第58話 近過ぎる距離
その日は、朝から王女の執務室が慌ただしかった。来客の予定が重なり、処理すべき書類も山積している。リーナがいつものように控えの位置に立っていると、ふいに王女が顔を上げた。
「今日は、こちらは私と侍女長で回すわ」
王女はそう告げて、リーナをまっすぐに見つめる。
「あなたはお兄様のところへ行ってちょうだい。あちらは少し、人手が足りないそうなの」
それは命令ではない。だが、リーナに断る余地を与えない響きがあった。
「……承知いたしました」
リーナは一礼し、その場を離れた。
王子の執務室は、想像していたよりもずっと静かだった。書類の数は多いが、話し声は極端に少ない。王子の出す指示は簡潔で、余計な感情が一切混じらない。
リーナは指定された位置に控え、必要とされる時だけ音もなく動いた。伝言を正確に覚え、書類を整理し、訪問者の名前と時刻を取り違えないよう細心の注意を払う。
あくまで、臨時の手伝い。それ以上でも、それ以下でもない。けれど王子は、いつの間にか自然な動作で彼女を頼るようになっていった。
「この件は、さっきの順番で進めていい」
「次の来客は、五分遅れると伝えてくれ」
短い言葉。細かな説明は省かれている。だが、それはリーナの能力を認めているからこその省略だった。彼女なら理解しているという前提で、言葉が手渡される。リーナもまた、その期待に完璧に応えた。聞き返さない。迷わない。そして、間違えない。
——お役に立てている。
そう実感した瞬間、胸の奥が小さく跳ねた。だが同時に、かすかな違和感も芽生える。
――距離が、近い。
それは物理的な空間の話ではなかった。声の響き、向けられる視線。自分が単なる「使われる側」から、信頼を置かれる「任される側」へと近づいていく感覚。
それは誇らしく、そして——恐ろしいほどに危うかった。ある時、王子がふとした拍子に口にした。
「その判断で構わない。助かった」
それは正当な評価だった。軽い一言かもしれないが、確かに自分個人へと向けられた言葉。リーナは一拍遅れて、深く頭を下げた。
「恐れ入ります」
応える声が、わずかに硬くなる。王子は、その変化に気づいたのか、ペンを止めて視線を上げた。
「どうした?」
「……いえ」
否定は、即座だった。
「私は、侍女ですので」
言葉遣いは丁寧だが、その響きには明確な拒絶に似た意志がこもっていた。
「本日は王女殿下のご指示で、お手伝いに上がっているに過ぎません。私情で判断を下す立場ではないのです」
明確に線を引かれたのだと、王子は悟った。臨時。補助。それ以上でも、それ以下でもない。王子は、それ以上何も言わなかった。否定も、引き留めもしない。ただ、短く頷いただけだった。
「……分かった」
その一言で、通い合いそうになった空気は途絶えた。再び執務の音が響き始める。距離は、あるべき場所へと戻った。必要なやり取りだけが残り、余分な温度は消えていく。
これでいい。それが正しいのだ。自分にそう言い聞かせる。
——そう、思うはずだったのに。
リーナが部屋を辞したあと、王子は一人、机に向かったまま動けずにいた。彼女が便利だからではない。優秀だからでもない。引かれた境界線の冷たさが、思った以上に胸に深く刺さっている。
あの線は拒絶ではない。むしろ、自分たちの立場を守るための、彼女なりの防衛なのだ。
王子は、ゆっくりと熱を逃がすように息を吐いた。
——近づいたのは、俺のほうだったか。
その事実を、ようやく自覚する。このまま逃げるのか、それとも強引にでも踏み越えるのか。それ選ぶのは、まだ先の話だ。
だが——引かれた線をそのままにしておくつもりは、もう彼の中にはなかった。
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