第61話 ノアが来る日
王宮の門は、ノアが想像していたよりもずっと高かった。見上げた瞬間、首が痛くなって、思わず一歩後ずさる。石は白く、きれいに整えられているのに、どこか冷たく見えた。固く閉じられたままの大きな扉は、ノアにとって「入っていい場所」には到底思えなかった。
隣には、姉が立っている。リーナは、いつもと同じ服装だった。王宮で働く時の、静かな色の衣装。特別な日だというのに、着飾ることも、気負うこともしていない。ただ、いつも通り、凛としてそこに立っている。
「……ここ、なの?」
小さな声で尋ねると、リーナは一度だけ頷いた。
「そう。ここから中に入るのよ」
それだけだ。大丈夫だとか、怖くないとか、気休めは言わない。ノアはそれが少しだけありがたかった。
門が開く音は、重かった。「ぎい」と低く唸るような音に、ノアの肩がびくりと跳ねる。中から出てきたのは、甲冑を纏った門番だった。鋭い視線が、ノアとリーナに向けられる。
ノアは、反射的に姉の後ろに半歩隠れた。——怒られるかもしれない。知らないことを、責められるかもしれない。けれど――。
「お待ちしておりました」
門番の声は、穏やかだった。威圧するような強さはない。彼はリーナに向かって、丁寧に頭を下げた。
「……どうぞ、こちらへ」
それだけで、咎められることもない。ノアは目をぱちくりとさせた。怒鳴られない。急かされない。理由を問い詰められない。ひどく不思議な感覚だった。
王宮の中は、広かった。けれど、少しもうるさくはなかった。足音は高く響くのに、誰も走らない。誰も叫ばない。人はたくさんいるのに、空気が少しもざわついていないのだ。
「……変なの」
思わず零すと、リーナがわずかに首を傾げた。
「何が?」
「……誰も、怒ってない」
リーナは少しだけ目を伏せた。それから、ほんの一瞬考えて、
「……そうね」
とだけ答えた。それ以上の説明はしない。でも、その声には、確かな体温が宿っていた。
案内された部屋は、想像よりもずっと広かった。ベッドが二つと、大きな机まで置けるほどだ。窓からは柔らかな光が差し込んでいる。壁際には、簡単な仕切りを立てられる余地もあった。
「ここで……いいの?」
ノアが聞くと、リーナは少し考えてから答えた。
「足りなければ、あとで考える。でも……今は、ここがあなたの場所よ」
ノアは、ベッドにそっと手を伸ばした。自分のために用意された場所。使っていいと言われた空間。胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
「……姉ちゃん」
「なに?」
「……ここ、帰ってきていい場所?」
リーナは、すぐに答えなかった。少しだけ間を置いて、それから、言い聞かせるようにはっきりと言った。
「ええ、ここはあなたが帰ってきていい場所よ」
その言葉を聞いた瞬間、ノアの視界がにわかに滲んだ。泣くつもりなんてなかった。ただ、喉の奥が詰まって、うまく息ができなかった。リーナは何も言わず、そっと隣に寄り添う。肩に触れない。抱きしめない。けれど、決して離れない。
遠くで、誰かが二人を見守っていた。それは王子だったが、声をかけることはしなかった。今、この瞬間は、自分が入っていい場所ではないと分かっていたからだ。
ノアは、乱暴に袖で目を拭った。
「……姉ちゃんが決めたなら、ここにいる」
リーナはわずかに目を見開いた。それから、小さく安堵の息を吐く。
「ありがとう」
その声は、完璧に律された「侍女」のものではなかった。感情を押し殺したものでもなかった。
——それは、ノアの大好きな、ただ一人の姉の声だった。
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