第64話 静かな補佐
王女の執務室は、午前中から慌ただしさに包まれていた。
机の上には書類の山が築かれ、分類された束が次々と入れ替わっていく。リーナは、王女の少し後ろ――けれど、もう「離れた場所」ではなく、机の傍らに控えていた。
書類を受け取り、目を走らせ、静かに別の束へと移す。分類は早いが、決して急がない。王女が一枚の書状を手に取り、ふと眉をひそめた。
「……あら? これは、どうだったかしら」
独り言のような呟きだった。それでも、王女は書類から視線を外さぬまま問いかけた。
「ねえ、リーナ」
リーナは、即座に淀みなく答えた。
「北部の件でしたら、今月分は保留です。先方の返答待ちですので」
王女の手が止まる。
「理由は?」
「雪解けが遅れているため、輸送路が確保できていません。予定を前倒しすると、かえって滞ると判断されました」
淡々とした説明だった。手元にメモはなく、該当の書類も、すでに別の束に戻されている。王女は、ゆっくりと顔を上げた。
「……そうだったわね」
それだけ言って、書類を横へ置く。控えていた侍女長が、その様子をじっと見守っていた。気づかれぬよう、ほんの少しだけ距離を詰める。
「確認ですが」
侍女長が声をかける。
「その判断をしたのは、誰でしたか」
試すような声音ではない。だが、答えの正確さを見定めている。
「現地の管理官です。過去三年分の記録でも、同様の対応をしています」
間髪入れず、リーナは答えた。
「今年は特に凍結期間が長引いているとの報告でしたので」
侍女長は視線を落とし、手元の書類に目を通す。そこには、確かにリーナの言った通りの記述があった。
「……ええ。相違ありません」
侍女長は、静かに言った。
「リーナ、あなたは記録を手元で取っていませんでしたよね?」
「はい」
リーナは否定も弁明もしない。
「聞いた内容を、順番通りに記憶しているだけですので」
さらりと言ってのけた彼女に、王女は思わず小さく吐息を漏らした。
「重宝するわね、あなたは」
冗談めかした響きだったが、そこには明らかな敬意が混じっていた。
「覚えるのは、苦ではありませんので」
リーナは、いつも通り淡々と応じる。侍女長は、そのやり取りを見つめてから、満足げに深く頷いた。
——この子は、もう単なる「掃除の侍女」ではない。
書類が、また一つ片づけられる。その横で、リーナは迷いなく次の束を手に取った。仕事は、まだ続く。
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