第76話 値段のつかない子
パーティーを数日後に控えた夜だった。体は疲れているはずなのに、意識の底に沈みきれず、眠りはどこまでも浅い。
——だめ。
その声に引かれるように、私は夢の中に立っていた。
懐かしい廊下。磨ききれていない、少しくすんだ床板。肌を刺すような冬の冷たい空気。あれは、まだ母がいた頃の屋敷だ。
部屋の扉が少しだけ開いている。その隙間から、低い声が漏れ聞こえてきた。
「今月も、金が足りないのか?」
父の声だ。
「足りませんわ。あの子の薬代もかさみますし」
継母の声は、一見すると柔らかい。だが、その響きは薄く鋭い刃物のようだった。
「いずれ、どこかへ出すしかないでしょうね。何の役にも立たないのですから」
——役にも立たない。
その言葉が、ひやりと胸の奥を冷やした。私はこの冷たさを、もう何度も知っている気がする。
ふと気づくと、暗い廊下の奥に母が立っていた。灯りはないはずなのに、母の横顔だけが、淡くはっきりと浮かんで見える。怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもいない。ただ、何かを静かに計算するような眼差しで、こちらを見ていた。
「あなたは、分かるでしょう?」
あの時と同じ声だ。
不意に場面が切り変わる。
横たわる弟の額は、焼けるように熱い。私は必死に、震える指先に魔力を集めようとしていた。
——これを使えば、少しは楽にしてあげられる。
「だめ」
背後から、突き刺すような声がした。私は振り返る。
「どうして……?」
夢の中の私は、泣きじゃくっていた。
「少しだけなら……弟のために、使わせて」
母は、静かに首を横に振る。
「ここでは、いけないの」
「ここでは……?」
「あなたは、賢い子よ」
その言葉は、慈しむように優しかった。でも、その瞳に宿っていたのは愛情だけではない。
母が怖れているのは、魔法そのものでははなかった。
——価値。そして、つけられる値段。
その瞬間、夢の景色がガラスのようにひび割れた。継母の耳障りな笑い声。宝石を数える細い指。父の重苦しい沈黙。
――そして、守るように立ちふさがった母の背中。
はっきりとした言葉を聞いたわけではない。けれど、すべての理由が、すとんと胸の奥に落ちてきた。
あそこで、光を見せてはいけなかったのだ。
目が覚めた。夜はまだ深い。けれど、ざわついていた胸の奥は、不思議なほど静かだった。
「……そういうことだったのね」
母は、私を縛ったのではない。守っていたのだ。私は布団の上で、体の中の澱みを追い出すように、ゆっくりと息を吐いた。
「お母様」
あの人は、どんな時も泣かなかった。だから、私も泣かない。
数日後のパーティー。私はもう、値をつけられるためにあそこに立つのではない。
自分の足で歩くために、自ら選んで舞台に立つ。
そのことだけは、もう迷わない。
……さあ、進みましょう。




