007 歪。
「ユリス!」
私の声は、第三訓練場に虚しく響いた。
けれど、ユリスは振り返らなかった。
深紺の制服の背中が、夕暮れの影に溶けていく。やがてその姿は訓練場の出口を越え、校舎へ続く通路の奥へ消えた。追いかけようと思った。足を動かせばいいだけだった。いつものように手を伸ばし、いつものように名前を呼び、いつものように止めればよかった。
だが、私の足は動かなかった。
動けなかった。
脳裏に焼きついていたのは、ユリスの右手に握られていた黒い剣。
中央広場に立つ魔王像。その足元に、ただの記念物のように突き立てられていたはずの古びた飾り。誰も本物だとは思っていなかった。誰も気にしていなかった。入学式の日に一度だけ説明され、それきり学園の景色に紛れていた、魔王の剣。
その剣が、ユリスの手にあった。
刀身には黒紫の靄が絡みつき、彼の周囲には女神の祝福とはまるで違う、冷たく濁った気配が漂っていた。聖なる光とは正反対のもの。浄化ではなく、侵食。救済ではなく、拒絶。私の本能が、あれは危険だと叫んでいた。
けれど、私が本当に怖かったのは、魔王の剣ではなかった。
ユリスが、私の手を拒んだことだった。
「……どうして」
ぽつりと零れた声は、自分でも驚くほど頼りなかった。
第三訓練場には、もう誰もいない。石畳の上に夕陽が長く伸び、壁際には使い古された木剣が並んでいる。亀裂の入った訓練人形は、戦技科の生徒たちに何度も打ち込まれ、何度も修復されてきたものだ。だが今、その胴には、これまで見たことがないほど深い裂傷が刻まれていた。
私はゆっくりと近づく。
訓練人形の亀裂に触れようとして、途中で手を止めた。
そこには、まだ黒紫の気配が残っている気がした。
触れてはいけない。
そう思った瞬間、胸の奥が冷たくなる。
それは、ユリスが選んだ力だった。
「俺は、お前の光に勝つために闇を掴む」
彼は、確かにそう言った。
私は唇を噛む。喉の奥が熱くなった。泣きたいのに、涙は出ない。まだ、現実だと認めたくなかったのかもしれない。
ユリスが魔王の剣を握っていた。
ユリスが黒い魔力を纏っていた。
ユリスが、私の敵になると言った。
そんなもの、悪い夢に決まっている。
だって、ユリスはユリスだ。何度負けても立ち上がる。悔しそうに叫ぶ。もう一本だと言って木剣を握る。無茶をして、怪我をして、リーナに怒られて、エルネアに観察されて、クラウディアに注意されて、それでも翌朝にはまた訓練場にいる。
そんな少年だった。
私がずっと見てきた、誰よりも諦めの悪い幼馴染だった。
魔王ではない。
魔王のはずがない。
「……敵って、何」
言葉にした途端、胸が痛んだ。
ユリスの声が蘇る。静かで、固くて、どこか震えていた声。
「俺は、お前の敵になる」
あんなユリスを、私は知らなかった。
いや、違う。
知らなかったのではない。
見ていなかったのだ。
私は訓練人形の前に立ったまま、ぎゅっと拳を握る。彼が毎日どれだけ剣を振っていたかは知っている。何度負けても挑んできたことも知っている。怪我を隠して立ち上がろうとしたことも、負けた直後に悔しそうに歯を食いしばっていたことも、全部見ていた。
見ていたはずだった。
けれど、ユリスが何に傷ついていたのかは、見えていなかった。
「私は……」
ユリスが転べば手を差し出した。怪我をすればリーナのところへ連れていった。無茶をしようとすれば止めた。危ないことをすれば叱った。
全部、当たり前だと思っていた。
大切な幼馴染だから。
傷ついてほしくなかったから。
守りたかったから。
でも、ユリスは言った。
守られるために剣を振っているわけじゃない、と。
その言葉が、胸を刺す。
私はゆっくりと視線を落とした。自分の手を見る。細い指。剣を握り、光を纏い、魔物を斬る手。あの日、魔物の前でユリスを救った手。
あの日から、この手はユリスを守るためのものだと思っていた。
けれど、ユリスにとっては違ったのかもしれない。
救いは、時に傷になる。
そんなこと、考えたこともなかった。
「そんなつもりじゃ、なかったのに……」
誰に言うでもなく呟く。返事はない。第三訓練場は静まり返っている。少し前までここにいたユリスの気配だけが、まだ消えずに残っているような気がした。
そこで初めて、私は自分が震えていることに気づいた。
怖かった。
魔王の剣が怖かった。黒い魔力が怖かった。ユリスが誰かと話しているように見えたことも怖かった。
けれど、それ以上に怖かったのは、ユリスが私の知らない場所へ行こうとしていることだった。
手を伸ばしても届かない場所へ。
守ることを許されない場所へ。
勇者の光では照らせない、暗い場所へ。
「ユリス……」
名前を呼んでも、彼は戻らない。
私は訓練場の出口を見る。追いかけるべきだと思った。今ならまだ間に合うかもしれない。寮へ向かう道を走れば、彼に追いつけるかもしれない。きちんと話して、魔王の剣を手放してもらって、明日の朝にはまた第一訓練場で模擬戦をすればいい。
いつものように。
けれど、その「いつものように」が、もう戻らないのだと分かっていた。
ユリスは選んだ。
私の手ではなく、魔王の剣を。
光ではなく、闇を。
守られることではなく、敵になることを。
敵。
その言葉を胸の中で繰り返すたび、喉が締めつけられる。
ユリスに拒まれたのだと思った。
もう隣には立たないと、そう告げられたのだと思った。
もう守られない。もう助けを求めない。もう幼馴染として、私の手の届く場所にはいてくれない。
そう思った。
けれど。
敵とは、向かい合う相手のことでもある。
ユリスは、まだ私を見ていた。
私に勝つために。
私の光へ届くために。
私を越えるために。
その事実に、ほんの一瞬だけ――胸の奥が、甘く疼いた。
「……最低だ、私」
私は自分の胸を押さえた。
今、何を思った。
ユリスは苦しんでいた。闇を掴んだ。魔王の剣を手にした。私の手を拒み、敵になると告げた。
それなのに。
ユリスがまだ私を見ていることに、安心した。
ユリスの剣の先に、まだ私がいることに救われてしまった。
そんなもの、心配でも優しさでもない。
もっと醜い何かだった。
私は奥歯を噛みしめる。胸の奥に生まれた小さな熱を、必死に押し殺そうとした。けれど、一度気づいてしまったものは消えない。
ユリスが遠くへ行ってしまうことは怖かった。
けれど。
ユリスの剣の先に私がいなくなることは、もっと怖かった。
「……私、どうしたらいいの」
答えはなかった。
勇者候補としてなら、答えは簡単だった。魔王の剣は危険だ。報告すべきだ。教官に伝え、学園側に対応を求めるべきだ。黒い魔力を纏った戦技科の男子生徒が、魔王の剣を手にしていた。どう考えても異常事態だった。
けれど、報告すればどうなる。
ユリスは拘束されるかもしれない。魔王の力に取り込まれたと判断されるかもしれない。危険人物として扱われるかもしれない。彼がどれほど真剣に、どれほど苦しみながらその力を選んだのか、誰も聞いてくれないかもしれない。
それは嫌だった。
でも、黙っていればユリスが危ないかもしれない。
どちらを選んでも、ユリスを傷つける気がした。
「勇者なのに……」
私は自嘲するように呟いた。
勇者の祝福を持っている。魔物を討つ光を持っている。誰かを守るための力を、女神から授かった。周囲は私を期待の勇者候補と呼ぶ。人々の希望だと、聖なる剣だと言う。
けれど今、たった一人の少年をどう救えばいいのかも分からない。
いや。
救えばいいのかどうかすら、分からない。
ユリスは言った。
「助けなくていい」
その言葉が、胸の奥に深く沈んでいる。
私は第三訓練場を出た。夕陽はもう沈みかけていた。校舎の影が長く伸び、白亜の壁は赤から紫へと色を変えている。寮へ戻る生徒たちの声が遠くに聞こえた。そのどれもが、ひどく遠い世界の音のようだった。
中央広場へ向かう道を、私は歩いた。
さっきユリスが通ったかもしれない道。
魔王の剣を携え、胸に黒い刻印を抱えたまま歩いたかもしれない道。
彼は今、どんな顔をしているのだろう。
苦しんでいるのだろうか。
後悔しているのだろうか。
それとも、もう前だけを見ているのだろうか。
分からない。
ユリスのことなら分かると思っていた。
ずっと隣にいたから。
小さい頃から知っていたから。
誰よりも彼を見ていたつもりだったから。
でも、その隣で、彼がどれほど私を見上げていたのか。
その視線が、憧れだけではなかったことに。
私は、気づけなかった。
中央広場に着くと、私は足を止めた。魔王像はいつもと同じように、沈黙して立っている。夕闇の中、その姿は昼間よりもずっと重く見えた。
そして、像の足元。
そこにあるはずの黒い剣は、なかった。
「……本当に」
本当に、なくなっている。
その事実を見た瞬間、膝から力が抜けそうになった。噂でも夢でもない。幻覚でもない。ユリスは本当に魔王の剣を手にした。あの黒い剣は、本当に彼のものになった。
私は像の足元に近づく。剣が突き立てられていた場所には、古い傷跡のような窪みだけが残っていた。長い年月、そこに剣があったことを示す痕跡。けれど、今は空っぽだ。
まるで、何かが抜け落ちたようだった。
学園の中心から。
そして、私の日常から。
「どうして……」
また同じ言葉が零れる。
どうして、ユリスはあの剣を選んだのか。
どうして、私に相談してくれなかったのか。
どうして、敵になるなんて言ったのか。
問いは増えていくのに、答えだけは一つの場所へ戻っていく。
私が、ユリスを守ろうとしたから。
彼を一人の戦士ではなく、守るべき幼馴染として見ていたから。
私は胸元を押さえた。勇者の祝福が、そこにある。温かく、澄んだ光。幼い日、魔物からユリスを救った力。私にとって誇りだった。ユリスが生きていてくれた証でもあった。
けれど、ユリスにとっては。
その光は、何だったのだろう。
救いだったのか。
屈辱だったのか。
それとも、その両方だったのか。
私は答えを出せなかった。
その夜、私は眠れなかった。
女子寮の自室。白い壁。整えられた机。明日の講義で使う教本。いつもなら寝る前に軽く確認する剣術理論の本も、今日は開く気になれなかった。
ベッドに腰掛けたまま、私は何度も手を見つめる。
ユリスに伸ばした手。
拒まれた手。
あの日、魔物の前で光の剣を握った手。
ユリスを救った手。
魔王の剣を離して、と言った。
危ないからやめて、と言った。
私が何とかする、と言いかけた。
それは本当に、ユリスのためだったのか。
それとも、自分が安心したかっただけなのか。
「違う……」
小さく呟く。
違うはずだった。
ユリスを守りたかった。傷ついてほしくなかった。彼が血を流すたび、心臓が掴まれるようだった。彼が無茶をするたび、怖かった。
だから止めた。
それは嘘ではない。
でも、ユリスは言った。
お前はまだ、俺に本気で剣を向けていない。
私は唇を噛む。
否定できなかった。
模擬戦の時、私はいつも加減していた。怪我をさせないように。次も立ち上がれるように。ユリスの心が折れないように。手首を打てる場面で外した。喉元を突ける場面で止めた。足を払えば終わる場面で、あえて受けた。
それを優しさだと思っていた。
けれど、ユリスは気づいていた。
ずっと。
ずっと、気づいていた。
ユリスが欲しかったのは、優しさではなかった。
勇者アリアが本気で振るう剣。
自分を一人の戦士として認め、真正面から叩き伏せるための刃。
それを、彼はずっと望んでいた。
「私……」
声が震える。
「ずっと、傷つけてたの……?」
その問いは、部屋の中に落ちたまま消えなかった。
窓の外では夜が深くなっている。王立聖戦学園の校舎は闇の中で静かに眠っていた。遠くの中央広場には、魔王像の影が見える。そこに剣はもうない。あの黒い剣は、ユリスと共に消えた。
ユリスは今、眠れているのだろうか。
それとも、また一人で剣を振っているのだろうか。
想像しただけで、胸が痛くなる。
会いに行きたい。
今すぐ部屋を飛び出して、ユリスを探したい。話をしたい。謝りたい。何に謝ればいいのかも分からないまま、それでも謝りたい。
でも、ユリスはきっと言う。
助けなくていい、と。
その言葉が怖かった。
私はベッドに横になった。目を閉じる。すぐに、ユリスの顔が浮かんだ。
魔王の剣を握り、私に背を向けた少年。
震えていたのは、私だけではなかったのかもしれない。あの時、ユリスもきっと苦しんでいた。
なのに、彼は振り返らなかった。
勇者の前に立つために。
少年のままではいられないと、そう言うように。
ならば。
次に剣を向ける時、私はどうすればいい。
また守るのか。
また加減するのか。
また、彼を傷つけないように傷つけるのか。
それとも。
本気で、倒せばいいのか。
そうすれば、ユリスはきっと、もう一度私を見る。
そんな考えが浮かんだ瞬間、私は息を呑んだ。
怖いと思った。
そんなことを考えた自分が怖かった。
けれど同時に、どこかで分かってしまった。
ユリスが望んでいたのは、きっとそれだったのだ。
守られることではない。
救われることでもない。
同情されることでも、手加減されることでもない。
私が本気で剣を向けること。
勇者として、真正面から立つこと。
ユリスが越えるべき壁として、逃げずにそこにいること。
「……どうして」
私は目元を腕で覆った。
守りたかっただけなのに。
大切だっただけなのに。
傷ついてほしくなかっただけなのに。
それなのに、その優しさはユリスを傷つけた。
その手は届かなかった。
その光は、彼に闇を掴ませた。
眠れないまま、夜が明けた。
朝の鐘が鳴るよりも先に、私は部屋を出ていた。制服を整える手は少し震えていた。鏡の中の自分は、ひどい顔をしている。目元は赤く、頬には疲れが残っていた。
それでも、足は第一訓練場へ向かっていた。
そこに行けば、ユリスがいる気がした。
いつもの朝なら、彼はいる。
まだ夜明けの気配が残る第一訓練場で、木剣を握り、悔しそうに笑っている。昨日どれだけ負けても、今日こそはと挑んでくる。私が少し困った顔で受け止めれば、いつもの朝が始まる。
そう思いたかった。
第一訓練場に着く。
朝の光が、聖紋の刻まれた石畳を淡く照らしていた。結界は静かに揺れ、白亜の校舎は今日も変わらず美しい。勇者科の生徒たちが来るには、まだ少し早い時間だった。
私は訓練場の中央を見る。
そこには誰もいなかった。
いつもなら、そこにいるはずの少年がいない。
「……ユリス?」
返事はない。
私は訓練場を見回す。壁際。木剣置き場。入口。いつも彼が準備運動をしていた場所。どこにもいない。
ただ、朝の光だけがあった。
その瞬間、胸の奥が静かに沈んだ。
昨日まで当たり前だった景色が、たった一人いないだけで別の場所のように見えた。
ユリスがいない。
その事実が、ゆっくりと私の中へ落ちていく。
昨日、彼は言った。
俺は、お前の敵になる。
あの言葉は、ただの勢いではなかったのかもしれない。もう、いつものように第一訓練場で待っていてくれる少年ではないのかもしれない。
私は拳を握った。
勇者候補として、何をするべきなのかは分からない。
幼馴染として、何を言えばいいのかも分からない。
ただ一つだけ、分かったことがある。
もう、守るだけではいけない。
助けるだけでは、きっとユリスをまた傷つける。
ならば、私は何になるべきなのか。
答えはまだ分からない。
けれど、ユリスは言った。
俺は、お前の敵になる。
ならば、逃げてはいけない。
ユリスが闇を掴んでまで越えようとしたものとして、そこに立っていなければならない。
守るためではなく。
救うためだけでもなく。
彼が剣を向ける先に、勇者として立っていなければならない。
そう思った。
そう思おうとした。
けれど、胸の奥には、別の感情があった。
ユリスに剣を向けられるのが怖い。
ユリスに敵だと言われるのが怖い。
ユリスが闇の中へ消えてしまうのが怖い。
それなのに。
彼の剣の先に、私がいる。
その事実だけが、ひどく甘く、胸を締めつけていた。
朝日が昇る。
第一訓練場に、私の影が一つだけ伸びる。
その朝、第一訓練場にユリスが現れることはなかった。
私は誰もいない訓練場で、静かに顔を上げた。
強くならなければならない。
誰よりも。
誰にも届かないほど。
ユリスが、いつか本気で剣を向けてくれるように。
ユリスが、私を越えるべきものとして見失わないように。
「私が、誰にも届かない勇者であり続ければ……ユリスは、ずっと私を見ていてくれるのかな」




