009 黒域。
時間は、少しだけ遡る。
アリアに背を向け、第三訓練場を出たその夜。俺は寮へ戻らなかった。
戻れば、きっと足が止まる。
寝台に腰を下ろし、昨夜までと同じ天井を見上げた瞬間、考えてしまう。明日の朝、第一訓練場へ行けばアリアがいるかもしれない。治療棟へ行けばリーナがいるかもしれない。第三訓練場へ行けばエルネアに記録されるかもしれない。第二訓練場の方を通れば、クラウディアに見つかるかもしれない。
そうなれば、俺はきっと迷う。
アリアの顔が、脳裏に焼きついて離れなかった。血の気を失った顔。震える声。俺を助けたいと言った時の、泣きそうな瞳。
胃が痛い。
ひどく痛い。
だが、それでも戻れなかった。
『思ったよりは早く動いたな』
胸の奥で、メルギドスの声が響いた。
「黙っていろ」
『不機嫌だな』
「お前のせいでもある」
『我は助言しただけだ。選んだのは貴様だろう』
「分かっているから腹が立つ」
俺は人通りの少ない回廊を進む。夜の王立聖戦学園は、昼間とは別の顔をしていた。白亜の校舎は月明かりを受けて青白く沈み、聖紋の刻まれた壁は静かに光を返している。どこも美しい。どこも清らかで、整っていて、女神の祝福を掲げる学び舎に相応しい。
その清らかさが、今は少しだけ息苦しかった。
俺の胸には魔王印がある。足元の影には魔王の剣が眠っている。アリアには見られた。中央広場の剣が消えていることも、いずれ誰かが気づく。
もう、契約は済んでしまった。
だからこそ、知らなければならない。
俺は何と契約したのか。
メルギドス・ノクスヴェルトという魔王が、歴史の中で何をした存在なのか。
この闇は、どこへ繋がっているのか。
向かったのは、学園の片隅にある古い資料棟だった。
王立聖戦学園には、講義棟や訓練棟とは別に、古い記録を保管する資料棟がある。魔法史、聖戦史、魔物分類、禁忌指定前の古い術式、魔王戦役に関する断片的な記録。普段ここへ来るのは、賢者科や魔法史を専攻する生徒がほとんどだ。戦技科の男子生徒が夜に訪れる場所ではない。
だからこそ、今は都合が良かった。
資料棟の扉は、施錠されていなかった。完全に無警戒というわけではない。入口には簡易の認証術式が組まれている。だが、学園の生徒であれば閲覧自体は可能だ。禁書庫に入るわけではない。一般閲覧可能な古文書なら、時間外でも記録さえ残せば読むことができる。
俺は学生証を認証盤に当てる。
小さな光が走り、扉が重い音を立てて開いた。
中は、古い紙と埃の匂いがした。
高い天井まで伸びる書架。月明かりを受けて細く光る窓。長机の上に置かれた魔灯。誰もいない資料棟は、息を潜めた墓所のように静かだった。
『悪くない場所だ』
「魔王が学園の資料棟を気に入るな」
『古い記録には、死者の声が残る。嫌いではない』
「言い方がいちいち不穏なんだよ」
俺は魔灯に火を入れ、資料検索用の索引盤へ向かった。賢者科の生徒がよく使っているものだ。指で文字をなぞると、関連資料の棚番号が浮かぶ。
検索語は決まっていた。
メルギドス・ノクスヴェルト。
その名を入力した瞬間、索引盤の光がわずかに揺れた。該当資料は多くない。いや、正確には、閲覧可能な資料が少ないのだろう。いくつかの棚番号と、閲覧制限付きの記録名が浮かび上がる。
その中で、一般閲覧可能なものを選んだ。
魔王戦役概説。
黒き魔力に関する基礎記録。
封印遺物目録、第三分類。
旧魔王領および黒域に関する地理記録。
最後の一つに、わずかに目が留まった。
黒域。
まだ意味は分からない。
だが、その名だけで胸の魔王印が微かに熱を帯びた気がした。
『そこまで辿るか』
「……何か知っているな」
『当然だ』
「説明する気は?」
『読め』
「性格が悪い」
『己で調べると言ったのは貴様だ』
「……それもそうだな」
腹は立つが、間違ってはいない。
俺は書架から資料を引き出し、長机に並べた。分厚い羊皮紙の綴じ本。古びた紙束。ところどころ擦り切れた地図。どれも長い時間を経てきたものだった。
最初に開いたのは、魔王戦役概説だった。
そこに記されていたのは、講義で習うよりもずっと生々しい魔王の記録だった。
魔王メルギドス・ノクスヴェルト。
女神の祝福に抗う黒き魔力を操り、聖王国を含む複数の国家と敵対した存在。彼の闇は単なる破壊の力ではなく、祝福の流れそのものを乱し、勇者や聖女の力を鈍らせたとされる。聖騎士の結界を侵し、賢者の術式を腐らせ、戦場に立つだけで兵の心を折った。
記録の文字を追うほど、背中に冷たいものが走る。
俺は、想像以上のものと契約していた。
「……本当に、ろくでもないな」
『概ね事実だな』
「概ね?」
『誇張もある』
「どこが」
『我は世界すべてを闇で覆ってなどいない』
「そこか」
『半分程度だ』
「十分最悪だろ」
低い笑い声が胸の奥で響く。
ふざけている。
だが、資料に記された内容は笑えなかった。
メルギドスは、ただ強い魔王ではない。女神の祝福を前提に成り立つ世界そのものに対する異物だった。祝福を持つ者が人々を導き、祝福を持たぬ者が守られる。この国では当たり前の秩序。その秩序の外側から、闇を叩き込んだ存在。
俺はページをめくる。
勇者連合との最終決戦。複数の勇者、聖女、聖騎士、賢者による連合軍。戦場となった旧魔王領。メルギドスの肉体は討たれ、黒き魔力は崩壊した。だが、遺体は残らず、魔王の剣のみが回収された。
魔王の剣。
その記述を見た瞬間、足元の影がわずかに揺れた。
封印遺物目録を開く。そこには、あの剣についての記録があった。
黒色の長剣。材質不明。聖魔法による浄化反応なし。物理損傷なし。魔王メルギドス・ノクスヴェルトが戦場で用いたとされる遺物。危険度は高いが、長期封印後に活動反応は確認されず。後世、魔王の脅威を忘れぬ戒めとして、王立聖戦学園中央広場の魔王像下へ移設。
「……本当に、学園が勝手に飾っていたのか」
『だから言っただろう』
「お前もよく黙っていたな」
『眠っていたからな。大半は』
「大半?」
『たまに目覚めては、若き勇者候補どもが我の前で恋愛相談をするのを聞いていた』
「最悪の目覚めだな」
『実に退屈だった』
「同情はしない」
少しだけ、息が抜けた。
だが、気は緩まない。
資料はさらに続く。魔王の剣は長い間、危険反応を示さなかった。だから学園側は、これを「象徴」として扱った。魔王の脅威を忘れないための戒め。勇者候補たちが日々通る場所に置くことで、過去の災厄を記憶させる。
皮肉にもほどがある。
魔王を討つ者たちを育てる学び舎の中心に、本物の魔王の剣が眠っていた。
そして、それを俺が手にした。
俺は思わず胸元を押さえる。魔王印は、制服の下で静かに脈打っている。痛みはもうない。だが、熱は消えない。
「この印は、何だ」
『魔王の剣と貴様を繋ぐ楔だと言っただろう』
「資料には載っていない」
『当然だ。刻まれた者がほとんどいない』
「ほとんど?」
『正確には、我が認めなかった』
「……認められたことを喜ぶべきか悩むな」
『喜べ』
「断る」
俺は次の資料へ手を伸ばす。
黒き魔力に関する基礎記録。
そこには、闇の魔力についての断片的な記述があった。女神の祝福とは別系統の力。聖魔法による分類不能。精神状態と密接に結びつき、執念、憎悪、屈辱、反抗心によって増幅すると推測される。使用者の肉体に強い負荷をかける。祝福の流れを乱す性質を持つ。
まるで、俺の内側をそのまま文字にされたようだった。
執念。
屈辱。
反抗心。
アリアに勝ちたいという願い。
守られる側で終わりたくないという、どうしようもなく醜い感情。
それが力になる。
そう書かれているようだった。
「……気分が悪いな」
『自分の醜さを記録で突きつけられるのは愉快ではあるまい』
「分かっているなら黙れ」
『だが、目を逸らすな。貴様が掴んだ力は、そういうものだ』
「分かっている」
分かっている。
だから、ここに来た。
契約してしまった。力も得た。アリアも傷つけた。なら、今さら綺麗な言葉で誤魔化すことはできない。
俺は資料を閉じ、最後の地理記録へ手を伸ばした。
旧魔王領および黒域に関する地理記録。
黒域。
また、その文字が目に入る。
古い地図が挟まれていた。エウリア聖王国の北西、山脈と荒野の向こう。かつて魔王メルギドスが支配したとされる土地。現在は正式な国家としては認められていない。聖王国の統治も、教会の影響も薄い。女神の祝福の加護が弱く、黒い魔力の残滓が地脈に残る危険地帯。
そこには、こう記されていた。
黒域。
かつての魔王領。
祝福の秩序から外れた者たちが流れ着く場所。
俺はその一文から目を離せなかった。
祝福の秩序から外れた者たち。
その言葉が、やけに胸に沈んだ。
エウリア聖王国では、女神の祝福は女性にのみ宿る。勇者も、聖女も、賢者も、聖騎士も、女神に選ばれた者たちが人々を守る。持たざる者は、守られる。男は、特にそうだ。
それが正しいとされる国で、俺はずっと剣を振っていた。
守られる側でいたくないと願いながら。
誰かの後ろに置かれることに耐えられずに。
その果てに、俺は魔王の剣を掴んだ。
なら。
この学園に、俺の闇を鍛える場所はあるのか。
勇者を育てる第一訓練場に。
聖騎士が盾を構える第二訓練場に。
戦技科が努力で前線に立とうとする第三訓練場に。
治療棟の白い光の中に。
エルネアの記録板の上に。
アリアの優しい手の届く場所に。
俺の闇を、そのまま鍛えられる場所があるのか。
答えは、考えるまでもなかった。
「……ないな」
小さく呟いた。
胸の奥で、メルギドスが笑う気配がした。
『結論は出たか』
「まだだ」
『ほう』
「お前に言われる前に考えている」
『よい。続けろ』
メルギドスは命じなかった。
それが、少しだけ意外だった。こいつなら、もっと偉そうに言うと思っていた。黒域へ行け。光の学園を捨てろ。勇者の前に立つなら闇の地へ向かえ。そう命じてもおかしくない。
だが、メルギドスは何も言わない。
ただ、俺が資料を読むのを待っている。
それがかえって厄介だった。
俺は自分で考えなければならない。
自分で選ばなければならない。
誰かの命令ではなく、誰かの期待でもなく、俺自身の意志として。
俺は地図を見る。
黒域までは遠い。聖王国の正規街道から外れ、山道を越えなければならない。危険な魔物も出る。祝福の影響が薄いなら、聖王国の常識も通じないだろう。
だが、そこなら魔王の剣について何か分かるかもしれない。
闇の魔力を隠さずに済むかもしれない。
何より、そこは女神の祝福の秩序から外れた場所だ。
俺が守られる側へ戻されない場所。
アリアたちの優しさに、足を絡め取られない場所。
そう思った瞬間、胃がまた痛んだ。
リーナの顔が浮かぶ。
怪我をしたら必ず来てください、と言った声。
エルネアの顔が浮かぶ。
貴方は弱くない、と言った平坦な声。
クラウディアの顔が浮かぶ。
戦いは、私たちに任せてくれ、と真っ直ぐに告げた瞳。
そして、アリアの顔が浮かぶ。
助けたい、と震えた声。
俺は歯を食いしばった。
会えば、揺らぐ。
それが分かった。
アリアに泣かれて、平気でいられるほど俺は強くない。リーナに傷を見られれば、きっと言葉に詰まる。エルネアに問い詰められれば、隠しきれない。クラウディアに止められれば、振り切る自信がない。
だから、朝まで待てない。
明日になれば、必ず騒ぎになる。中央広場から魔王の剣が消えたことに誰かが気づく。アリアはきっと動く。学園も動く。俺は説明を求められ、止められ、守られようとする。
それは、優しさだ。
だからこそ、危険だった。
「……今夜、出る」
言葉にした瞬間、胸の魔王印が静かに熱を帯びた。
『決めたか』
「ああ」
『黒域へ?』
「ああ」
俺は地図を見つめたまま答える。
「勘違いするな。お前に言われたから行くんじゃない」
『分かっている』
「俺が考え、俺が決めた」
『だからこそ、悪くないと言った』
メルギドスの声は、どこか満足げだった。
『逃げではないな』
「逃げだろ」
『ほう』
「アリアたちから逃げている。学園からも逃げている。捕まれば止められるから、その前に出る。事実だけ見れば逃げだ」
『ならば、なぜ胸を張らぬ』
「……何?」
メルギドスの声が、低く響く。
『逃げることが悪だと、誰が決めた。勇者の光に縋る己から逃げる。守られるだけの朝から逃げる。昨日までの弱さから逃げる。そうして進む先に己の願いがあるなら、それは立派な選択だ』
「屁理屈だな」
『魔王の理屈だ』
「もっと悪い」
『だが、貴様には必要だ』
返す言葉がなかった。
逃げる。
その言葉を、俺はずっと悪いものだと思っていた。前に立てない者の行為。背を向ける者の選択。弱い人間がすること。
だが、今の俺は逃げなければならない。
アリアの手から。
リーナの光から。
エルネアの視線から。
クラウディアの盾から。
そして、守られることに甘えそうになる自分自身から。
逃げて、その先で強くならなければならない。
「必要なものを持って出る」
『荷物か』
「最低限でいい。金、地図、水、保存食。学園の制服は目立つが、今は替えがない」
『魔王の旅立ちにしては質素だな』
「うるさい。高笑いしながら出発してたまるか」
『夜明け前の門を背に、ひと笑い欲しいところだ』
「絶対にやらない」
資料を戻し、必要な部分だけ写しを取る。黒域の地図。旧魔王領への経路。危険地帯の注記。魔王の剣に関する記録の一部。魔王メルギドスの記録も、必要な箇所を書き写した。
本人が横にいるのに記録を書き写すというのは、妙な気分だった。
『我の偉業を丁寧に書き写すがいい』
「危険情報としてだ」
『同じことだ』
「違う」
それでも、手は止めなかった。
俺は知らなければならない。自分が掴んだ闇が何なのかを。これから向かう場所が何なのかを。そして、俺が何を捨てようとしているのかを。
資料棟を出る頃には、夜はさらに深くなっていた。
校舎の灯りはほとんど消えている。遠くに見える寮の窓だけが、いくつか淡く光っていた。あのどこかに、アリアがいるのかもしれない。眠れているだろうか。いや、眠れているはずがない。
胸が痛む。
だが、足は寮へ向かなかった。
寮に戻れば、誰かに見つかる可能性がある。荷物を取りに行くのも危険だ。幸い、財布と学生証、携帯用の水筒は持っている。保存食は購買棟横の非常備蓄から少しだけ持ち出すしかない。悪いことをしている自覚はある。だが、今さら行儀よく申請して出ていくわけにもいかない。
『なかなか堂に入った夜逃げだ』
「言い方を選べ」
『出奔か?』
「それも嫌だな」
『闇堕ちした宿敵の旅立ち』
「もっと嫌だ」
小声で言い返しながら、俺は学園の外縁へ向かった。
王立聖戦学園の敷地は広い。正門には夜間警備がいる。だが、外縁には物資搬入用の小門がある。戦技科の実習で使う道具を運ぶため、俺も何度か通ったことがあった。夜は閉じているが、内側からなら開けられる。もちろん、記録は残る。
記録が残るなら、朝には気づかれる。
それでいい。
朝には、俺はもう学園の外にいる。
小門の前で、俺は一度だけ振り返った。
白亜の校舎。中央礼拝堂の尖塔。訓練場の影。治療棟の白い屋根。中央広場に立つ魔王像。
昨日まで、俺の日常だった場所。
傷ついて、癒やされて、記録されて、叱られて、挑んで、負けて、それでもまた立ち上がった場所。
嫌いではなかった。
むしろ、きっと好きだった。
だからこそ、ここにいれば戻ってしまう。
「……行く」
『ああ』
メルギドスは、それ以上何も言わなかった。
俺は小門を開ける。古い金具が小さく軋んだ。夜風が頬を撫でる。学園の外へ、一歩踏み出す。
その瞬間、何かが切れたような気がした。
いや、違う。
切ったのだ。
自分で。
歴史書の魔王は、世界を脅かした怪物だった。女神の祝福に抗い、勇者たちと戦い、黒き魔力で戦場を染めた存在。
けれど、俺の胸の奥にいる魔王は、俺の傷を笑わなかった。
だからこそ、危険だった。
その危険を知ったうえで、俺は選ぶ。
光の学び舎ではない。
勇者の隣でもない。
守られるための場所でもない。
かつて魔王が世界に影を落とした場所。
黒域へ。




