第62話 お医者様と弟
診察室の中は、とても静かだった。白いカーテン越しに差し込む光は柔らかく、漂う薬の匂いもきつくない。ノアは長椅子に深く腰掛け、医師の言葉をじっと待っていた。
「今日はどうかな。息苦しさはあるかい?」
「……少し、あります。でも、前……ここに来る前よりは、ずっと良いです」
途切れ途切れの答えでも、医師は決して急かさない。深く頷きながら、手元の紙にペンを走らせる。
「そうか。無理はしていないかな?」
ノアは小さく首を振った。それから、迷うように少しだけ視線を上げる。
「……先生は、どうして、お医者様になったんですか」
不意の問いかけだった。医師は一瞬だけ驚いたように目を瞬かせ、それから穏やかに目を細めた。
「困っている人の話を、ちゃんと聞ける人になりたかったからかな」
「……聞くだけ、ですか?」
「うん。分からないことは、『分からない』って言ってもらえないと、本当には助けられないからね」
ノアはその言葉を、宝物のように胸の中で反芻する。医師は続けた。
「だから、君が今みたいに一生懸命話してくれるのは、私にとって、とても助かることなんだよ」
その一言で、ノアの肩からふっと力が抜けた。責められない。叱られない。自分の言葉を、ちゃんと受け止めてくれる。
――僕も、こういう人になりたい。
診察を終えて廊下に出たとき、ノアはこぼれ落ちるように呟いた。
「……勉強、したい」
隣を歩いていたリーナは足を止め、弟の顔を覗き込む。
「どうして?」
「先生みたいに……ちゃんと、話を聞ける人になりたいんだ」
言葉は拙いけれど、その瞳に迷いはなかった。リーナは一瞬だけ愛おしそうに目を伏せ、それからゆっくりと頷いた。
「……そうね。きっと、なれるわ」
その夜。ノアの荷物を整理していたリーナは、一冊の古い絵本を見つけた。表紙は擦り切れ、角は丸く潰れている。
「これ……」
「字、これで覚えたんだ」
ノアは少し照れくさそうに、けれど大切そうに言った。
「全部は、分からない。でも……絵があるから、なんとなく」
絵の下に並ぶ、短い言葉。それだけを必死に拾い集めて、彼は外の世界を知ろうとしてきたのだ。そのひたむきさが、リーナには痛いほど伝わってきた。
次の日、その話をリーナから聞いた王子は、少し考えてから静かに告げた。
「図書館の絵本は、好きに読んでいい」
ただし、条件は一つだけ。
「毎晩、一冊だけだ」
ノアにとっては、それで十分だった。夜になると、姉弟は並んで絵本を開く。一文字ずつ、声に出してなぞっていく。分からないところは、今は飛ばしてもいい。最後まで読めなくても、構わない。幸いなことに、リーナは既に、ほとんどの絵本を読み解けるだけの語学力が身についていた。
絵本を読んだ翌日、ノアはその感想を王子に伝える。
「昨日は、白い犬のお話でした。最後が、少しだけ、さみしかったです」
王子はそれを聞いて、ただ「そうか」と短く頷く。そんな穏やかな日常が、少しずつ、当たり前の景色になりつつあった。
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