第77話 侯爵令嬢として
侯爵令嬢としての初日。名前が変わったという実感は、思っていたほど劇的なものではなかった。書類上の肩書きが変わり、呼び名が変わり、立つ場所が変わった。それだけだ。少なくとも、リーナ自身にとっては。
だが――着替えを終えた瞬間、その考えは揺らいだ。
「……重い」
思わず漏れた呟きは、誰にの耳にも届かない。淡い色合いのドレスは、装飾こそ控えめだが、生地の質がまるで違った。裾が広く、少し動いただけでたっぷりと重厚な布が遅れてついてくる。王女宮で着ていた実用一辺倒の服とは、比べものにならない。歩こうとして、無意識に裾を気にして足が止まってしまう。
――踏んではいけない。――引っかけてはいけない。
掃除をする時の癖が、今も染みついていることに気づき、リーナは小さく息を吐いた。
「……大丈夫」
誰に言うでもなく自分に言い聞かせて、ゆっくりと一歩を踏み出す。音を立てないように。揺れを最小限に。歩幅を一定に。それは、教わった作法ではない。長年、そう動くしかなかった、彼女自身の身のこなしだった。
控えの間の扉が開き、外のざわめきが流れ込む。社交の場。侯爵令嬢として初めて立つ場所。一斉に視線が集まるのが分かった。好奇と、探るような気配、そして値踏みする空気。
リーナは、俯かない。けれど、必要以上に前にも出ない。ただ、空間の端に立ち、全体の流れを読み取ろうとした。
人が集まる場所。言葉が交わされる「間」。音がふと途切れる瞬間。
――掃除と同じだ。乱れているのは、床ではない。人の配置と、感情の動きだ。
そう理解したとき、不思議と胸の内が静まった。
「……こちらにいらしたのね」
聞き慣れた声に、リーナは顔を上げる。王女だった。穏やかな表情だが、その瞳はすべてを見透かすように鋭い。
「緊張している?」
「……はい。少しだけ」
正直に答えると、王女は小さく微笑んだ。
「それでいいのよ。今日は“慣れる日”ですもの」
その言葉に、リーナはゆっくりと頷いた。――慣れる。すぐに完璧になる必要はない。ここに立つことを、自分に許してあげればいい。その理解だけで、十分だった。
遠くで、視線を感じる。ふと顔を向けると、王子がこちらを見ていた。すぐに目を逸らさず、かといって声をかけるでもない。ただ、そこにて見守ってくれている。それだけで、浮ついていた足元が少しだけ安定した気がした。
――侯爵令嬢としての“日常”は、まだ始まったばかりだ。




