第86話 エピローグ
鳴り響く祝福の鐘の音に包まれ、王子とリーナの結婚式は盛大に執り行われた。王都中の人々が歓喜に沸き、近隣諸国からも多くの使者が訪れた。新たな王子妃の誕生は、国全体を照らす明るい希望の象徴となったからだ。
——けれど。
華やかな招待客の名簿の中に、男爵家の名はなかった。誰一人として、だ。式が終わり、祝宴の賑わいが各地に届く頃、静まり返った男爵家の屋敷では、また一つ、何かが壊れる鈍い音が響いていた。
「だから言っただろう!」
父親の、余裕のない怒声が室内に刺さる。
「あの二人を追い出したのは、お前だ! 見て見ぬふりをしてきた報いが、これだ!」
「あなただって、何も言わずに黙認していたじゃない!」
継母は剥き出しの感情で叫び、手近にあった陶器を床に叩きつけた。
「あなたも同罪でしょう!」
家の中の空気は重く、どろりと澱んだままだ。あの日、彼女がいなくなった時から、ずっと。溺愛されていた義妹ですら、荒んでいく心を止められなかった。リーナとノアの名を口にしては、吐き捨てるように呪詛を並べる。
——けれど。
その名はもう、彼らが気安く触れていいものではなかった。リーナは王子の妻。正式な王子妃であり、いずれは国を支える王妃となる存在なのだから。
ゆえに、彼女への誹謗はそのまま不敬にあたる。知らず知らずのうちに、男爵家は自ら退路を断ち、首を絞めていった。誰も救いには来ない。誰も手を差し伸べない。それが、彼ら自身が選び取った“結果”だった。
そして――一方では。
柔らかな光が差し込む王宮の庭に、穏やかな時間が流れていた。リーナは王子の隣で、静かに、けれど確かな幸せを噛みしめるように微笑んでいる。
大切に思っている人たちの部屋を、自らの手で整える習慣は今も続けていた。勉強も、公務も。けれど、そこに悲壮感はない。彼女はもう「虐げられるだけの侍女」ではなかった。
ノアは名医のもとで懸命に学びながら、時折、姉の執務室を訪れる。病はすっかり落ち着き、その瞳にはかつてないほどの強い光が宿っていた。
「姉ちゃん」
そう呼ぶ澄んだ声に、もう怯えの色はない。
——彼は、人を救う医師として。
リーナは、国を愛する王子妃として。
それぞれが自分の足で立ち、互いを支え合って生きていく。
過去という塵は、もう追ってこない。丁寧に掃除され、祓われ、静かに遠ざかっていった。今、ここにあるのは、誰かに与えられた運命ではない。自ら選び取った未来と、守られる側ではなく、大切な人と肩を並べて歩む人生だけだ。
満ち足りた静寂の中で、リーナは今日も、深く、静かに息を吸い込む。
——ここは、綺麗だ。
そう心から思える場所で、彼女の新しい日々が続いていく。




