第68話 釣書と葛藤
執務室は、しんと静まり返っていた。昼の喧騒が引き、夕刻へと向かう穏やかな時間。書類をめくる音だけが、規則正しいリズムで室内に響いている。
「失礼いたします、殿下」
静寂を破り、扉の向こうから現れたのは、先日の会議にも顔を出していた老臣だった。王子は顔を上げ、短く頷いて応える。
「何か用か?」
「ええ。先日お話しした件でございますが——」
老臣の言葉選びは慎重だった。だが、その用向きは言わずとも分かっている。老臣は懐から一通の書類を取り出し、恭しく机の上に置いた。
「こちらが、釣書でございます。一度、目を通しておいていただけますかな」
王子の視線が、その紙に向けられた。指先に伝わる確かな厚み。整えられた美しい筆致。記された家名、持参金、年齢。——それは、どこからどう見ても申し分のない、完璧な条件だった。
「……分かった」
短く答え、書類を受け取ると、老臣はそれ以上何も言わず、深く一礼して退室した。扉が閉まり、再び静寂が訪れる。室内に残されたのは、王子と——釣書だけだった。
王子は、しばらく動かなかった。視線は書類に落ちているのに、文字が滑って内容が頭に入ってこない。
――婚約。王族である以上、避けて通れない義務だ。分かっている。理解もしている。今さら子どものように反発するような年齢でもない。
——なのに。
紙を一枚、めくってみる。丁寧に綴られた文字を追う。だが、心が動く気配は少しもなかった。
「……」
溜息にもならない、かすかな吐息が喉から漏れた。条件は完璧だ。だが、そこに心を動かす「決め手」がない。かといって、強い嫌悪があるわけでも、拒絶したい理由があるわけでもないのだ。
ただ——心が、どうしても決まらない。
王子は、釣書を机の端に寄せた。引き出しには入れなかった。今の自分にとって、それを視界から完全に消し去ってしまうのは、まだ早い気がしたのだ。
――自分が、一体何に迷っているのか。
それを言葉にして認めてしまうのが、今はまだ、怖かった。




