第81話 反省する王子
夜会が終わり、執務室に戻ってからも、王子は椅子に深く腰を下ろしたまま動けずにいた。机の上の書類に目を落としているものの、その内容はまったく頭に入ってこない。
まぶたの裏に浮かぶのは、月明かりに照らされた夜の庭。淡い色のドレス。丁寧にまとめられた髪。そして、いつもとほんの少しだけ違って見えた、あの瞳。
——褒めていない。結局、一言も。
王子は、片手で眉間に触れた。いつもなら、造作もないことだ。社交の場で令嬢を褒めることなど、彼にとっては息をするのと変わらない。「ドレスがよくお似合いだ」「今夜の貴女は一段と美しい」「貴女がいるだけで場が華やぐ」——そんな言葉なら、いくらでも口にできる。適切な言葉も、完璧な間も、すべて心得ているはずだった。それなのに。
「……どうして、ああなったんだ」
ぽつりと、独り言が漏れる。思い返せば、視線は何度も彼女を追っていた。その美しさに気づいていたし、見惚れてもいた。それなのに、いざ彼女を目の前にすると、喉の奥に言葉が張り付いたように出てこなかったのだ。
——リーナ、だからだ。
ありふれた社交辞令や、その場をしのぐための飾り言葉など贈りたくなかった。もっと特別な、心からの言葉で、ちゃんと彼女を褒めたかった。
胸の奥が、ちくりと痛む。あの場で彼女を堂々とエスコートし、隣に立つ彼女に自信を持たせてやるが、紳士としての、そして男としての務めだったはずなのに。
「……情けないな」
椅子の背にもたれかかり、天を仰いだその時だった。
「お兄様!」
勢いよく扉が開いた。ノックもなしに現れたのは、彼の妹である王女だった。
「……何だ、お前か」
反射的に背筋を伸ばしたが、王女はすでに腕を組んで仁王立ちになっていた。
「『何だ』ではありませんわ!」
ぴしゃりと、鋭い指摘が飛んできた。
「あの、褒めたとも言えない中途半端な言い草! あれはいったい何なんですの?」
王子は言葉に詰まり、視線を泳がせる。
「……自分では、褒めたつもりだったのだが」
「どこがですの!」
即座に、容赦のない声が返ってきた。
「『いつもと違うな』? たったそれだけ? 大切なレディに対して、あれだけで済ませるなんて、失礼にも程がありますわ。あの子が、今夜のためにどれだけ準備をして、どれほど緊張していたと思っているんですの!」
ぐうの音も出ない。王女は一歩踏み込み、呆れたように大きなため息をついた。
「……分かっている。それは、分かっているんだ」
「本当かしら?」
王女は、探るような目でじっと兄を見つめる。
「社交辞令の一つも言えないほど余裕のないお兄様なんて、初めて見ましたわ」
図星を突かれ、王子は観念したように息を吐き出した。
「……言えなかったんだ」
「どうして?」
少しだけ、王女の声から険しさが消える。
「……彼女にだけは、嘘やお世辞を言いたくないと思ったからだ」
そこまで言って、王子はバツが悪そうに口を閉ざした。王女は数拍ほど呆気に取られていたが——やがて、ふっと表情を緩めた。
「あら」
それは、からかうような、けれどどこか温かい声音だった。
「それ、ご自分で無自覚なつもりでしたの?」
王子は、今度こそ何も言い返せなかった。王女は、満足そうに一つ頷くと、出口に向かう。
「安心なさい。今夜の分は、まだ取り返せますわ」
「……どういう意味だ」
「次に会ったときに、今日言えなかった分まで、ちゃんと褒めればいいだけです」
彼女は扉に手をかけ、にっこりと笑って言い切った。
「今度は逃げないでくださいましね。お兄様が、ご自分で選んだ方なのですから」
それだけ言い残して、王女は風のように去っていった。
再び静まり返った執務室で、王子は天井を見あげる。
——逃げない。
それは、冷徹な王族として振る舞うよりも、ずっと難しいことに思えた。だが。
「……次は、必ず」
今度こそ。心の中でそう強く誓い、王子は静かに目を閉じた。




