第82話 言い逃げ
翌朝。王女宮の回廊は、いつも通り静寂に包まれていた。
リーナは手に持った書類に視線を落としながら、淀みのない動作で歩を進める。その足取りも、凛とした背筋も、昨日までと何ら変わりはない。
——変わらない、はずだった。もし昨夜の出来事が、脳裏をよぎりさえしなければ。
華やかな夜会。流れる音楽。静かな庭園。そして、強く手を引かれた時の熱い感触。記憶がひとつ浮かび上がるたびに、胸の奥がわずかに波立つ。
だが、それを表に出すことはない。感情を面に出さないことは、長い年月をかけて身につけてきた彼女の処世術だった。だからこそ、廊下の角で王子と鉢合わせても、彼女の仮面は剥がれない
「おはようございます、殿下」
落ち着いた声。乱れのない一礼。
——しかし、その完璧さが、今の彼には毒だった。
王子はあからさまに息を呑み、言葉を詰まらせた。
「……あ、ああ。おはよう」
王子の視線が、泳ぐ。昨夜はあれほど大胆だったはずなのに、今はどこを見るべきかさえ分からなくなっているようだ。リーナはあえてその動揺に気づかないふりをして、足を止めた。
「何か、ご用でしょうか」
丁寧すぎる口調。踏み込ませない距離。それが王子の胸の内を、さらにかき乱す。
——何も、変わっていない。
昨夜のことなど、まるで夢だったかのように。自分だけが、独りで浮き足立っているようで。王子は、意を決したように深く息を吸い込んだ。
「……あの」
呼び止めてしまった以上、もう退けない。昨夜、王女から叱られた言葉が脳裏をよぎる。『次は、逃げないで』。だが——。
「……さ、昨夜の」
声が震える。リーナは、ただ静かに待っている。促しもせず、拒絶もせず。だが、その揺るぎない無表情が、王子の緊張を際限なく煽っていく。
「……ドレス姿が」
一拍の溜め。
「とても、き、綺麗だった!」
叫ぶように言い切った、次の瞬間。
「……では!」
それは見事なまでの「言い逃げ」だった。王子はそのまま踵を返し、足早に立ち去っていく。遠ざかる背中には、隠しようのない情けなさが滲んでいた。
——言えた。
言えたが、逃げた。リーナが何も反応を見せなかったことが、今の彼には鋭く突き刺さる。
……あんな言葉、何も響かなかったのだろうか。
そう案じる資格すら、今の自分にはない。王子は歩きながら、悔しさに奥歯を噛みしめた。
一方。廊下に残されたリーナは、しばらくの間、彫刻のように立ち尽くしていた。
「……」
数拍ののち。
——理解が、遅れて心に追いつく。
綺麗だった。昨夜の。あの、私の姿を。
胸の奥が、きゅっと音を立てて縮まった。自覚した瞬間、熱が堰を切ったように溢れ出す。頬に血が集まり、耳が火照り、首筋までがじんわりと赤く染まっていく。
——まずい。
焦燥が浮かんだ時には、もう手遅れだった。リーナはそっと片手で頬を覆ったが、指先からもその熱が伝わってくる。
「……」
周囲に誰もいないことを何度も確認してから、深く、長く息を吐き出した。感情を隠すのは得意だったはずだ。だが、心の内側がこんなにも騒がしくなっては、もう勝手が違った。
——言い逃げだなんて、卑怯です。
心の中で、小さく毒突いてみる。けれど、不思議と嫌な気分ではなかった。むしろ——。リーナは、少しだけ視線を落とす。
そこに見える彼女の首元は、まだ林檎のように真っ赤なままだった。




