表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
家族に売られてたどり着いた先は、王女様の侍女でした。 ――掃除だけは誰にも負けません。  作者: 月城 蓮桜音


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

82/84

第82話 言い逃げ

 翌朝。王女宮の回廊は、いつも通り静寂に包まれていた。

 

 リーナは手に持った書類に視線を落としながら、淀みのない動作で歩を進める。その足取りも、凛とした背筋も、昨日までと何ら変わりはない。

 

 ——変わらない、はずだった。もし昨夜の出来事が、脳裏をよぎりさえしなければ。


 華やかな夜会。流れる音楽。静かな庭園。そして、強く手を引かれた時の熱い感触。記憶がひとつ浮かび上がるたびに、胸の奥がわずかに波立つ。


 だが、それを表に出すことはない。感情を面に出さないことは、長い年月をかけて身につけてきた彼女の処世術だった。だからこそ、廊下の角で王子と鉢合わせても、彼女の仮面は剥がれない

 

「おはようございます、殿下」

 

 落ち着いた声。乱れのない一礼。

 

 ——しかし、その完璧さが、今の彼には毒だった。

 

 王子はあからさまに息を呑み、言葉を詰まらせた。

 

「……あ、ああ。おはよう」

 

 王子の視線が、泳ぐ。昨夜はあれほど大胆だったはずなのに、今はどこを見るべきかさえ分からなくなっているようだ。リーナはあえてその動揺に気づかないふりをして、足を止めた。

 

「何か、ご用でしょうか」

 

 丁寧すぎる口調。踏み込ませない距離。それが王子の胸の内を、さらにかき乱す。

 

 ——何も、変わっていない。

 

 昨夜のことなど、まるで夢だったかのように。自分だけが、独りで浮き足立っているようで。王子は、意を決したように深く息を吸い込んだ。

 

「……あの」

 

 呼び止めてしまった以上、もう退けない。昨夜、王女から叱られた言葉が脳裏をよぎる。『次は、逃げないで』。だが——。

 

「……さ、昨夜の」

 

 声が震える。リーナは、ただ静かに待っている。促しもせず、拒絶もせず。だが、その揺るぎない無表情が、王子の緊張を際限なく煽っていく。

 

「……ドレス姿が」

 

 一拍の溜め。

 

「とても、き、綺麗だった!」

 

 叫ぶように言い切った、次の瞬間。

 

「……では!」

 

 それは見事なまでの「言い逃げ」だった。王子はそのまま踵を返し、足早に立ち去っていく。遠ざかる背中には、隠しようのない情けなさが滲んでいた。

 

 ——言えた。

 

 言えたが、逃げた。リーナが何も反応を見せなかったことが、今の彼には鋭く突き刺さる。

 

 ……あんな言葉、何も響かなかったのだろうか。

 

 そう案じる資格すら、今の自分にはない。王子は歩きながら、悔しさに奥歯を噛みしめた。

 

 一方。廊下に残されたリーナは、しばらくの間、彫刻のように立ち尽くしていた。

 

「……」

 

 数拍ののち。

 

 ——理解が、遅れて心に追いつく。

 

 綺麗だった。昨夜の。あの、私の姿を。


 胸の奥が、きゅっと音を立てて縮まった。自覚した瞬間、熱が堰を切ったように溢れ出す。頬に血が集まり、耳が火照り、首筋までがじんわりと赤く染まっていく。

 

 ——まずい。

 

 焦燥が浮かんだ時には、もう手遅れだった。リーナはそっと片手で頬を覆ったが、指先からもその熱が伝わってくる。

 

「……」

 

 周囲に誰もいないことを何度も確認してから、深く、長く息を吐き出した。感情を隠すのは得意だったはずだ。だが、心の内側がこんなにも騒がしくなっては、もう勝手が違った。

 

 ——言い逃げだなんて、卑怯です。

 

 心の中で、小さく毒突いてみる。けれど、不思議と嫌な気分ではなかった。むしろ——。リーナは、少しだけ視線を落とす。

 

 そこに見える彼女の首元は、まだ林檎のように真っ赤なままだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ