第78話 パーティーにて
侯爵家の養女としての扱いは、すでに始まっていた。だが、それが“正式なもの”となったのは――数日後のことだった。
それは、あまりにも唐突に与えられた役割だった。王女に呼ばれ、執務室に入ったときのこと。机の上に置かれていたのは、一通の書類と――そこに記された、見慣れない自分の名前。
「正式に、侯爵家の養女として扱う手続きが完了しました」
淡々と告げられたその言葉を、私は一度、確かめるように胸の内でなぞった。
「……整ったのですね」
「ええ。王子妃になる前に、避けては通れない手順よ」
王女はそう言って、書類の余白を指先で軽く叩いた。
「侍女からいきなり王子妃では、周囲が騒がしいもの。外野に何を言わせても構わないけれど、あなたを守る手間が増えるのだけは避けたいの」
私は、ゆっくりと頷いた。理屈も目的も理解できる。
ただ――自分がその“駒”として盤上に置かれているという実感だけが、まだ追いついていなかった。
「近々、社交の場に出るわ。大きな夜会ではないけれど、顔合わせとしては十分よ」
王女は真っ直ぐに私を見る。
「不安?」
「……はい。でも」
一拍置いて、私は正直な想いを口にした。
「逃げ出したいとは、思いません」
王女は、わずかに口角を上げた。
「それでいいわ。あなたは、何も変える必要はないのだから」
夜会当日。鏡の前に立った自分を見て、思わず息を呑んだ。選ばれたのは、淡い色彩のドレス。過度な装飾はないが、布地の滑らかさも仕立ても、これまで触れてきたものとは根本的に違っていた。肩にかかる心地よい重みが、否応なしに現実を突きつけてくる。
「……落ち着いて」
自分に言い聞かせる。――これは、掃除と同じだ。
空間を把握し、人を見極め、音を聞く。
会場に足を踏み入れた瞬間、さざ波のようにざわめきが広がった。突き刺さる視線。潜められた囁き。値踏みするような空気。けれど――私は俯かなかった。
歩幅は一定に。視線は正面へ。背筋をすっと伸ばす。
これまで何度も繰り返してきた“気配を消し、目立たないための所作”が、ここでは皮肉にも、周囲を圧倒するような奇妙な静けさを生んでいた。
「……あの方、どなたかしら?」
「侯爵家の養女だそうよ」
「例の噂の……」
耳に届く声を、必要以上に拾わない。聞こえていても、心までは動かさない。
ふと、一人の貴族がこちらへ歩み寄ってきた。
「初めまして。今夜はお見かけしないお顔ですね」
声をかけられ、私は足を止めた。
「初めまして。リーナ・エル=ヴァルディアと申します。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
新しく授かった家名を口にした瞬間、わずかな沈黙が流れた。まだ、自分の唇に馴染んでいない名前。それでも、私ははっきりと名乗った。
「……ヴァルディア侯爵家?」
囁きが、あちこちで重なり合う。探る目、測る目。けれど、そこに侮るような色はなかった。
返す言葉は、それ以上必要ない。相手が言葉を探している間、私はただ静かに待つ。沈黙を無理に埋めず、出過ぎることもない。——やはり掃除と同じ。
その時、そっと腕に触れる温かな感触があった。
「こちらに」
低く落ち着いた響き。顔を上げると、そこには王子が立っていた。一瞬だけ迷いかけてから、私は頷く。
「はい」
差し出された腕に、迷いなく手を添えた。歩調は自然と重なる。
「……行こう、リーナ」
名を呼ばれた瞬間、胸の奥が静かに揺れた。
守られているのではない。隣に並んで、歩いている。私は、自分の足でここに立っている。
逃げずに。誤魔化さずに。
――それだけで、今は十分だった。




