第67話 聞こえてしまった
その話をリーナが耳にしたのは、決して意図したものではなかった。王女宮の回廊。書類を運ぶ途中で不意にすれ違った侍女たちの会話が、風に乗るように入り込んできただけだ。
「……殿下の御婚約、そろそろだそうよ」
「会議でも、具体的なお名前が出たって話じゃない」
「まあ、御年齢を考えれば当然のことよね」
声は低く、密やかなものだった。だが、語られている内容は隠しようのない事実だ。リーナは歩みを緩めることはなかった。顔色ひとつ変えず。書類を抱えた腕の位置も、指先ひとつ動かさない。
——そうなのだろう。
それが、最初に浮かんだ感想だった。王子が婚約者を決める。それは特別な事件ではない。むしろ、遅いくらいだ。頭では痛いほど理解している。それでも、胸の奥に冷たい棘が引っかかるような感覚だけは、どうしても消えなかった。
執務室に戻り、書類を所定の位置へと置く。王女は机に向かったままで、こちらの入室にはまだ気づいていないようだった。リーナは、いつも通り背後に控えた。
——聞いてはいけない。
——考えすぎてもいけない。
そう自分に言い聞かせているのに、王子の声が記憶の底から浮かび上がってくる。的確な指示の出し方。ふとした瞬間に落ちる、迷いを含んだ沈黙。「助かる」と、短く向けられたあの声。
——それだけのことだ。
それだけ、と切り捨てられるはずの記憶を、どうして今さら思い出してしまうのか。リーナは理由を探すのをやめた。自分は侍女だ。役割は何も変わらない。部屋を整え、書類を仕分け、必要とされれば補佐に回る。それ以上でも、それ以下でもない。
——そう、決めていたはずだった。
「リーナ」
王女の澄んだ声に、はっと我に返る。
「こちらの件、後で整理しておいてもらえるかしら?」
「……はい」
返事は、いつもの調子だった。声も表情も乱れていない。王女は一瞬だけ、探るようにリーナの様子を窺った。だが、追求することはしなかった。それが、今のリーナには何よりも救いだった。
その夜。ノアと共に本を閉じたあと、リーナは一人、部屋の灯りを落とす。
——当然のこと。
——分かっていたこと。
呪文のように心の中で繰り返しながら、胸の奥のざわめきから目を逸らした。まだ、決定的なことは何も起きていない。まだ、何も決まってはいない。
だから今は——何も考えないことにしよう。そう決めて、瞼を閉じた。
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