第85話 プロポーズ
応接室を出て、回廊を歩く。昨夜のことを思い出すたびに、胸の奥が、わずかに波立った。隣を歩くノアは、侯爵夫妻に手を振りながら、少し照れたようにしている。
「……姉ちゃん」
小さな声で呼ばれて、リーナは我に返った。
「なあに?」
「いい人たちだったね」
それだけだった。でも、その一言で十分だった。リーナは、そっと頷く。
「……ええ、そうね」
二人の少し後ろで、王子はその背中を見つめていた。声をかけるでもなく、歩み寄るでもなく。ただ、自分の中にある決意が静かに固まっていくのを感じていた。
——逃げない。
それだけは、もう決めている。王女がふと足を止めたのは、回廊の角だった。
「ここがいいわね」
リーナとノアが、きょとんとして振り返る。
「少し、待っていてちょうだい」
王女は、王子の背を促すように一歩前に出させた。
「……お兄様」
その声には、からかいも試すような色もない。
「伝えるなら、今よ」
王子は、一瞬だけ目を伏せ、それから真っ直ぐにリーナを見た。
「リーナ」
「……はい、殿下」
名を呼ばれただけで、心臓が跳ねた。
「君には、選択肢がある」
王子は、言い聞かせるようにはっきりと言った。
「誰の庇護も受けず、今の立場を続ける道もある。侯爵家の子として、新しい家族と生きる道もあるだろう」
一拍、置く。
「その上で——」
それは退路を断った者の声だった。
「俺の隣に立つことを、選んでほしい」
リーナの思考が、一瞬止まる。それは命令ではない。期待でも、当然の義務でもない。一人の人間として「選んでいいのだ」と、真摯に差し出された言葉だった。
「……私は」
声が、わずかに震える。
「まだ、分からないことも多くて……至らないことばかりです……」
王子は、その言葉を遮らなかった。
「それでも」
リーナは、ゆっくりと顔を上げる。
「……あなたの下で、お役に立ちたい。あなたの隣で……ふさわしい人間になりたいです。そして——もし、あなたに必要とされるなら……」
それが、今のリーナにできる、精一杯の答えだった。
王子は、長く止めていた息を吐き出すように、深く息を吐いた。
「……必要だ」
一拍、置いて。
「いや」
王子は視線を逸らさず、確信を込めて繰り返した。
「君が……必要なんだ」
そこで、見守っていた王女が一歩前に出る。
「——では」
にこやかに、けれど有無を言わせぬ響きを持って。
「お話を進めましょう」
ノアが、ぱっと顔を上げた。
「……えっと」
空気を読みきれず、けれど一番核心を突く問いを投げかける。
「じゃあ、姉ちゃんは……お兄さんのお嫁さんになるの?」
一瞬の沈黙。リーナの顔が、一気に林檎のように赤くなった。王子もまた、耳の裏まで赤く染めている。王女はそれを見て、満足そうに微笑んだ。
「ふふ、そうね」
小さく手を叩く。
「まずは、準備からよ」
——こうして。揺るぎない覚悟と、体温の宿った未来が、静かに動き始めた。
それは、誰かに見せるための儀式ではなく、選び続けるいう誓いを、静かに確かめ合うための時間だった。




