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勇者に勝ちたいだけなのに、魔王の剣が闇堕ちした宿敵ムーブを強要してくるせいで周りが曇り始めた。  作者: 黒雪ゆきは


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10/13

010 見えるぞ。

 王立聖戦学園の外に出た瞬間、夜の冷たさが少しだけ変わった気がした。


 学園の内側にあった清らかな空気。

 白亜の校舎に満ちていた聖なる静けさ。

 女神の祝福を掲げる場所特有の、どこか整いすぎた気配。それらが背後へ遠ざかり、代わりに湿った土の匂いと、夜露を含んだ草の匂いが鼻を刺す。

 小門は、俺の背後で静かに閉じた。

 重い音ではなかった。

 それでも、その音は妙に大きく聞こえた。


「……出たな」


 自分に言い聞かせるように呟く。

 戻ろうと思えば、まだ戻れる距離だった。門を開け、学園の中へ戻り、寮へ向かえばいい。朝になれば、何事もなかったように第一訓練場へ行くことだってできるかもしれない。

 無理だ。

 何事もなかったことになど、もうならない。

 俺の胸には魔王印がある。足元の影には魔王の剣が眠っている。中央広場からは、魔王の剣が消えている。アリアは、俺が黒紫の闇を纏っているところを見た。

 もう戻れない。

 いや、違う。

 戻らないと決めた。


『感傷に浸るには、いささか門から近すぎるな』

(黙れ)

『せめて丘の上まで歩いてから振り返るべきだ。構図が弱い』

(構図なんて気にしていられるか)

『勇者の宿敵となる者が、ただ小門を出ただけで感傷に浸っていては締まらん』

(こっちは夜逃げみたいなものなんだよ)

『本人が認めるのか』

(認めざるを得ない)


 内心で言い返しながら、俺は学園から伸びる石畳の道を離れた。正規の道を通れば、巡回の目に留まる可能性がある。資料棟で写した地図を思い出しながら、外縁の林へ向かう。

 夜は深い。

 月明かりだけが、木々の隙間から薄く落ちている。制服の上着は夜風を防いでくれるが、学園の中にいた時よりも肌寒い。荷物は少ない。財布、学生証、水筒、写し取った地図、少しの携行食。あとは、足元の影に沈めた魔王の剣。

 旅支度としては、あまりに心許ない。

 だが、朝まで待てば出られなくなる。

 それだけは分かっていた。

 アリアが動く。リーナが心配する。エルネアが調べる。クラウディアが止めに来る。

 そうなれば、俺は迷う。

 迷えば、足が止まる。

 だから今、進むしかない。


『黒域までは遠いぞ』


 メルギドスが言った。


『聖王国の街道を使えば多少は早いが、貴様は目立つ。王立聖戦学園の服を着た男が、夜明け前に一人で北西へ向かっている。少し調べれば足取りは追えるだろうな』

(分かっている)

『ならば、どうする』

(まずは街道を避ける。森沿いに進んで、夜が明ける前に最初の村を越える。昼は隠れて休む。動くのは夕方以降だ)

『ふむ』

(何だ)

『思ったよりは考えている』

(失礼だな)

『褒めている』

(今のでか)

『衝動だけで学園を出た馬鹿なら、正門から堂々と出て、翌朝には捕まっていた』

(そこまで馬鹿じゃない)


 そう思いながらも、胸の奥は落ち着かなかった。

 俺は確かに考えている。地図も見た。経路も選んだ。学園に残る危険も理解した。黒域へ向かう理由も、自分の中で決めた。

 それでも、実際に一歩ずつ学園から遠ざかるたび、足元が少しずつ頼りなくなる。

 本当にこれでいいのか。

 アリアに、あんな顔をさせたままで。

 リーナに、何も言わずに。

 エルネアにも、クラウディアにも、理由を告げずに。

 胸が重い。胃も痛い。

 それでも、足は止めなかった。


『ユリス』

(何だ)

『言っておくが、黒域へ行けば優しくはされんぞ』


 メルギドスの声は、珍しく茶化していなかった。


『聖王国では、貴様は男として守られる側だった。勇者に庇われ、聖女に癒やされ、賢者に観察され、聖騎士に心配された。黒域では違う。弱ければ奪われる。甘ければ利用される。倒れれば踏まれる。誰も、貴様が男だからという理由で手を差し伸べはせん』

(その方がいい)

『ほう』

(男だから守られるより、弱いから倒される方がまだ納得できる)


 言葉にしてから、自分でも少し驚いた。

 だが、本心だった。

 男なのに頑張っている。

 男なのに勇敢だ。

 男なのに、よくやっている。

 その言葉は、いつも俺の努力の前に置かれていた。どれだけ剣を振っても、どれだけ立ち上がっても、最初に見られるのは俺自身ではなく、男であるという事実だった。

 黒域が本当に、女神の祝福の秩序から外れた土地なら。

 そこでは、俺は何者として見られるのだろう。

 守られるべき男ではなく。

 勇者に救われた幼馴染でもなく。

 一人の未熟者として、弱いと言われるのなら。

 それはきっと、俺が欲しかったものに近い。


『やはり歪だな、貴様は』

(うるさい)

『褒めている』

(お前の褒め言葉は大体ろくでもない)

『だが、嫌いではあるまい』

(……腹が立つな)


 否定しきれないのが、さらに腹立たしかった。

 林の中へ入ると、足元が悪くなった。湿った土が靴底に絡み、細い枝が制服の裾を掠める。学園の訓練場とは違う。石畳も、結界も、整えられた足場もない。

 当然だ。

 ここから先は、訓練ではない。

 俺は足を止め、地図を取り出す。月明かりだけでは見づらい。魔灯を使えば目立つ。仕方なく、少し開けた場所で空の光を頼りに経路を確認した。

 黒域へ向かうには、まず聖王国北西の境界地帯を抜ける必要がある。地図によれば、途中に小さな村と、古い街道跡がある。正規街道ではないため、人の行き来は少ないが、魔物も出るらしい。

 魔物。

 その文字を見た瞬間、幼い頃の森の記憶が脳裏をよぎった。

 黒い獣。爪。血。

 倒れた俺の前に立ったアリア。

 光の剣。

 俺は地図を握る指に力を込めた。

 あの日から、ずっとだ。

 俺はずっと、あの光に追いつきたかった。


『怖いか?』

(怖いさ)


 即答した。

 強がる意味はなかった。


(魔物は怖い。死ぬのも怖い。痛いのも嫌だ)

『ならば戻るか』

(戻らない)

『何故だ』

(怖いから戻るなら、最初から剣なんて握っていない)


 メルギドスが喉の奥で笑う気配がした。


『よい答えだ』

(うるさい)

『八十一点だ』

(採点するな)

『減点理由は、高笑いがないことだ』

(一生満点にはならないことが確定した)


 そう思って地図を畳んだ、その時だった。

 林の奥で、枝が折れる音がした。

 俺は反射的に息を止める。

 風ではない。

 獣の足音とも違う。

 何かが、こちらへ近づいている。


『さて』


 メルギドスの声が、愉快そうに沈んだ。


『初めての実戦だな』

(縁起でもないことを言うな)


 俺は腰に手を伸ばしかけ、そこに木剣がないことを思い出す。

 学園を出る時、木剣は持ってこなかった。代わりに、足元の影を見る。

 呼べば出る。魔王の剣が。

 だが、呼んだ瞬間、俺は完全に後戻りできなくなる気がした。

 いや、もう後戻りなどできないし、するつもりもない。


「来い」


 そう念じた瞬間、足元の影が黒く揺れた。

 黒紫の霧が立ち上がり、右手に重みが戻る。次の瞬間、魔王の剣が俺の手の中に現れていた。黒い刀身は月明かりを弾かず、むしろ飲み込むように沈んでいる。

 重い。

 だが、持てる。

 前よりは、少しだけ。


『黒装はまだ使うな』

(何故)

『貴様の体力では、黒装を使えば数秒で息が切れる。相手も見えぬうちから切り札を切るな』

(まともな助言だな)

『当然だ。我は優秀な師だ』

(高笑いを強要する師匠は嫌だ)

『それも含めて優秀だ』


 言い返す余裕は、そこで消えた。

 茂みの向こうから、黒い影が飛び出してきた。

 狼に似ていた。

 だが、普通の狼ではない。背中から歪な骨の棘が伸び、口元から黒い涎を垂らしている。月明かりを受けた黄色い目が、こちらを見た。

 魔物。

 幼い頃に見たものよりは小さい。だが、十分に大きい。俺の腰ほどの高さがあり、脚は太く、爪は土を深く抉っている。

 心臓が跳ねた。

 呼吸が浅くなる。

 手の中の魔王の剣が、少しだけ重くなる。


『構えろ』


 メルギドスの声が響く。


『恐怖を拒むな、受け入れろ。恐れを抱いたうえで剣を振れ』

(簡単に言うな)

『簡単ではない。だがやれ』


 魔物が唸る。

 俺は剣を構える。学園で習った基本。半身。重心を落とす。相手の前脚を見る。目ではなく、肩と腰を見る。突進の予備動作を見逃すな。

 訓練で何度も習った。

 だが、本物の魔物を前にすると、知識が薄くなる。

 怖い。

 足が重い。

 だが、後ろには誰もいない。

 助けてくれる勇者はいない。

 傷を癒やす聖女もいない。

 エルネアも、クラウディアもいない。

 俺だけだ。

 俺が立つしかない。

 魔物が地面を蹴った。

 速い。

 俺は横へ跳ぶ。爪が制服の袖を掠めた。布が裂け、腕に浅い痛みが走る。だが、致命傷ではない。

 振り向きざまに剣を振る。

 重い。あまりにも遅い。

 魔王の剣は木剣のようには動かない。俺の筋力では、ただ振るだけでも身体が持っていかれる。刃は魔物の背中を掠めただけだった。


「くそっ……!」


『腕で振るな。身体で運べ。貴様の積み上げてきた剣術を殺すな』

(分かってる!)

『分かっていてできぬなら、分かっておらんのと同じだ』

(本当に嫌な師匠だな!)


 魔物が再び飛びかかる。

 俺は剣を盾代わりに受けた。衝撃が腕を通って肩に抜ける。骨が軋んだ。足が土に沈む。耐えられず、背中から倒れかける。

 その瞬間、胸の魔王印が熱を持った。

 黒い熱。怒りではない。恐怖でもない。

 それらをまとめて燃やすような、暗い衝動。

 守られる側で終わるな。

 倒れたまま、見上げるだけの男になるな。

 立て。

 俺は歯を食いしばった。


「──黒装!」


『まだ早い』

(うるさい、使う!)


 胸の熱を右腕へ流し込む。

 黒紫の靄が手首に絡みつき、腕を覆った。影でできた籠手のようなものが、俺の右腕に形を作る。全身に重さがのしかかる。呼吸が一気に苦しくなった。

 だが、力は入る。

 俺は魔物を押し返した。

 魔物の体勢が崩れる。

 その一瞬だけでいい。

 俺は踏み込んだ。

 剣を振るのではなく、身体ごと前へ出る。黒装で無理やり右腕を支え、魔王の剣の重みを相手へ叩きつける。

 刃が、魔物の肩口を裂いた。

 黒い血が飛ぶ。

 魔物が悲鳴を上げ、後ろへ跳んだ。だが、まだ倒れない。黄色い目が怒りに濁る。

 俺の方も限界だった。

 右腕の黒装が揺らぐ。肺が焼けるように熱い。心臓がうるさい。視界の端が黒く滲む。


『解除しろ。持たん』

(まだ……!)

『解除しろと言っている』


 珍しく、メルギドスの声が強かった。

 俺は舌打ちし、黒装を解く。右腕から黒紫の靄が霧散した瞬間、力が抜けかけた。膝が笑う。

 魔物はまだこちらを睨んでいる。

 逃げるか。

 いや、逃げても追われる。

 なら、倒すしかない。

 俺は剣を構え直す。

 その時、魔物が一歩下がった。


「……?」


 黄色い目が、俺ではなく剣を見ていた。

 いや、違う。俺の足元の影を見ている。魔王の剣から漏れた黒い気配を、本能で感じ取っているのかもしれない。

 魔物が低く唸る。

 だが、次の瞬間、背を向けて林の奥へ走り去った。

 俺はしばらく動けなかった。

 魔物の足音が遠ざかる。

 木々のざわめきだけが残る。

 そこでようやく、息を吐いた。


「……逃げた?」


『これが畏怖だ』


 メルギドスが言った。


『貴様が倒したのではない。剣と闇の気配を恐れたのだ』

「それは……勝ったとは言えないな」

『生き残ったなら勝ちだ。少なくとも、今の貴様にとってはな』


 その言葉を聞いた瞬間、膝から力が抜けた。

 俺はその場に片膝をつく。荒い息が漏れる。右腕が痛い。肩も痛い。脇腹も、袖を裂かれた腕も、全部痛い。

 だが、生きている。

 誰にも守られず、誰にも癒やされず、それでも俺は魔物を退けた。

 勝ったとは言えない。

 強くなったとも言えない。

 だが、倒れたまま終わらなかった。


「……は、はは」


 思わず笑いが漏れた。

 初勝利というものが思いのほか嬉しかったらしい。


『何だ。高笑いの練習か』

「違う」

『今なら多少は形になったかもしれんぞ』

「絶対に違う」


 俺は痛む腕を押さえながら立ち上がる。

 身体は重い。

 だが、胸の奥だけは妙に熱かった。

 昨日までの俺なら、あの魔物を前に立っていられただろうか。

 分からない。

 だが、今の俺は立った。

 魔王の剣を握り、黒装を使い、どうにか生き残った。

 たったそれだけのことが、喉の奥を熱くした。


『嬉しいか』

「……ああ」


 正直に答えた。


「……嬉しいさ」

『よい』


 メルギドスの声が、少しだけ低くなる。


『その感覚を忘れるな。誰かに守られず、己の足で立ち、己の剣で退けた。その小さな勝利を積め。いずれ勇者の前に立つなら、そういうものが必要になる』

「分かっている」

『本当に分かっているか?』

「多分な」

『正直でよろしい』


 俺は魔王の剣を影へ沈めた。手の中から重みが消えると、一気に疲労が押し寄せる。魔物の血が少し袖についていた。裂けた布から見える傷は浅い。リーナなら一瞬で治すだろう。

 その考えが浮かんで、胸が痛んだ。

 俺は唇を噛む。

 駄目だ。

 今は戻れない。

 この程度の傷なら、放っておけば治る。

 いや、違う。

 治し方を覚えなければならない。自分で傷を抱えたまま進む方法を覚えなければならない。リーナの光がなければ立てない男のままでは、黒域へ行く意味がない。


『無茶をするな、とは言わん』


 メルギドスが言った。


『だが、倒れるなら前に倒れろ。後ろに倒れれば、勇者の手を探すことになる』

「……師匠っぽいことを言う」

『必要なことを言っている』

「そうだな」


 俺は水筒の水を少しだけ飲み、裂けた袖を簡単に縛った。傷口が痛むが、動けないほどではない。

 空がわずかに白み始めている。

 夜明けが近い。

 朝になれば、学園ではいつものように鐘が鳴るだろう。アリアは第一訓練場へ向かうかもしれない。リーナは治療棟で椅子を整えているかもしれない。エルネアは第三訓練場で記録板を抱えているかもしれない。クラウディアは第二訓練場で盾を構えているかもしれない。

 そして、俺がいないことに気づく。

 その想像だけで、胃が痛んだ。


『戻るか?』

「戻らない」

『なら歩け』

「言われなくても」


 それから、五日間が過ぎた。

 昼は人目を避けて林や廃屋に身を潜め、夜になると地図を頼りに歩いた。正規の街道は使わない。追跡を避けるため、わざと遠回りを選んだ。

 地図は古かった。記されているはずの道が草に埋もれていたこともあれば、橋が落ちていて沢を迂回するしかないこともあった。水筒の水はすぐに尽き、沢を見つけるたびに補給した。携行食は減っていく。空腹で足が重くなる感覚を、俺はその時初めてまともに知った。

 傷も同じだった。

 リーナがいれば、一瞬で塞がるような傷だった。けれど、今は違う。裂けた袖をさらに裂いて包帯代わりにし、痛みを誤魔化しながら歩くしかない。熱を持った肩も、擦りむいた膝も、夜露で冷えた身体も、誰も治してはくれなかった。


『聖女のありがたみが分かったか』

(嫌という程な)

『ならば、次は聖女がいなくとも歩く方法を覚えろ』

(……分かってる)


 腹立たしいほど正論だった。

 小型の魔物に襲われたこともある。獣の気配に足を止め、息を殺してやり過ごした夜もある。黒装を使えば楽に追い払える場面もあった。だが、使えばすぐに息が切れる。右腕に闇を纏うたび、身体の奥から力を削られていく。

 だから、俺は覚えた。

 何でも闇で押し切ればいいわけではない。逃げるべき時は逃げる。隠れるべき時は隠れる。戦うなら、短く終わらせる。

 それは、訓練場では教わらなかったことだった。

 俺の足で進むしかない。

 そうして、学園を出て五日目の朝。

 俺は、黒域の外縁に辿り着いた。

 そこから先は、女神の光が届かない土地だった。

 そう思っていた。

 けれど、実際に足を踏み入れた黒域は、想像していた魔境とは少し違っていた。

 空気は重い。大地はところどころ黒ずみ、街道跡には砕けた石と乾いた草が混じっている。聖王国の道にあったような白い標柱も、女神の聖紋も見当たらない。祈りの言葉が刻まれた道標もない。代わりに、獣の骨で作られた簡素な標識と、魔物除けらしい黒い布が木の枝に結びつけられていた。

 だが、死の土地ではなかった。

 遠くに煙が見える。

 朝の支度をする竈の煙だ。風に乗って、焼いた穀物の匂いと、獣肉を燻すような匂いが薄く流れてくる。人が暮らしている。祈りの光がなくても、聖紋に守られていなくても、ここには生活があった。

 集落に近づくにつれ、人の姿が見え始める。

 槍を担いだ人間の男。肩に荷を乗せた、角の小さな女。赤い瞳をした少年。額から立派な角を伸ばした老爺。角を持たない者もいれば、人間にはない色の瞳を持つ者もいる。誰が人間で、誰が魔族で、誰がその混血なのか、外から来た俺にはすぐには分からない。

 ただ、一つだけ分かることがあった。

 ここでは、血も出自も綺麗に分かれていない。

 人間も、魔族も、その混血も、同じ道を歩き、同じ煙の下で暮らしている。

 聖王国の教本に書かれていたような、魔族だけが蠢く暗黒の土地ではない。

 ここには、人の生活がある。

 けれど、聖王国とはまるで違う。

 すれ違う者たちの目が、俺を見た。

 好奇ではない。憐れみでもない。値踏みと警戒。こちらが何者で、敵かどうかを測る目だった。

 子供でさえ、俺を見る目が鋭い。

 これが黒域か。

 そう思った直後、首筋に冷たい殺気が触れた。


「止まれ」


 女の声だった。

 振り返るより先に、二本の刃が夜明け前の空気を裂いた。

 黒髪。真紅の瞳。不気味なほど白い肌。黒と深紫の軽装鎧を纏った女が、俺に双剣を向けていた。

 歳は、俺とそう変わらないように見える。

 だが、その目だけは違った。

 学園の生徒が向ける好奇や心配ではない。ただ淡々と、脅威となりうるのか探っていた。


「見ない顔だな」


 女は、俺の頭から足元までを一瞥した。


「その服も、この辺りのものじゃない。どこの国の者だ」

「……エウリア聖王国」


 答えた瞬間、女の目が細くなる。


「聖王国」


 その声に、ほんのわずかな棘が混じった。


「女神の祝福を掲げる国の男が、こんな場所に一人で何の用だ」

「黒域で、知りたいことがある」

「そうか。それは──お前の足元の妙な気配と関係あるのか?」


 女の視線が、俺の足元の影へ落ちた。

 胸の奥で、メルギドスが愉快そうに笑った。


『ほう。なかなか良い目をしている』

(黙れ)


 女の視線が、俺の顔へ戻る。

 声に出したわけではない。だが、ほんのわずかな表情の変化を拾われたのかもしれない。


「妙な顔をしたな」

「疲れているだけだ」

「五日歩いた程度でその顔なら、ここでは長くない」

「……厳しいな」

「事実だ」


 俺は痛む身体に力を込め、足元の影から魔王の剣を呼び出した。

 黒い刀身が、夜明け前の空気を沈ませる。

 集落の奥で、誰かが息を呑んだ。

 槍を持っていた男が後ずさる。小さな角を持つ女が口元を押さえる。真紅の瞳をした少年が、まるで古い伝承でも見たかのように俺を見つめる。

 中には、膝を折る者もいた。

 だが、彼女は違った。

 黒髪の女は膝を折るどころか、俺を睨む目をさらに鋭くした。


「……魔王の剣」

「知っているのか」

「ここで知らない奴はいない」


 女は双剣を構え直した。


「だが、認めない」

「何をだ」

「お前だ」


 真紅の瞳が、俺を射抜く。


「お前のような者が、魔王候補?」


 女は冷たく笑った。


「ここなら三日ともたない」


 その言葉に、俺は言い返そうとした。

 だが、その前に。

 胸の奥で、メルギドスが低く嗤った。


『ククク……』


 嫌な予感がした。


『見えるぞ、ユリス……この女が曇り果てる姿が、実に容易く見えるぞ』

(もう頼むから黙ってくれ)


 女が、双剣を構えたまま目を細める。

 今度は俺の顔ではなく、魔王の剣と足元の影を見ていた。


「やはり、妙な気配だ」

「そうだな」

「自覚があるのか」

「ありすぎて困っている」

「なら、やはり斬る」


 俺は目を見開いた。

 なぜなら、本当に一切の容赦なく斬りかかってきたからだ。

お読みいただきありがとうございます。

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