第83話 陰から見守る
回廊の角。王女は柱の陰に立ったまま、静かに一連のやり取りを見守っていた。兄が立ち止まり、言葉に詰まり、勢いだけで褒めて——逃げ出すまで。そして、その後に残されたリーナが、数拍遅れて呆然と立ち尽くすところまで。
……ああ、と王女は内心で嘆息する。
これは、からかっていい相手ではない。リーナは真面目すぎるのだ。感情を持っていないわけではない。ただ、その扱い方を知らないだけだ。ここで声をかければ、きっと彼女は戸惑い、混乱し、下手をすれば自分を責めてしまうだろう。
——それは、望むところではない。
王女はそっと視線を外した。リーナが自分で立ち直る時間を邪魔しないよう、静かに踵を返す。向かう先は、当然ひとつしかなかった。
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兄の執務室の扉は、半開きになっていた。中から聞こえてくるのは、深いため息。
「……」
王女は、ノックもせずに扉を押し開けた。
「お兄様」
その声に、王子がびくりと肩を揺らす。
「っ……い、今は——」
「今がちょうど良いですわ」
にこりともしない表情。それだけで、王子は悟った。
——見られていたのだ、と。
「……見ていたのか」
「ええ。最初から最後まで」
王女は、机の前まで進み、腕を組んだ。
「ちゃんと言え、と申し上げましたよね?」
「言っただろ。言ったじゃないか」
「逃げましたわよね?」
即座の指摘だった。
「褒めて、言い逃げ。何なんですの、あれは」
「……」
王子は、ぐうの音も出ない。
「いつもでしたら、令嬢を褒めることなど呼吸と同じでしょうに。ドレス、髪、所作、立ち居振る舞い。すべて、淀みなく言えるのではありませんか?」
王女は、じっと兄を見つめる。
「——リーナ相手だと、それができない。理由、分かってますわよね?」
「……」
「自覚しているからですわ」
王子は、顔を覆いたくなった。
「だからって、逃げるのは最低です」
「最低とまでは……」
「最低です」
容赦がない。
「しかも、あの子。顔に出さないでしょう?」
王女の声が、少しだけ和らいだ。
「出さないけれど、ちゃんと傷つくし、ちゃんと喜びますのよ。……扱いづらいでしょう? ええ、分かりますわ」
王子は、重く息を吐いた。
「……あれで、何も感じてないように見えるのが、怖いんだ」
「ええ」
王女は、はっきりと頷いた。
「だからこそ、言葉が必要なんです」
一拍置いて。
「逃げた兄を、わたくしは軽蔑しますけれど」
「……辛辣だな」
「その代わり」
王女は、少しだけ口角を上げた。
「次に、きちんと向き合うお兄様は、全力で応援して差し上げますわ」
王子は、視線を落とした。
「……分かってる」
「分かっていない顔ですわね」
「いや」
王子は、ゆっくりと顔を上げる。
「……次は、逃げない」
その言葉を、王女は黙って聞いた。
「でしたら、よろしいですわ」
満足そうに頷く。
「——あの子は、あまりに真っ直ぐですの。ですから、お兄様が誠実でいないと、置いていかれてしまいますわよ?」
そう言い残し、王女は踵を返した。扉が静かに閉まる。
ひとり残された王子は、しばらく天井を見上げてから、深く息を吐いた。
「……本当に、逃げ道がないな」
けれど。その表情は少しだけ晴れていた。




