第59話 王子の選択
その夜、王子は一人で執務を続けていた。書類は片付いている。急ぎの案件もない。だが、灯りを落とす気にはなれなかった。昼間のやり取りが、どうしても頭を離れない。
——私は、侍女です。
線を引く声。丁寧で、穏やかで、けれど拒絶ではない。それでも、そこにははっきりとした距離があった。王子は机に肘をつき、指を組む。近づいたのは自分だ。頼ったのも自分だ。
それを、彼女は受け止めた。だが、同時に押し戻した。自らの立場を、正しく守る形で。——正しい。正しいからこそ、胸に引っかかる。
翌日。王女の執務室を訪ねたのは、王子の方からだった。
「少し、いいか」
「ええ」
王女は、手を止めずに応じる。
「……あの侍女の件だ」
王女は顔を上げた。視線は静かだ。探るような色はない。
「線を引かれた」
王子は、事実だけを言った。
「当然ね」
即答だった。
「彼女は、自分の立場を越えたりしないわ」
「分かっている」
王子は、短く息を吐く。
「だから、だ」
王女は、ようやく筆を置いた。
「越えさせる気?」
「……いや」
王子は首を振る。
「越えるなら、こちらが引き受ける」
それは、感情の話ではなかった。立場の話だった。責任の所在を、どこに置くかという判断。
「彼女が線を守るなら、俺がそこを越える」
王女は、しばらく黙っていた。それから、静かに問う。
「覚悟はあるの?」
「逃げない程度には」
王女は、小さく笑った。
「随分、控えめね」
「性分だ」
王子は立ち上がる。
「今すぐ何かを求める気はない。ただ——」
言葉を切り、続けた。
「このまま“便利だから”“役に立つから”という理由だけで終わらせるつもりもない」
王女は、兄をじっと見つめた。
「それは……お兄様の選択?」
「そうだ」
告白ではない。約束でもない。だが、自分の立場を賭けるという意思表明だった。王女は、ゆっくりと頷く。
「そう。分かったわ」
それ以上、言葉はいらなかった。執務室を出たあと、王子はふと足を止めた。
——逃げない。
それだけを、胸に刻む。踏み込む時は、相手の世界を壊さないように。線を引かせずに済む形で。王子は、ようやく一つ、選んだ。隣に立つかどうかは、まだ先だ。
だが——立ち去らないことだけは、心に決めた。
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