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勇者に勝ちたいだけなのに、魔王の剣が闇堕ちした宿敵ムーブを強要してくるせいで周りが曇り始めた。  作者: 黒雪ゆきは


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011 弱い。

「なら、やはり斬る」


 言葉が終わるより早く、女は動いていた。

 速い、という認識すら遅かった。

 黒と深紫の影が地面を滑り、二本の刃が左右から俺の間合いを削り取る。狙いは首ではない。心臓でもない。右手首。魔王の剣を握る指。俺から武器を奪うためだけの、極めて冷徹な一撃だった。


「っ……!」


 反射的に魔王の剣を引く。

 黒い刀身と短い双剣がぶつかり、朝の集落に甲高い音が走った。

 受けた瞬間、腕の芯が痺れた。

 立派な角を持つ純魔族ではない。おそらく、魔族の血を引く混血。だが、その刃に半端なものは一つもなかった。

 アリアの剣とは違う。

 アリアの剣は眩しい。正しく、速く、まっすぐで、見上げたくなるほど遠い。

 女の刃には光がない。

 ただ、冷たい。

 相手を倒すために必要な部位だけを、必要な力で、必要な分だけ斬る。そこに誇示も、華やかさも、情けもなかった。


「遅い」


 短い声。

 次の刃が膝へ来た。

 俺は後ろへ跳ぶ。だが、足が重い。五日間の移動で削られた体力は、意地だけでは戻らない。踏み込んだつもりの足が、半歩遅れる。

 刃が太腿を裂いた。


「ぐっ……!」


 制服の布が裂け、熱い痛みが走った。

 浅い。

 だが、無視できるほどではない。

 血が滲む。足に力を入れるたび、裂けた皮膚が引き攣った。


『ほう』


 胸の奥で、メルギドスが低く声を漏らした。


『殺さぬ。だが、動けなくする気ではあるな。手首、膝、足首、肩。実に無駄がない』

(感心してる場合か……!)

『感心に値する。貴様の弱点を正しく見ている』

(俺の心配をしろ!)

『必要か?』

(必要に決まってるだろ!)


 内心で毒づいた瞬間、女の目がわずかに細くなった。

 声に出したわけではない。

 それでも、何かを察したような目だった。

 興味ではない。

 斬るべき要素が一つ増えた、とでも言いたげな目だった。

 女の足が沈む。

 来る。

 今度は正面。俺は魔王の剣を構え直す。重い。腕が軋む。太腿が痛む。右肩の奥には、五日前から残っている鈍い疲労が澱のように沈んでいた。

 だが、構えなければ斬られる。

 女が踏み込んだ。

 双剣が交差する。右の刃が魔王の剣を外へ流し、左の刃が懐へ潜り込む。狙いは脇腹。骨の隙間。呼吸を奪う位置。

 受ければ崩される。

 避ければ足が追いつかない。

 ならば、力で押し返す。


「黒装……!」


 胸の奥に意識を向ける。

 魔王印が熱を帯び、黒紫の靄が右腕へ集まろうとした。

 だが、闇が形を取るより早く、女の刃が俺の右手首を打った。


「がっ……!」


 指が痺れる。

 魔王の剣を落としそうになった。慌てて握り込む。だが、黒装の流れは途切れていた。胸の奥で燃えかけた闇が、腕へ届く前に散る。

 女は止まらない。

 右足を払う。

 俺は踏ん張る。

 肩を打つ。

 魔王の剣が流される。

 反撃しようとした瞬間、喉元の寸前に刃が走る。

 止まるしかなかった。

 見られている。

 黒装の発動も、魔王の剣の重さも、俺の疲労も、全部。


『黒装の前兆が大きすぎる』


 メルギドスが言った。


『右腕へ意識を寄せる癖。呼吸の変化。胸の魔王印から魔力を流すまでの遅れ。見える者には見える』

(今言うな……!)

『今言わねば斬られるだろう』

(もう斬られてる!)

『まだ動ける。ならば問題ない』


 問題しかない。

 刃と刃がぶつかるたび、腕の芯が削られていく。魔王の剣は強い。まともに当たれば、女の双剣ごと叩き折れるかもしれない。

 だが、当たらない。

 女は受けない。流す。逸らす。潜る。俺の剣が最も重くなる瞬間だけを外し、最も戻しにくい角度で懐へ入る。

 魔王の剣に、俺が振らされている。

 その事実が、嫌でも分かった。


「闇の匂いは濃い」


 女が言う。


「だが、扱えていない」


 肩を打たれる。


「剣も同じだ。持っているだけ」


 足首を狙われる。


「魔王の剣に選ばれたのか、拾ったのかは知らない。だが、今のお前は闇に振り回されているだけだ」


 俺は後退する。

 いや、後退させられる。

 胸に刺さる言葉だった。

 反論はできない。

 実際、その通りだった。

 俺は魔王の剣を持っている。黒装も使える。メルギドスと契約し、闇の魔力を得た。

 だが、それだけだ。

 使いこなしているわけではない。

 アリアに届くどころか、黒域の女一人に手も足も出ない。


「くそ……っ!」


 俺は踏み込んだ。

 力任せでは駄目だ。

 分かっている。

 だから、振るのではなく、ずらす。

 女は俺の右腕を見ている。魔王の剣を見ている。黒装の前兆を警戒している。

 なら、逆だ。

 俺は右腕へ闇を流すふりをした。

 女の視線が、わずかに右手首へ落ちる。

 その一瞬、足元の影へ意識を沈めた。

 魔王の剣の気配を、影の中で揺らす。

 できるかどうかは分からない。

 だが、やる。

 女が踏み込んだ瞬間、俺は半歩だけ斜めへ出た。前ではない。後ろでもない。剣を当てるためではなく、予測を外すための半歩。

 魔王の剣を振る。

 遅い。重い。

 だが、女の予測より、ほんのわずかに軌道がずれた。

 刃は届かない。

 だが、剣先が彼女の黒髪を掠めた。

 一房だけ、黒い髪が宙に舞う。

 女の真紅の瞳が、ほんの少しだけ見開かれた。


「……今のは、偶然か」


 息を切らしながら言う。

 正直、半分は偶然だった。

 だが、言う必要はない。

 女は落ちた髪を一瞥し、それから俺を見た。

 次の瞬間、視界が揺れた。


「っ……!?」


 足を払われていた。

 反応できなかった。髪を掠めたことで、ほんの一瞬だけ意識が緩んだ。そこを突かれた。

 背中から地面に叩きつけられる。

 肺の空気が抜けた。

 魔王の剣を握る手に力を入れようとした瞬間、女の靴が俺の手首を踏んだ。


「ぐ、っ……!」


 もう片方の刃が、喉元に突きつけられる。

 冷たい金属が、皮膚に触れる寸前で止まっていた。

 集落が静まり返る。

 誰も声を出さない。

 魔王の剣を持つ聖王国の少年が、黒域の女に地面へ押さえつけられている。

 それが、今の俺の現実だった。


「弱い」


 女は言った。

 その声に、侮蔑はあった。

 だが、決めつけはなかった。

 ただ、見たものをそのまま言っている声だった。


「男だから、聖王国の人間だから。理由など挙げればキリがないが――」


 真紅の瞳が、俺を見下ろす。


「ただ──お前が弱い」


 胸の奥が軋んだ。

 屈辱だった。

 悔しかった。

 今すぐ立ち上がって、もう一度剣を振りたいと思った。

 だが、それ以上に。


「……そうか」


 声が漏れた。

 女の眉がわずかに動く。


「何がおかしい」

「いや」


 喉元に刃を突きつけられたまま、俺は小さく笑った。


「ようやく、ちゃんと弱いと言われた気がしてな」


 女は一瞬、黙った。

 それから、心底理解できないものを見る目になった。


「気持ち悪いな、お前」

「自覚はない」


『ククク……よいぞ、ユリス』


 メルギドスが笑う。


『実に歪だ。弱いと断じられて安堵するとは、なかなか見込みがある』

(安堵してない)

『似たようなものだ』

(違う)


 刃が、ほんのわずかに喉へ近づいた。


「……妙だな」

「何が」

「お前、時々ここにいない何かを見ている」

「気のせいだ」

「なら、そういうことにしておく」


 全く信じていない声だった。

 だが、女はそれ以上追及しなかった。

 しばらく俺を見下ろした後、喉元の刃を引く。手首を踏んでいた足も退ける。

 解放された瞬間、右手に血が戻る。鈍い痺れが走った。

 俺は身体を起こそうとして、失敗した。

 足に力が入らない。

 五日間の疲労。さっきの戦闘。黒装を使おうとして潰された反動。全部が一気に身体へ来ていた。

 情けない。

 そう思った瞬間、女が言った。


「立て」

「……言われなくても」


 俺は歯を食いしばり、片膝を立てる。

 身体が重い。

 腕が痛い。

 喉が乾く。

 それでも、立つ。

 ここで立てなければ、何のために黒域まで来たのか分からない。

 時間をかけて、どうにか立ち上がる。魔王の剣は、いつの間にか足元の影へ沈んでいた。俺が無意識に戻したのか、それとも剣が勝手に沈んだのかは分からない。

 女は俺が立つまで、何も言わなかった。

 手も貸さない。

 支えもしない。

 ただ、立つかどうかを見ている。

 その視線が、妙に心地悪くて、妙にありがたかった。


「ヴェルナ」


 集落の奥から、低い声がした。

 振り向くと、年老いた男が歩いてきていた。額には小さく歪んだ角が二本。純魔族というより、魔族の血を引く混血なのだろう。背は曲がっているが、目は鋭い。古びた外套を羽織り、杖をついている。

 周囲の者たちが自然と道を開けた。

 この集落の長か、それに近い立場の者だった。

 ヴェルナ。

 それが、この女の名らしい。


「殺すなと言ったはずだ」

「殺していない」


 ヴェルナは淡々と答えた。


「殺す価値もない」

「聞こえているんだが」

「聞かせている」


 容赦がない。

 老人は俺を見る。

 その視線は、ヴェルナほど鋭くはない。だが、柔らかくもなかった。魔王の剣に膝を折った者たちとは違う。畏れも、崇拝も、期待も、簡単には見せない目だった。


「名は」

「ユリス・アステル」

「聖王国の者か」

「ああ」

「女神の祝福は」

「ない」

「男か」

「見れば分かるだろ」

「ここでは、見た目ほど当てにならんものもない」


 老人は淡々と言った。

 俺は少しだけ言葉に詰まる。

 確かに、この集落を見ただけでも、俺には誰が人間で、誰が魔族で、誰が混血なのか分からない者が多かった。角を持たない魔族の血筋もいれば、人間に近い混血もいるのだろう。

 聖王国の常識をそのまま当てはめるには、ここは違いすぎる。

 老人の視線が、俺の足元の影へ向いた。


「魔王の剣を持っていると聞いたが」

「持っている」

「自分の意思で持ったか」

「ああ」

「ほう、そうか」


 老人はそう言った後、わずかに目を細めた。


「だが、聖王国の者を軽々しく信じる理由もない」

「だろうな」

「魔王の剣を持つ者を、簡単に斬るわけにはいかん。だが、聖王国の者を、黒域の奥へ好きに歩かせるわけにもいかん」


 老人の声は静かだった。

 だが、その言葉が集落の空気を決めていくのが分かった。


「しばらく、この集落に留まれ」

「監禁か」

「監視だ」

「似たようなものじゃないか」

「違う。監禁なら完全に拘束する」


 老人は笑わなかった。

 冗談で言ったつもりはないらしい。

 横でヴェルナが双剣を鞘に収める。


「なら、誰が見張る」


 老人は彼女を見る。


「お前だ、ヴェルナ」

「嫌だ」


 即答だった。


「私がなぜ、こんな甘い聖王国の男を見張らなければならない」

「最初に斬りかかったのはお前だ」

「斬り損ねた」

「だから見張れ」

「意味が分からない」

「お前はこの男を弱いと判断した。なら、弱さを見抜けるお前が一番よく見張れる」


 ヴェルナの真紅の瞳が、不満げに細くなる。


「私は子守りはしない」

「しなくていい。死なせるな」

「同じでは?」

「違う。子守りは守る。監視は見る」

「なら見るだけでいいな」

「死にそうなら拾え」

「面倒だ」

「黒域で生きるとは、面倒を選ぶことだ」


 老人はそう言い切った。

 ヴェルナはしばらく黙っていたが、やがて小さく舌打ちした。


「……三日もたないと思うが」

「なら、三日見れば済む」

「それで死んだら」

「その時は、その程度だったということだ」


 黒域らしい判断だった。

 冷たい。

 だが、妙に納得できる。

 聖王国なら、こうはならない。俺が男だと分かった時点で、誰かが保護しようとしただろう。危険だから下がれと言われ、傷を見られ、手を引かれ、守られる。

 だが、ここでは違う。

 死ぬならその程度。

 立てるなら次を選べ。

 それだけだった。


「ユリス・アステル」


 老人が俺を見る。


「この集落にいる間、勝手に動くな。魔王の剣を不用意に抜くな。黒都への報告はこちらで送る」

「黒都?」

「ノクスガルド。黒域の中心だ」


 黒都ノクスガルド。

 資料で見た名だった。

 評議会が置かれる中心都市。自治都市、砦町、集落、傭兵団、旧魔王軍系の名家が緩やかに結びつく、この土地の中心。

 そこへ、俺の存在が報告される。

 胃が少し痛くなった。


『よいではないか』


 メルギドスが愉快そうに言う。


『魔王の剣を持つ者として、黒域へ名が届く。肩書きとは向こうから来るものだ。よかったな、ユリス』

(よくない)


 胃の奥が重くなる。

 外縁の集落だけでもこの扱いだ。黒都まで話が届けば、面倒なことになるのは目に見えている。

 だが、拒める立場ではなかった。

 魔王の剣を持っている。

 聖王国から来た。

 弱い。

 今の俺にある情報は、それだけだ。

 信用される理由など、どこにもない。


「連れていけ。空き小屋を使わせる。食事は最低限でいい。武器は取り上げられんのだろう?」

「影に沈む。取り上げても意味がない」

「なら、目を離すな」

「本当に面倒だ」


 ヴェルナは心底嫌そうに言った。

 それから俺を見る。


「来い」

「どこへ」

「お前が住む場所だ」

「優しいな」


 刃のような目で睨まれた。


「次にそう言ったら斬る」

「分かった。優しくない」

「それも違う」

「難しいな」


 ヴェルナはもう答えず、背を向けて歩き出した。

 俺は痛む足を引きずりながら、その後を追う。集落の者たちの視線が背中に刺さる。畏れ。警戒。好奇。値踏み。どれも聖王国で向けられてきた温かな視線とは違っていた。

 けれど、不思議と息苦しくはなかった。

 ここでは、俺は男だから守られない。

 聖王国の出身だから歓迎されない。

 魔王の剣を持っているからといって、無条件に認められない。

 ただ、弱いから倒された。

 そして、立てたからまだ生かされている。

 それだけだった。


「言っておく」


 前を歩くヴェルナが、不意に口を開いた。


「私はお前を守らない」

「期待していない」

「死にそうになっても、自分で立て」

「……ああ」


 その言葉は、ひどく冷たかった。

 だが、聖王国で向けられたどんな優しさよりも、俺の足元を確かにした。

 こうして俺は、黒域に辿り着いた初日から、監視役つきの生活を送ることになった。

 そしてその監視役は、俺がこれまで出会った誰よりも、俺を守る気のない女だった。

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