第84話 嬉しかったのに
実は、嬉しかった。昨夜のことを思い出すと、今でも胸の奥がじわりと温かくなる。
——綺麗だった。
不器用で、逃げるような、短い言葉。けれど、それは確かに自分だけに向けられたものだった。リーナは家事の手を動かしながら、ふと動きを止める。
……でも。彼の正装。整えられた髪。凛とした立ち姿。広い肩の線。それらがどれほど似合っていたか——自分は、何ひとつ伝えていない。
……私も、褒めてあげられなかった。
そう気づいた瞬間、今度は頬にカッと熱が集まった。視線を落とし、小さく深呼吸を繰り返す。
「……姉ちゃん」
隣で本を読んでいたノアが、ひょいと顔を上げる。その瞳が、どこか楽しげに揺れているのは気のせいではないはずだ。
「なあに?」
「お兄さんのところに行くんだけど。姉ちゃんも一緒に行く?」
「……何か、用事があるの?」
「うん。お医者様がね、剣術の基礎くらいなら体を動かしてもいいって言ってくれたんだ」
さらりとした口調。けれど、その奥に隠しきれない期待が混じっているのを、リーナは聞き逃さなかった。
「まあ!」
思わず声が弾む。
「それは素晴らしいわ。ちゃんと、ご報告に行かなきゃね」
ノアは、待ってましたと言わんばかりに、にっと笑った。
★★★
王子の執務室。扉を開けた瞬間、王子の視線は——真っ先にノアへと向いた。
「……どうした?」
「お医者様から、運動の許可が出たんだ!」
元気いっぱいの報告。王子は小さく頷き、すぐに冷静な判断を下す。
「良いだろう。だが、あくまで基礎練習までだ。決して無理はするな」
「やった!」
ノアはぱっと顔を輝かせた。
「ありがとう、お兄さん!」
それだけ言うと、風のような勢いで扉へと向かい——
「じゃあ、さっそく練習してくる!」
元気な声を残して、嵐のように部屋を飛び出していった。
……残されたのは、二人きりの静まり返った空間。王子は、書類に視線を落としたまま、一向に顔を上げようとしない。正確には——上げられずにいるようだった。リーナはそんな彼の様子を見つめながら、自分の鼓動が早くなっていくのを感じた。
――今だわ。勇気を、たったひとつだけ。
「あの……」
王子の肩が、ぴくりと強張る。
「昨晩の、正装……」
一拍。ぎゅっと拳を握り、息を吸い込む。
「その、とても……格好良かったです……っ」
言い切った瞬間、顔が火を噴くように熱くなる。
「し、失礼します!」
それだけ告げて、リーナは弾かれるように踵を返した。逃げるように部屋を飛び出し、重たい扉が閉まる。——あとに残るのは、深い沈黙。
「……」
王子は、ゆっくりと椅子の背に体を預け、両手で顔を覆った。
「……参ったな」
胸の奥が、痛いほど熱い。逃げたと思えば、今度は特大の一撃を打ち込まれた。まさに――完敗だった。しばらく指一本動かせそうにない。
扉の向こうでリーナの足音が遠ざかっていく。王子がまだ机に伏したまま、思考を整理できずにいると――。
「……あら?」
背後から、くすりと楽しげに笑う気配。振り返るまでもなく、よく知る人物の声だった。
「お兄様。ずいぶん静かですのね」
「……いつからそこにいた」
「ノアが飛び出していったあたりから、ずっとですわ」
王女は優雅に肩をすくめて見せる。
「見事に、やられましたわね」
「……うるさい」
ぶっきらぼうに返しつつも、否定はしない。王女はそんな兄の様子を満足そうに一瞥すると、悪戯っぽく微笑んだ。
「ふふっ……これで準備は整いましたわ」
王子は、いまだに顔を上げられない。
「もう、完全に自覚していらっしゃいますものね」
その声は、からかいではなく、すべてを見透かしたような、静かな確信に満ちていた。
「さあ——」
王女は、軽やかな足取りで踵を返す。
「計画を、進めましょうか」
パタン、と扉が閉じる。一人残された王子は、ようやく深く、長い息を吐き出した。
——もう、逃げない。
今度こそ、それだけは心に決めた。




