第60話 並ぶ場所
朝は、いつも通りに始まった。王女宮の廊下を拭き、窓を開け、空気を入れ替える。布に伝わる重さも、床の確かな感触も、昨日と変わらない。リーナは膝をつき、端から順に、丁寧に手を動かしていく。
日課の掃除は、今も続いている。けれど、合間に机へ向かう時間も増えた。王女の執務の傍らで文字をなぞり、帳簿の書き方を覚える。分からないところを、そのままにしない。夜、灯りを落とす前に、もう一度だけ自分でおさらいする。
勉強も、着実に続いていた。時折、王子のもとへ足を運ぶこともある。伝言を運び、書類の整理を手伝い、人名や順序を間違えないように記憶に刻む。頼まれた以上の出過ぎた真似はしない。だが、求められている役割は、きちんと全うする。
仕事も増えた。けれど、立場は変わっていない。肩書きも、前のままだ。
——それでも。
王女は、リーナを見る時、もう“使う側”の冷めた目をしていなかった。侍女長は、単なる管理対象としてではなく、教え子を見守るような距離で見ている。王子は何も言わないが、決して背を向けない位置に立っている。並んでいるわけではない。同じ高さでもない。けれど、見据えている方向は同じだ。
ある日、王女がふと口にした。
「無理はしていない?」
「はい」
答えは、以前と変わらない。だが、その声からは、もう迷いや揺れが消えていた。
夜、部屋に戻り、リーナは窓を開ける。外の空気は、少し冷たい。遠くで、王城の灯りが静かに揺れている。
——ここにいる。
それは、誰かに与えられた居場所ではない。自分で選び、積み上げて、ようやく立ち止まった場所だ。掃除をし、学び、働く。明日も、同じことを繰り返すだろう。けれど、その積み重ねの先に、自ら選べる道があることを、リーナはもう知っている。
隣に並び立てるかどうかは、まだずっと先のことだ。けれど、ここにいていいのだと、立ち去らずにいてくれる人がいる。それだけで、今は十分だった。リーナは、そっと灯りを消す。
部屋を出ようとしたところで、外の足音と重なった。
「……まだ起きていたか」
不意に届いた低い声に、リーナは小さく肩を跳ねさせた。振り返ると、王子が廊下に立っていた。執務を終えた帰りなのだろう。灯りの落ちた薄暗い廊下では、互いの距離が思ったよりも近く感じられた。
「はい」
それだけ答えて、すれ違おうとした、その時だった。
袖が、かすかに引っかかる。
王子の手が、ほんの一瞬だけ、リーナの指先に触れた。
「……っ」
息を呑む音が、二つ重なる。
「失礼」
「いえ……」
ほとんど同時に言葉を交わし、すぐに手を離す。触れていたのは瞬きをするほどの間だ。けれど、離れたあとも、リーナの指先には熱が居座り続けたままだった。
視線を上げると、王子がわずかに顔を背けている。その横顔が、いつもより硬く、強張っているように見えた。
「……無理はするな」
それだけ言い残して、王子は足早に歩き出す。
「はい」
返事は、いつも通りのつもりだった。
けれど、胸の奥が騒がしい。頬がじんわりと熱を帯びていく。自分だけではないと、分かってしまった。すれ違いざまに盗み見た王子の耳元が、痛いほど赤かったから。
——意識している。
それを、はっきりと自覚してしまった。
リーナは、熱の残る指先をそっと握りしめる。
掃除も、勉強も、仕事も、明日からまた続いていく。
けれど、この胸の熱だけは、きっと、簡単には消えてくれない。
それでいい。前に進むのは、ほんの少しずつでいい。
今は——互いの心に気づいてしまった、それだけで十分だった。
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