第57話 王子の執務補助
それは、忙しさが重なった日のことだった。
王女の執務は朝から立て込んでおり、来客も絶えない。机には書類が次々と積まれ、即座に判断を要する案件が山積みになっていた。リーナは控えの場所に立ちながら、王女の指示を静かに待っていた。
ふと、王女が小さく息を吐く。
「……今日は、どうしても手が足りないわね」
独り言のような呟きだったが、すぐにその視線がリーナへと向けられた。
「リーナ。決まったことがあるなら、お兄様に伝えてくれる?」
唐突な指示で、詳しい説明はない。けれど、リーナにはそれだけで十分だった。
「お兄様の受け持ちよ。弟さんの件も含めて。私は今、ここを動けないから」
決して押し付ける言い方ではなかった。判断を丸投げするわけでもない。ただ、信頼して「繋ぐ役」を託すような声音だった。
「……承知いたしました」
リーナは一礼して、部屋を後にした。
王子の執務室は、王女宮から少し離れた場所にある。扉の前で一度、深く呼吸を整えてから、静かにノックをした。
「どうぞ」
中にいた王子は、手元の書類に目を落としていた。顔を上げ、リーナの姿を認めると、わずかに目を瞬かせる。
「珍しいな。王女の使いか?」
「はい」
それだけで、王子は状況を察したようだった。手元の書類を閉じ、椅子に深く座り直す。
「聞こう」
短い言葉だったが、急かすような冷たさはない。
リーナは、必要なことだけを簡潔に伝えた。弟からの返事。一緒に来たいと選んだこと。王女がその準備を進めるつもりでいること。そして——王女からの言伝。
「詳細は、殿下の管轄だと伺っております」
王子は、しばらく黙っていた。
それは書類の内容や、制度や手続きを確認するための間でもない。一人の人間がもう一人の人間を選んだ、その重みについて考えているような沈黙だった。
「……そうか」
やがて、静かに頷く。
「それでいい」
理由は語られない。だが、そこには否定も、迷いもなかった。
「住まいの手配と、医師の工面はこちらで引き受けよう。二人で過ごすには、今の部屋は少々手狭だろうからな」
淡々と、当たり前のことのように言葉を続ける。
「二人で住める部屋を用意する。必要なら仕切りも作らせよう。……成長を見越してな」
リーナは、思わず言葉を失った。
「……よろしいのですか」
「決まったことならな」
王子は、視線を書類に戻した。
「恩を着せるつもりはない。だが、困ると分かっていることを放っておく趣味もないだけだ」
それだけだった。過剰な優しさも、仰々しい言葉もない。ただ、状況を冷静に整理し、先を見据えて手を打つ。仕事としての振る舞い——けれど、それだけではない温かさがそこにあることを、リーナも感じ取っていた。
「……ありがとうございます」
深く頭を下げると、王子は小さく手を振った。
「礼には及ばない。伝言役、ご苦労だった」
執務室を出て廊下へ出たところで、リーナはそっと胸に手を当てた。心臓の鼓動が、少しだけ速い。助けられた、という安堵ではない。「一緒に考えられた」という確かな手応えだった。王女のもとへ戻る足取りは、いつの間にか、わずかに軽くなっていた。
——この人のもとで、働きたい。
ふいに浮かんだ考えを、リーナはすぐに打ち消した。まだ、自分一人では、掃除以外にまともにできることなど何もないのだから。
でも——あの人の力になりたい、と強く思った。
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