第74話 同じ方向
その日、王子は執務室の窓辺に佇んでいた。差し込む夕映えが、机の上に積み上げられた書類を赤く染め上げている。
リーナは、そこから数歩下がった位置で静かに控えていた。
「……今日は、ここまででいい」
不意に、王子が短く告げた。
「はい」
返事はいつも通り、淀みない。けれど、王子は彼女から視線を外そうとしなかった。
「リーナ」
「はい、殿下」
一拍。言葉を選ぶための、濃密な沈黙が流れる。
「……俺は」
そこで王子は一度、唇を引き結んだ。逃げるためではない。覚悟を決め、言い切るためだ。
「立場を理由に、何もしないつもりはない」
リーナは、驚いたように瞬きをした。
「殿下……?」
「ただし」
王子は、さらに言葉を重ねる。
「急がせるつもりもない。決めるのは、君だ」
部屋の中が、しんと静まり返る。リーナは視線を落としたまま、しばらくの間、言葉を探しているようだった。
「……私は」
紡がれた声が、かすかに震えた。
「逃げません」
たった、それだけだった。愛の告白ではない。明確な約束でもない。だが、王子にははっきりと伝わった。
——二人は今、同じ方向を見ている。
王子は、深く、ゆっくりと頷いた。
「それでいい」
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報告を受けた王女は、ふっと満足そうに息を吐いた。
「そう」
その一言だけで、すべてを察したのだろう。傍らに立つ侍女長が、控えめに問いかける。
「……よろしいのですか?」
王女は、ようやく顔を上げた。その表情は穏やかで、確信に満ちている。
「ええ。もう十分です」
ペンを取り、書類の上にそっと手を置いた。
「では——進めましょう」
その一言には、抗いがたい重みがあった。準備は整っている。道は、すでに引かれている。あとは迷わず踏み出すだけだ。王女の唇が、小さく弧を描いた。
——さあ。ここからが、本当の始まりよ。




