上乗せしている。

 それが分かった瞬間、胸が震えた。これなら。これなら、届くかもしれない。


『よい顔だ』


 メルギドスが言った。


『初めて道を見た者の顔だ』

「……ああ」


 俺は自分の右腕と、手の中の魔王の剣を見る。黒紫の靄はすぐに薄れ、霧のように消えていった。

 一気に疲労が押し寄せる。


「ぐ、っ……」


 膝をつきかけた。


『今の貴様では数秒が限界だな』

「燃費が悪すぎる」

『貴様が未熟なだけだ』

「厳しいな……」

『甘やかしてほしいのか?』

「いや」

『ならば鍛えろ』


 メルギドスの言葉は単純だった。

 だが、今の俺にはそれが一番響いた。鍛えればいい。この力も、剣と同じだ。ただ手に入れて終わりではない。扱えるように鍛えればいい。今までと何も変わらない。

 ただ、進む道が増えただけだ。


『ただし、今日の訓練は終わりだ』

「まだいける」

『いけん、愚か者』


 逆らえない迫力があった。

 俺は深く息を吐いた。身体は重い。だが、心は妙に軽かった。初めて、先が見えた気がした。届かないと分かっている壁に、ただ木剣を叩きつけているだけではない。

 この闇を鍛えれば。この魔王印を育てれば。この剣を扱えるようになれば。いつか、アリアの前に立てる。本気で剣を向けさせることができる。


『ユリス』

「何だ」

『一つ忠告しておく』


 メルギドスの声が低くなる。


『この力は隠せ』

「……なぜだ?」

『今の貴様では、説明できまい。学園で、戦技科の男が黒紫の闇を纏った。しかも魔王の剣の契約者になっている。どう見ても面倒なことになる』

「それはそうだな」

『まあ、勇者には見せるのも一興だがな』

「……アリアに?」

『今見せれば、確実に曇る』

「だから曇らせる前提で話すな」

『事実だ。あの娘は貴様を守る対象として見ている。そんな貴様の中から闇が溢れたら、何を思うだろうな……クク』


 想像してしまった。アリアの顔が青ざめる。何その魔力、と震える声で問う。俺に手を伸ばしかけ、けれど闇に怯えて止まる。胸が痛んだ。


「……隠せるんだよな」

『意識すればな。魔王印も剣も沈められる』

「なら、しばらくは隠す」

『しばらく、か』


 メルギドスが含みのある声で言う。


「何だ」

『いずれ見せる日が来る』

「……」

『その時こそ、最初の闇堕ちした宿敵ムーブだ』

「胃が痛くなるから黙ってくれ……」

『胃痛もまた宿敵の資質』

「絶対に違う!」


 そう言いながらも、俺は胸元に手を当てた。魔王印の熱は、静かに脈打っている。隠せる。だが、消えたわけではない。

 俺はもう、契約してしまった。

 メルギドス・ノクスヴェルト。かつて魔王と呼ばれた存在。その魂の残滓が宿る魔王の剣と繋がり、闇の魔力を得た。

 これは後戻りできない道だ。

 けれど、後悔はなかった。後悔できるほど、俺の願いは軽くない。


「メルギドス」

『何だ』

「俺はアリアに勝つ」

『知っている』

「そのために、お前の力を使う」

『よかろう』

「だが、俺は俺のままだ。お前の言いなりにはならない」

『構わん。むしろ、その方がよい』


 メルギドスは楽しげに嗤った。


『我が見たいのは、我の模倣品ではない。ユリス・アステルという男が、自らの意思で勇者の前に立つ姿だ』


 その言葉に、俺は少しだけ目を細める。こいつは危険だ。間違いなく危険だ。だが、少なくとも一点だけは信じられる。

 メルギドスは、俺がアリアに勝ちたいという願いを、決して笑わない。

 それだけで、今は十分だった。

 夕陽は沈みかけている。第三訓練場の影が濃くなり、白亜の校舎は赤から紫へと色を変えていた。俺は亀裂の入った訓練人形を見つめる。

 たった一度、触れただけ。けれど、それは確かに、昨日までの俺には出せなかったものだった。

 胸の奥で、黒い炎が静かに燃えている。


『さて、ユリス』

「何だ?」

『明日から本格的な訓練を始める』


 その言葉に、剣を握る手へ力が入った。

 いよいよ、闇の魔力の扱いを学ぶのだろう。

 怖くないと言えば嘘になる。

 だが、今のままではアリアの前に立てない。


「闇の魔力の訓練か……?」

『それもある』

「他に何かあるのか?」

『まずは高笑いだ』

「……は?」


 思考が止まった。


『魔王の高笑いは腹から出せ。喉だけで笑えば小物になる』

「絶対にやらない」

『勇者の心に爪痕を残すためだ』

「近所迷惑だ!」

『魔王が近所迷惑を気にするな』


 やはり、とんでもないものと契約してしまったのかもしれない。俺は深く、深くため息をついた。だが、その口元は少しだけ緩んでいた。

 

 力を得た。

 道を得た。

 そして、面倒くさい魔王を得た。


 俺は夕暮れの第三訓練場で、胸に刻まれた魔王印を押さえる。黒い熱が、静かに脈打っていた。

 この日、俺は初めて闇を手にした。

 勇者に届くための、俺だけの力を。

 右手には、まだ魔王の剣の重みが残っている。刀身には、消えかけの黒紫の靄が絡みついていた。


「……ユリ……ス?」


 その時、背後から震えた声がした。

 心臓が跳ね、息が止まる。

 ゆっくりと振り返る。


 ――第三訓練場の入口にアリアが立っていた。


 夕陽を背にした彼女の金髪が、淡く光を帯びている。

 しかし、その顔からは血の気が引いていた。


『クク……見られたな』


 メルギドスの愉快そうな低い嗤い声が、俺の中で響いた──。

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