第69話 真っ直ぐな言葉
その日の夕方。王子が廊下を歩いていると、背後から小さな足音が追いかけてきた。
「お兄さん」
呼ばれて足を止める。振り返ると、そこにはノアが立っていた。以前よりも少しだけ、その背筋は真っ直ぐに伸びている。
「どうした?」
王子の問いかけに、ノアは一度、視線を床に落とした。考えているというよりは——心の中にある言葉を、丁寧に選んでいるようだった。
「……僕ね」
小さく息を吸い込み、顔を上げる。
「ここ、好きなんだ」
王子は何も言わず、ただその言葉を受け止めた。
「姉ちゃんと一緒にいられるし。ちゃんとごはん食べて、ちゃんと眠れて」
かけがえのない日常を慈しむように、ノアは言葉を繋いでいく。
「それで……」
一拍。
「それ、全部」
ノアは、逸らさずに王子を見つめた。
「お兄さんが守ってくれてるからだよね」
王子の胸の奥で、何かが静かに、けれど確かに音を立てた。
「姉ちゃんのことも、僕のことも」
ノアは少しだけ照れくさそうに、ふいと視線を逸らす。
「だから……ありがとう」
それだけだった。見返りを求めるわけでも、甘えるわけでもない。小さく頭を下げたその姿は、今の自分たちが置かれている幸せを、ただ正しく理解しているという証だった。
「僕、ずっとここにいたい」
最後にぽつりと零して、ノアは踵を返した。
「じゃあね」
軽やかな足音が遠ざかっていく。王子はその場に立ち尽くしたまま、動くことができなかった。
——守ってくれて、ありがとう。
それは報告でも評価でもなく、今ここにある幸せの「確認」だった。王子は、ゆっくりと息を吐く。確かに、守っているつもりではいた。
だが、いつの間にか——自分のほうが、この場所を失いたくなくなっている。
その事実から、もう目を逸らすことはできなかった。
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