第80話 離しがたい手
会場に流れる空気が、少しずつ変わっていくのを王子は感じていた。向けられる視線の数が増えている。しかも、それは先ほどまでの探るようなものとは明らかに違っていた。
——興味。
それも、同年代の令息たちによるものだ。声をかける口実を探す目。家名や立場を推し量り、彼女との距離を測ろうとする不躾な視線。
王子は、無意識のうちに、一歩リーナの前へと踏み出していた。隣に立つ彼女は、その変化に気づいていない。いつも通りに背筋を伸ばし、静かに場を見渡している。
——誰にも見せたくない。
そう確信した瞬間、王子の心は決まっていた。
「少し、空気を変えよう」
短くそう告げて、彼女の手を取る。
「……え?」
小さな戸惑いの声が上がるより早く、彼は歩き出した。会場を横切るざわめきが、背後でさざ波のように広がる。誰かが声をかけようとした気配が、途中でせき止められた。重厚な扉を抜け、夜気の漂う庭園へと出る。そこでようやく、王子は足を止めた。
その時になっても——王子はまだ、手を離していなかった。その事実に気づいた瞬間、リーナの呼吸がわずかに乱れる。
指先が熱い。触れているのはわずかな面積のはずなのに、繋がれた手から相手の体温が絶え間なく流れ込んでくる。
——近い。物理的な距離も、互いの意識も。
離した方がいい。頭ではそう分かっているのに、指が動かない。王子はそこで初めて、彼女を正面から見つめた。
淡い色のドレスが、月光を受けて柔らかな光を纏っている。まとめられた髪のせいで、いつもより首元がすっきりとして見えた。丁寧に整えられた目元も、ほんの少しだけ、いつもと印象が違う。
——気づくのが、あまりにも遅すぎた。
「……」
言葉が出てこなかった。リーナは王子の視線に気まずさを感じたのか、わずかに身じろぎする。
「……何か、変でしょうか」
不安げに揺れる声。王子は慌てて首を振った。
「いや」
即答だった。だが、そのあとの言葉が続かない。どう伝えればいいのか、分からなかったのだ。綺麗だ、と。よく似合っている、と。たったそれだけのことが。
「……いつもと、違うな」
ようやく絞り出したのは、そんな簡素な言葉だった。一瞬きょとんとしたあと、リーナの頬がじわりと熱を帯びていく。
「……はい」
消え入りそうな返事。その反応を目の当たりにして、王子は内心で深い息を吐いた。
——危ない。
これ以上、正面からちゃんと褒めてしまったら、自分の方がきっと持たない。
夜の庭は静まり返り、冷たい空気に満たされている。それなのに、繋がれた手の熱だけは、一向に引く気配がなかった。王子は空を見上げるふりをして、喉の奥から絞り出すように言った。
「その……隠したかったんだ」
「え?」
「君の姿を、他の誰にも……」
それ以上は、言葉を飲み込んだ。これ以上踏み込んでしまえば、もう引き返せない気がしたからだ。リーナの胸の鼓動は、まだ早鐘を打っている。
——どうして、こんなに。
ただ、手を取られただけ。庭に出ただけ。それだけなのに。王子の鼓動もまた、ひどく急き立てられていた。
——逃げ場は、もうないな。
そう自覚した時、不思議と、嫌な気分ではなかった。




